松下政経塾内閣の誕生 ―新自由主義体制の再構築へ―
- 2011年 9月 2日
- 時代をみる
- 二大保守政党独裁半澤健市松下政経塾野田政権
09年8月の政権交代をみて私は「二大保守党独裁の誕生」と書いた。
その後の2年間に、保守の独裁は強化され、「大政翼賛体制」の完成が近い。
それが私の見立てである。ならばこの間に日本の外交、政治、経済はどう変わったのか。
《日本の外交はどう変わったか》
第一。日本外交は対米従属を強めた。沖縄の普天間基地の移転先は国外へ、最低でも県外へといった鳩山由紀夫の対米外交は失敗に終わった。その結果、そもそも鳩山の目標が誤りであってそれが日米の関係悪化を招いたと批判された。鳩山は、日・中・米は正三角形の関係が望ましいとも言っていた。鳩山の対米自立の意欲が消滅したのは、鳩山自身に最大の責任がある。しかし「殿乱心」と鳩山を押さえ込んだ外務・防衛官僚、結果だけで日米関係悪化を言いつのるメディア、観客席で見物していた我々にも大きな責任がある。
現在、米国外交は相手としては中国しか眼中にないのだ。言いなりにならぬ新興国を、どうあやして借金(中国による米国国債の保有)を続けていくか。いや増やしていくか。それに尽きるだろう。言いなりになる日本をあやす必要はない。脅かせばカネは出てくる。大震災が起きても米国債を売る気配もない。米国の財政難は、いずれ海外米軍基地の大規模な撤退を余儀なくさせよう。その時でも「思いやり予算」を組んで日米同盟の「深化」と「海兵隊の抑止力」を信ずる日本から彼らは撤退する気にはなるまい。それどころか日米同盟の前線は地理的概念ではないのだから国際貢献に名を借りて地球の裏側まで日本軍の派兵を要求してくるだろう。
米国政府の資料から対米従属を示す事実が次々に明らかになっている。歴史研究者の成果である。しかし政治、官僚、メディア、国民の殆どが驚き、怒り、反発する気力を失っている。
《日本の政治と経済・「マニフェスト」の運命》
第二。日本政治の官僚依存体質は極めて健康である。
福島原発事故の原因を作り事故対策を誤りチェルノブイリ以上の放射能を制御できていない者たち。個人的資質、能力が如何に優秀であろうが、また、主観的にはいくら懸命に取り組んできたと言い張っても結果責任の「企業社会」であり結果責任の「政治の世界」である。どぎつく言う。昔であれば「磔」、「獄門」の刑に値する犯罪である。「有司専制」は140年の伝統をもつ。容易に壊れるとは思わない。だが交代した政権による官僚制への統御がこんなに甘いとは思わなかった。「磔」、「獄門」に値する犯罪者が、割増込みで数千万円の退職金を貰って退場する。トップはそれを「更迭」と言うのである。
第三。弊履(へいり)の如くに捨てられた「マニフェスト」。
これが過去2年間の経済政策の運命であった。
政権交代に際して私は2種類の人々が新政権を造ったと思った。一つは小泉純一郎の構造改革が不十分で更なる推進をいう人々である。主に大企業につながり都市に生活する人々である。構造改革になお確信を抱く人々である。二つは、構造改革はもう沢山だ、それは自己責任の名によるリストラの自由、非正規雇用労働者を増大させる。現に大企業従業員の40%は非正規労働者であることが最近わかった。そんな構造改革は止めよという人々である。二つの考えは真正面から衝突する。この対立は一人一人の心中にもある。ややこしい問題である。その対立は、「バラマキは止めよ」の大合唱が大勢を制した。民主党「マニフェスト」の清新性は、大人の論理によって弊履となったのである。高校無償化をバラマキという人は、なぜ義務教育をバラマキといわないのか。バラマキの当否を決めるのは、人間の歴史と進歩を示す道標である。
《対立軸は決してなくならない》
この2年間で、外交、内政、経済の3面で「政権交代」時にあった民主党らしさはことごとく失われた。民主党の敗北である。お前は最初に「二大保守党独裁の誕生」と見たのだから「敗北」は当然ではないか。「敗北」という言葉に意味がないと読者は私を批判するであろう。それは尤もな指摘である。しかし私は、「構造改革はもう沢山だ」という人々の魂が、もっと力強い「こだま」となって全国に飛び交い、永田町や霞ヶ関にも反響すると思っていたのである。この期待が大甘だったところへ震災が起こった。
これは決定打となった。「がんばろう日本」、「挙国一致」、「国益」、「国難」、「大連立」、「財政規律強化」の声は益々高い。ナショナリズムの名による増税路線の正当化である。復興には規制緩和が必要だという構造改革の復活である。
更に問題なのは「松下政経塾」総理の誕生である。松下政経塾については2年前に「警戒すべき政界の松下政経塾一派」を書いた。私の意見でなく、政治学者渡辺治氏(現在は一橋大学名誉教授)の論文の紹介であった。渡辺分析の先見性と洞察力を読者は下記の再録でぜひ熟読して欲しい。
対立軸は、必ず憲法、民主主義、様々な平等、生存権といった原理、信条を基軸に設定されなければならない。勿論、政治は駆け引き、権謀術数、権力闘争の世界である。しかし現在のメディアも、人々も、人間関係だけが政治を動かしていると考えている。これは事柄の本質を忘れた過度の単純化である。
《「海江田VS野田」の背後には》
たとえば「親小沢VS反小沢」の図式だ。それは私の言う二つの魂の戦いが「海江田VS野田」という形で現れているのである。確かに、ねじれ、ゆがみを含む。対立軸の原型がわからぬほどグロテスクな相貌を見せている。だがその背後には「政権交代」に素朴に期待した人々の声が隠されているのである。
新党首争いは新自由主義者同士の決戦であった。リベラルで福祉国家を理想とする立場からみると非情・無残な構図である。このことは我々に、悔恨と反省、そしてラジカルな再生を迫っていないだろうか。
■以下にある過去の拙稿をお読みいただければ幸いです。
「警戒すべき政界の松下政経塾一派」2009年8月6日 http://chikyuza.net/modules/news1/article.php?storyid=717
「『政権交代』は『二大保守党独裁』の誕生」、2009年9月1日 http://chikyuza.net/modules/news1/article.php?storyid=751
「鳩山首相退陣の意味」、2010年6月4日 http://chikyuza.net/archives/1061
「真の争点なき参院選の無惨」、2010年7月9日http://chikyuza.net/archives/1873
「民主党代表選の意味は何か」、2010年9月17日 http://chikyuza.net/archives/1873
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