哲学者・廣松 渉の没後30年に寄せて
- 2024年 6月 11日
- カルチャー
- 合澤 清廣松 渉
1994年5月22日に60歳でお亡くなりになった廣松渉先生は、著名な哲学者としての顔だけでなく、数々の武勇伝をお持ちの方であった。先生を偲びながら、そのうちのほんのいくつかを書いてみたいと思う。
まず、順序から言って、哲学者廣松から始めるのが正論であろうが、もちろん、ここで難解な廣松哲学を正面切って論じようとは思わない。あくまで逸話を述べるに留めたい。
廣松は数多くの著書・論文を書いているが、いずれも難しい漢語と横文字に溢れている。たいていの読者は、最初のページを開いたとたんに辟易してすぐに本を閉じたくなるほどである。使われている漢語も並みの難字ではない。普通に市販されている「漢和中辞典」程度では見つからないほどだ。
しかし、不思議に廣松の文体は魅力に富んでいたのも事実である。1970年から80年代にかけて、多くの学生が廣松流の漢語交じりの文体をまねて文章を捻くったものだ。
或る時ご当人に直接尋ねたことがあった。「こんな漢字は辞書を探しても見つからなかったのですが…」と。本人は平然とこう答えられた。「君はどういう辞書で調べたのかね、中辞典程度には載っていないよ。『漢和大事典』に当たってごらん、見つかるから」と。
こう切り出すと、いかにも廣松ご本人もしかつめらしい、謹厳実直な哲学者で、近寄りがたいと思われるに違いない。ところがである。彼の話を研究会で初めて聞いたという人がいたが、その人がいみじくも廣松さんに向かってこう感想を述べた。
「先生の本は何とも読みずらかったのですが、読むのと実際に話を聞くのとでは大違いでした。実際に聞く講義は、まるで落語のように面白かったと思います」
先生は大学で哲学を講義する際に、毎年決まってこう切り出したという。「君たちは弁証法というものをどう考えていますか。僕に言わせれば、あれは女性が使う論法と同じものだよ、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」
因みに廣松は、大学で一度も教科書やレジュメなどを使ったことがなかった(もちろん、当人もノートやメモの類は一切持っていなかった)」。だからよくこういう冗談を言われていた。「そんなことをするものだから他の教授連中に、廣松はいい加減な講義ばかりやっているに違いない、と言われているんだ」。
また、先生は大酒豪で鳴らしていた。この件での武勇伝は多々あるが、まず、彼の高校生時代、焼酎を軽く二升空けていたと、これは当時を知る方(当時九州大学の学生だったAさん)が証言していた。また、少壮の学者のころ、ある週刊新聞からインタビューを受けたときの話だ。1~2時間のインタビューのお礼にと、当時はなかなか高級に思えたサントリーウイスキーの角瓶を手土産に持参したそうだ。廣松さんは、インタビューの間中それをちびりちびりやりながら、話を進め、インタビューが終わった時には、完全に空にしていた。そしてやにわにこう言ったそうだ。「さあ終わった、飲みに行こう」と。
晩年は肺がんで入退院を繰り返していたが、それでも、お酒のお供をすれば、必ず、ビール(先生に言わせれば、「こんなものは水ですよ」)から始めて、日本酒、それもまだ飲んだことがない銘柄を選んで飲まれていた。
ある時、専修大学教授だったIさんと一緒に水道橋駅近くの焼き肉屋に入ったことがあった。もちろん、大いに飲んだのだが、つまみで頼んだキムチを先生は一向に食べようとしない。「先生、キムチが嫌いなんですか」と尋ねたらこんな返事が返ってきた。「いやいや、僕は赤いものと辛いものが大好きなんだがね、今はこんな体(肺がんのこと)になったんで残念ながら食べられなくなったんだよ」。
最晩年は、沖縄の「古酒」を薄めずに飲んでいたのを思い出す。また煙草はチエーン・スモーカーであった。
こういうことを書き始めるときりがないのでやめて、もう一つの有名な逸話を紹介したい。
廣松が少年時代を過ごしたのは九州の柳川である。柳川と言えば歌人北原白秋で有名であるが、かつての小大名の城下町で、まったくの田舎町だ。廣松は1933年の生まれで、第二次大戦の終戦(日本帝国の敗戦)時には12歳であった。彼の父親はやはり結核でなくなり、彼は母子家庭(妹が一人)で育っている。中学は旧制中学を選んだそうだが、途中で新制高校(伝習館高校)になったという。
彼が高校二年生の折(1950年6月)、「朝鮮戦争」が勃発した。彼は友人たち7名で、「朝鮮戦争反対」のビラを作り、学校の校門前で撒こうということになった。当然こういう行為に対しての処分(退学、もしくは謹慎)が予測されるため、さすがに友人たちは気後れしたそうだ。廣松はただ一人、学校の正門前で、ビラを撒くはめになったのだが…。なんとアメリカの進駐軍(当時日本は米軍の統治下にあったため)がジープで乗りつけて、廣松母子は校長室に呼ばれて、ビラの内容とビラ播き行為に対して「反省」を強要されたという。しかし、この母子は断固としてこれを撥ねつけ、悪いのは自分たちではなく、戦争をする人たちと、それを傍観する者たちの方だ、と言ってのけたという。
その結果、廣松は「退学処分」、裏門でビラを撒いたもう一人が「謹慎停学処分」、他の5人は厳重注意となる。
廣松はその後、柳川の自宅で勉強をしながら、時折福岡の九州大学に出かけては「戦争反対」のアジテーションを当時の大学生たちに交じってやっていたという。そして1951年にできた「新制大学入学資格認定試験」(通称「大検」)に合格し、当初は「東京学芸大学の数学科」へと入学、その翌年「東京大学文学部哲学科」へと進むことになる。
晩年のこと、彼が東京大学教授になってからのことであるが、廣松の著作集(「廣松セレクション」)が情況出版から全6巻(その後。岩波書店から全16巻の著作集)で出たときの話だが、高校時代の旧友たちが喜んで、これを伝習館高校の図書館にぜひ寄贈したい、廣松を「クビにしたんだから、ざまをみろだ」と言っていたのを覚えている。
廣松は最初に就職した名古屋大学(実際には名古屋工業大学から名古屋大学へ転勤した)を全共闘支持を表明して辞めている。その後、再就職する意図はなかったそうだが、当時東大で哲学を教えていた大森荘蔵先生に是非にと乞われて、東大に再就職したという。
最後にもう一つ付け加える。廣松著作集の外国語訳は、私が知る限りではアメリカと中国で出版されている。中国では、南京大学で、廣松哲学の研究が大々的に進められていて、毎年一回、日中合同のシンポジウムが開かれている(今年は日本の中央大学記念会館で行われた)。
以上廣松渉没後30年に当たり、ごく簡単に思い出を述べさせていただいた。
2024.6.9 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1326:240611〕
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