「大空を行く四輪馬車」―― 究極の詩人アルチュール・ランボー
- 2024年 7月 4日
- カルチャー
- アルチュール・ランボー川端秀夫
アンリ・ファンタン=ラトゥール画=左から二人目がアルチュール・ランボー。
「大空を行く四輪馬車」という表題は、アルチュール・ランボーの次の詩句を踏まえて作った。
「おれは単純な幻覚には馴れた。おれは全く思いのままに、工場のかわりに回教寺院を、天使たちによって作られた鼓手学校を、大空の街道を行く四輪馬車を、湖底のサロンを見た。また怪物どもやさまざまの神秘を見た」
(アルチュール・ランボー『地獄の一季節』高橋彦明訳、以下同じ)
アルチュール・ランボーは私の出会った最初の詩人であった。 最初に読んだ西欧の長編小説は、スタンダールの『赤と黒』だったが、反逆児ジュリアン・ソレルに感情移入した浪人時代の体験は、ランボーの全面的な受容の準備になっていたと思う。
ランボーの『地獄の一季節』は、「おれの記憶が正しければ、むかしのおれの生活は、あらゆる人の心が口を開き、あらゆる酒が流れる饗宴だった」という書き出しで始まる。
饗宴の記憶。そしてそれがもう過去でしかないことの確認。失墜が前史として語られる。堕天使としてのランボー。語っているのは虚構の主人公だ。
「おれの地獄堕ちの手帳から見苦しい二、三枚を破り取って見せてやろう」
この前口上が終わるとともに始まるのは、『悪い血統』という表題を持つ、世界史を舞台にした詩人のバーチャルな前史である。「おれはゴールの先祖からこの蒼白い眼、偏狭な脳みそ、それに喧嘩下手をゆずり受けている」
ゴール人を先祖に持つと言われても、西欧の人種のことだ。実感は湧かない。要は、出自が違うこと。先祖に根を持つ異端児の来歴を語ることに主眼があるとみなせばよい。
「おれはあらゆる手仕事が嫌いだ。親方も、職人も、あらゆる百姓も下劣だ。ペンを持つ手だって鋤を持つ手と同じだ」
収入を得るために働くことの全面的拒否。たった一人のストライキ。この部分に共感して、シュールレアリストは文筆を含む一切の表現活動を収入の手段にすることを拒否した。少なくともアンドレ・ブルトンの理念においては。
労働の拒否。これはひとつの理想であろうが、労働を売らねば生活できない境遇の人間には高嶺の花の理想であることは事実だ。稲垣足穂のように生涯定職につかずに生きた人もいるが。ただし、その代償の凄まじさは『弥勒』によって知ることができる。ランボーその人でも生涯定職につかずという理想は守れなかったのだから、詩人足穂は本物であったとこういう側面からも言えるのである。
「おれたちは精神へむかう。これはまったく間違いのないことだ。おれにはわかっている。だが異教徒の言葉でなくては、おれの考えを伝えることができないから、黙っていたいのだ」
沈黙の意志。なにゆえに? 精神へむかうという理念は、異教徒の言葉でしか伝えられないからとランボーは言う。異教徒とはここでは詩人の代名詞である。
「おれは帰って来よう、鉄のような手足、黒ずんだ肌、怒りを含んだ眼をして。おれの顔付から、まわりのものは、おれを強い力の種族のものと思うだろう」
異教徒・先祖・他の種族に共感できても、同時代の人間に対してはただただ侮蔑の気持ちしか持てなかったランボー。このおそろしいまでの自尊心、矜持の心は、ジュリアン・ソレルの物語とランボーの詩によって味わったものであった。文学の毒を食らったことによって、社会と折り合いをつけるのが難しくなってしまった。血液と心臓の鼓動の中にまで、入り込んだこの矜持によって、生きにくくなってしまった。だが仕方がない。この出会いが私のカルマであったからには。
おつぎは『地獄の夜』、「火が地獄墜ちの男を包んで燃え上がる」物語である。読み返してみたが、むかし読んだ時ほど感心できない。いま読むとこれは小説でしかない。だが小説ならば感心できないというのはどういうことなのか。詩は黄金であるが、小説は紙幣にしか過ぎない。黄金が紙幣に変わった。時のマジック。『錯乱 二』においては、この小説仕立てはもっとはっきりしてくる。愚かな処女が地獄の夫のことを語るという設定になる。
「眠っているあの人のいとしい身体のそばで、なぜあの人が現実からあんなにも逃げ出したがるのかと考えあぐみながら、私は毎夜幾時間も目を覚ましていたことでしょう。あんな望みを持った男は今迄にいません。私はーーあの人のためには心配しないのですが、ーーあの人が世の中でとても危険な存在になるかも知れないということを知っていました。ーーあの人はたぶん人生を変える秘密を握っているのではないでしょうか? いや、あの人はそれを探しているだけなのだ、と私は自分の考えを打ち消したものです」
たしかにこれは「子供の本の中にある冒険生活」だ。では詩人とは、子供が大人を引きずりまわす生活のことなのだろか? 大人になれないことが、詩人の弱点ではなく、魅力の源泉なのか?こうした疑問が浮かぶ。そして次に来る章が、『錯乱1 言葉の錬金術』だ。
「聞いてくれ。おれの狂気沙汰の一つの物語だ」
ランボーの肉声はこの「言葉の錬金術」の章でこそ今なお生々しく響く。自叙伝がそのまま詩になっている。これは不思議な奇跡だ。自作を引用しつつ素手でなされる魂の切開手術だ。
「おれは旅をして、おれの脳に集まったさまざまな魔術をまき散らしてしまわねばならなかった。おれは海を、おれのけがれを洗いおとしてくれるものとでも言わんばかりに愛していたが、その海の上に、おれは慰めの十字架が立つのを見た。おれは虹の橋によって地獄に墜とされていたのだった」
魔術をまき散らしてくれるのが旅であり、けがれを洗いおとしてくれるのが海である。実感としてとてもよく分かる。ランボーの実生活に則してもそうであったろうと共感できるのである。
次が『不可能』。どこに逃げるべきなのか。その省察の章。原初の叡智が詰まった東洋か? エデンの園へなのか。再び西欧への侮蔑が語られる。結論は?
とりあえずは自分に対するこういう呼び掛けである。
「 おお純潔よ! 純潔よ!
純潔の幻影をおれに与えてくれたのは、まさしくこの目覚めの瞬間なのだ!ーー精神を通じて、人は神に向かって進むのだ! 」 カトリックのランボー? 無垢と純潔を信仰する以上、キリストのイマージュが気になるのは詩人にとって避けられない事態だ。ニーチェすら、キリスト教は否定したけれども、キリストその人はどこでも否定していないのである。ランボーもまた同様であったというのが、ランボー=カトリック説に対する私の意見である。
『閃光』の章。スピードが早まり、議論が圧縮される。
「最後の時が来たら、おれは右に左に襲いかかってやるぞ・・・」 音楽的で不滅のランボーの文学的遺書ともいうべき『朝』の章。「一度はおれにも、黄金の紙に書かねばならぬ、愛らしい、英雄的な、神話にでもあるような青春があったではないか、ーー身にあまる幸福よ! どんな罪によって、どんなあやまちによっておれは今の衰弱を招いたのか?」
その答えは、おそらく「あまりにも大きすぎる矜持」ということになろう。
最後の章は『別れ』である。
「ところで、まだ前夜だ。生気と真の愛情の流れ入るのをくまなく受け入れよう。夜明けに、おれたちは、忍耐で武装して輝く街へ入っていこう」
この一節こそは、ランボーに呪縛された時代に、何度も自分の心の中に鳴り響いた詩句であった。詩的幻想のただ中から現実への架橋の呪文として、それを私は聞いた。
「やがておれには、魂と精神の中に真実を所有されることが許されるだろう」と最後に結ばれて、『地獄の一季節』は終わる。
『地獄の一季節』という作品は、堕天使の物語という西欧キリスト教文学の枠組みの準拠枠を使った創作として読むことができる。ロートレアモン『マルドロールの歌』も、神に反逆する堕天使マルドロールの物語であった。
天使は、神と人間の仲立ちをする存在であるが、天使同士はそのコミュニケーションに言語を使用せず、テレパシーを使って会話する。波動のごとき、音楽のごとき、天使たちの会話。それこそ文芸が究極に於いて憧れる境地ではあるまいか。
天使的な領域に踏み込んだ文学は西欧でも数少ない。僅かに国民的な大作家、ゲーテや、シェイクスピアや、ドストエフスキー等、数人を数えるのみである。
しかしこれらの大作家が、天使的な領域に踏み込んだのは、生涯に渡る誠実な努力の成果として、やっと晩年になってからであった。
ランボーは世界最年少で、天使のテレパシーに近いところまで、文芸を接近させた。この奇跡。ただ一回性の出来事が、いまなお私を振り向かせるのだ。
マラルメの野望。世界は一冊の美しい書物を準備するために存在している。その書物が出現したら世界は滅びても構わないのだという文芸の理想は、ロートレアモンとランボーの作品を前提にしてこそリアリティを持っている。
アルチュール・ランボーは私の出会った究極の詩人であった。そして『地獄の一季節』は、私の記憶が確かならば、あらゆる美を搭載した大空を行く四輪馬車であった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture1330:240704〕
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