披露宴のスピーチ
- 2024年 9月 11日
- 評論・紹介・意見
- ビジネス傭兵藤澤豊
気分転換にちょっとYouTubeに入っただけなのに、ひきずられるかのように次々と見ていってしまうことがある。どれも気晴らしや教養の域をでないが、ときにはこれはと思うものにであうことがある。
下記YouTubeをご覧ください。
「11歳の男の子が叔父の結婚式でしたスピーチ」
https://www.youtube.com/shorts/BHmH167IOrw
同僚や仕事仲間の披露宴によばれて祝辞やスピーチもお聞きしたし、突然名指しされて即興でスピーチしたこともある。でもこの十一歳の男の子のスピーチほどの祝辞やスピーチは聞いたことがない。他人事ではない。たとえ準備する時間が充分あってもこれほどのスピーチができるとは思えない。
新郎となる仕事仲間からスピーチをと言われて断りつづけたら、受付をやれば許してやるということで落ち着いた。と思っていたが、祝辞がひと段落したところで友人代表のスピーチのアナウンスに続けて名前を呼ばれて慌てた。新郎も司会者も翻訳屋仲間だった。この野郎と思って二人をみたら、いいから早くしろとうすら笑を浮かべていた。ばたばたするわけにもいかない。意を決してさっと立って短いスピーチで終わらせた。そこで注意したことが二つある。
スピーチの聞くたびになんでそうなるのかと不思議でならない。学生時代の友人代表だったり、サークル仲間だったり、職場の親しい人だったりなのはいいが、披露宴にあつまっている人たちのほとんどが知らない固有名詞やしばし隠語が話しの骨格をなしていることがある。仲のいい四五人で笑っているのはいいが、その小集団以外の人たちは何を言っているか、なにがおかしいのか想像もつかない。エピソードは聞いた人たちが理解できるものでなければ、坊主のお経のようなものになってしまう。出席者のなかには、新郎新婦の名前だけしか知らない人もいる。固有名詞は出席している人たちが知っているであろうものまでしかスピーチにいれてはいけない。似たようなことは職場の上司の祝辞にも言える。職場の人間でなければ知り得ない固有名詞もエピソードも知り得ない人たちを蚊帳の外においた話になってしまう。
もう一度YouTubeのスピーチを聞いて頂きたい。十一歳といえば小学校五年生か六年生だろう。男の子のスピーチは簡潔で無駄な言葉やフレーズがない。どうみても推敲した原稿を元に話しているようには聞こえない。言葉は吟味されているが、日常生活のままで取って付けたようなものもない。出てくる固有名詞は、出席者の誰もが知っているであろうアイオワと新婦の名前の二つだけ。笑いを誘うエピソードに締めくくりの気の利いた一言。人前で話しをすることを職業としている人たちでも、これほどのスピーチを出来る人がそうそういるとは思えない。
アメリカの基礎教育の一端が、この男の子のスピーチにあらわれている。
幼稚園のころから自分の考えをきちんと相手に伝える訓練がされる。友達と仲良くするのはのは当たりまえで、力を入れていることの一つに限りある物を友達とシェアすることがある。それは日本でよく言われる社交性や親切や思いやりとは違う。自分があるように相手もある。相手を尊重はするけど、相手に合わせて自分を押しとどめようとはしない。そこには空気を読んで人の顔色をみて態度を変えるようなことはしてはいけないことだと考える文化がある。十一歳にしてこのスピーチ、日常生活で議論に近い話し合いが普通になっている証しだろう。
p.s.
アメリカの基礎教育を知る機会があった。まとめてちきゅう座に投稿した。
「人種差別-小学校四年生の宿題」
http://chikyuza.net/archives/63319
2024/7/30 初稿
2024/9/10 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13876:240911〕
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