「白鳥事件は冤罪ではなかった!」新資料・新証言による60年目の真実②
- 2012年 3月 22日
- 評論・紹介・意見
- 渡部富哉白鳥事件
「白鳥事件は冤罪ではなかった!」
新資料発掘の日共元活動家が語る60年目の真実
特別インタビュー 社会運動資料センター・渡部富哉氏に聞く②
聞き手:今西 光男、山城 オサム
(インタビューは2月23日、東京・日比谷の日本記者クラブで行われた)
極秘レポの存在を賀屋興宣氏は知っていた
弁護士にレポを渡していた村上氏
――この事件は、犯行に使われた拳銃や犯人の乗っていた自転車も見つかっていません。それに事前の射撃訓練で発射されたという、その拳銃の弾丸とされるものが、大分後で見つかったのに腐食していないなど疑問点が多く、証拠のでっち上げとの見方も出ています。いわば物証が非常に乏しいわけですね。冤罪ではないことを立証する証拠として、転向した党員の自供以外にはどんなものがあるのでしょうか。
渡部 弾丸については最高裁判決が決定的に断罪しています。当局に証拠がなかっためのでっちあげだと、朝日新聞の社説などにも明確に示されています。もうひとつあまり知られていない事実を紹介しましょう。この事件の犯行を指揮したとして逮捕され、一貫して否認していた日本共産党札幌委員会の委員長・村上国治氏は、実行犯の佐藤博を川口孝夫(軍事委員、事件後中国に亡命した)に川口の甥のところに隠匿するように頼みました。佐藤博の逃亡生活はこうして始まり、当局は必死で追跡します。まさに吉村昭『長英逃亡』の現代史版です。これはものすごい迫力で、なまじの小説ではとても叶わない迫真な物語です。それも今回、「裁判資料」で明かにします。
もうひとつ村上国治は10月1日に検挙されますが、翌年6月23日、村上に面会した菱信吉特別弁護人に獄中からレポを渡します。レポは吉田四郎につながる秘密の連絡者(レポ矢内鷹男に渡ります。ところがこの人物も当局のスパイだったのです。それによって当局は決定的な証拠を握ります。筆跡鑑定の結果、村上国治のものと判明します。そのレポには次のように書かれていました。「とくに潜らせた人間は絶対に活動をさせぬよう、出来れば国外へやってもらいたいと支店に伝えてもらいたい」というものです。これは冤罪説をとり、国民運動に参加した一般の人たちには全く知らされていなかった。これが最高裁の特別抗告が棄却された大きな要因のひとつになっているのです。
これは、私が整理・製本した「白鳥事件関係裁判資料」でも裏付けられています。
――つまり、村上氏は、証拠隠滅のために実行犯グループを国外に逃がすよう指示を出していたわけですか。これは、村上氏にとっては裁判上、不利な材料ですね。
渡部 ええ、冤罪ならそんな指示を出す必要はありませんからね。実際に村上氏の配下である札幌地区委員会の軍事委員会メンバーなど事件関係者10人がその後、中国に向け密出国しています。中国に行ったままの人達、そして帰国した人達がいますが、その件は後で詳しく話しましょう。
賀屋氏に国会追及を断念するよう忠告された志賀氏
――それでは、極秘レポの存在は、どうしてわかったのでしょうか。
渡部 このレポの件については、志賀義雄氏が生前、大変重要な証言をしています。その経緯をちょっと紹介したいと思います。まず、党は1955(昭和30)年、6全協でそれまでの武装闘争を極左冒険主義と自己批判し、議会主義路線に転換しました。その中でまず手掛けたのは、松川事件、三鷹事件、菅生事件などを当局の謀略事件と位置付け、冤罪を勝ち取ることでした。それが共産党の活動の正当性と当局の弾圧とでっちあげを立証することになるわけです。そして、それはご承知のとおり、次々勝利しました。当局の謀略は暴かれました。そこで、白鳥事件も冤罪であるとして国民運動を展開しました。また、当時の党法規対策部長の長谷川浩氏は、当時国会議員で法務委員会委員をしていた志賀氏に同委員会で白鳥事件を取り上げるよう意見書を出しています。それまでも志賀氏は他の事件の冤罪を同委員会で追及して、菅生事件、松川事件などは劇的な勝利をおさめていましたからね。今度は白鳥事件というわけで、志賀氏は、国会で取り上げる準備を進めるのですが、実際はほとんど取り上げられていません。その理由について志賀氏は生前、米寿を記念した「志賀義雄フォトドキュメント」の制作の際、編集担当の私と共同通信編集委員だった横堀洋一記者にこう打ち明けたのです。
「当時はもちろん国会で追及するつもりだった。ところが種々調べてみると下手な発言が出来ないことがわかってきた。そこで、手づるを求めて当時、自民党の大物で、法務大臣だった賀屋興宣氏(戦前の大蔵大臣、A級戦犯。戦後、法務大臣、自民党政調会長などを歴任。故人)に面会して意見を聞いてみた。すると賀屋氏は『志賀君、君のために忠告しておくが、それだけはやめたほうがいい。村上国治は獄中から弁護士の面会の際に<関係者を国外に逃がせ>というレポを渡し、それが当局側の手に渡っているんだよ』と言うんだ」
後で分かったことですが、村上国治氏が獄中から出したあのレポは、当局側のスパイだった党北海道地方委員会のテク(非合法組織連絡員)のYから当局側に渡っていたのです。このことは裁判資料にもはっきり書かれ、本人の証言もあります。当局側は筆跡鑑定によりこのレポが村上氏本人のもの断定しました。このことが一連の白鳥事件裁判の中で、1975(昭和50)年5月の最高裁による特別抗告棄却決定の最大の理由の1つとされたのです。
――「動かぬ証拠」の一つが当局のスパイの手で明らかにされたのですか。賀屋氏の話は真実だったわけですね。
渡部 余談になりますが、私は志賀氏の死後、その書庫の整理をしましたが、日経新聞の連載「私の履歴書」で書かれた賀屋氏の30回分の切り抜きがありました。ところどころに赤線が引かれていました。志賀氏は、恐らく何回も読んだのでしょう。とくに賀屋氏の父親の出身が志賀氏と同じ山口県であり、一高、東大の同級生に共通の友人がいる部分などのところに赤い囲みがありました。賀屋氏が「社会主義が悪いからといって、研究してどこが悪いのか」と校長に喰ってかかる部分には二重線が引かれていました。志賀氏は賀屋氏に会うために、こんな事前準備をしていたようです。
中国に残った実行犯のうち2人はすでに亡くなっていた
――ところで、この事件では、事件関係者10人が中国に出国したということでしたが、その後、どうなったのでしょうか。
渡部 出国した10人のうち、7人は1973年以降、帰国しています。7人の中には殺人ほう助容疑の人が複数いましたが、いずれも起訴猶予となっています。本人たちの口は固く、当局は事件関与をいまとなっては実証できないと判断したのでしょう。最後まで中国に残ったのは殺人容疑で国際手配されている実行犯とされる佐藤博氏、宍戸均氏、鶴田倫也氏の3人です。事件当時、佐藤氏は札幌委員会の軍事委員会直属の中核自衛隊員、宍戸氏は同委員会副委員長格で同隊長、鶴田氏は軍事委員で同副隊長格でした。
国会図書館所蔵の月刊「治安フォーラム」(2002年5月号)によると、佐藤氏は1988(昭和63)年1月14日に肺ガンで、宍戸氏も同年2月27日に肝臓ガンにより、入院先の北京・友誼病院でそれぞれ亡くなっています。佐藤氏は、その3年前に食道ガンで同病院に入院して手術しましたが、その2年後にガンが肺に転移しました。佐藤氏は中国人と結婚し子供にも恵まれました。
――佐藤氏と宍戸氏は、中核自衛隊の部下と隊長の関係だったのですね。2人とも、ついに真相を公に語らないまま、亡くなってしまったということですね。
渡部 こんなエピソードも聞きました。佐藤氏と宍戸氏は、北京で偶然出会った時、佐藤氏が「俺をこんな目に会わせやがって」と宍戸氏をなじると、宍戸氏は「俺を男にしてくれ、と頼んだのは、どこのどいつだ」やり返し、殴り合いのケンカになって警察沙汰にもなったそうです。でも、2人は同じ時期に友誼病院に入院した際、人生の終末を意識して、お互いを許し合い、北海道時代の思い出を語り合っていたといいますから、最後は仲直りしたようです。
しかしそんな話がつたわる一方で、仲がよかったからこそ、喧嘩したんだ。佐藤の病状が一時快方に向かったとき、鶴田、宍戸、佐藤と4人で北京飯店の日本料理店「京樽」で寿司を食って語り合った話なども伝えられています。まだまだ秘話は沢山聞きました。
――亡くなった2人の葬儀や遺骨はどうなりましたか。
渡部 佐藤氏の葬儀に参列した徳田球一の北京当時の細胞長に私は詳しく話を聞くことができました。佐藤氏の葬儀は北京郊外の革命公墓で行われ、革命家として中国対外連絡部の幹部によって葬られました。宍戸氏の場合も同じです。私の友人が、2人の分骨された遺骨を日本に持ち帰りました。2人は今、それぞれ故郷の墓に眠っています。事件から実に36年ぶりの無言の帰国になりましたが……。その詳細な報告が実行委員会の席で私の友人が報告しました。
――そうすると、中国に残っている事件関係者は鶴田氏1人ですか。帰国できないのですか。
渡部 実は、一時、帰国の話があったのですが、途中でつぶれています。いろんな経緯がありますが、本人も帰国準備をしていた1997(平成9)年6月、時事通信社の記者が鶴田氏のインタビュー記事を書き、これが北海道新聞に「白鳥事件で手配 46年目の会見 鶴田容疑者 北京で生存」と大きく載りました。その結果、中国が態度を一変させて「鶴田なる人物は、中国にはいない」と声明を出し、帰国できなくなってしまいました。ところが、つい最近、その鶴田氏が亡くなったという情報が入ってきています。現在、真偽を確認中です。
(続く)
「メディアウォッチ100 2012.3.19. 第160号」より許可を得て転載。
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〔opinion0818 :120322〕
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