北京秋天の「日章旗」 ―1956年10月6日―
- 2012年 10月 6日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市日中関係村田省蔵
《会場へ突然現れた毛沢東》
1956年10月6日朝、北京は晴天であった。
ソ連技術者が建設した「蘇聯展覧会館」という建物の正面に「日本商品展覧会」の文字、日章旗と五星紅旗(各縦3メートル、横5メートル)が掲示されていた。「北京日本商品展示会総裁・村田省蔵(むらた・しょうぞう)」の開会挨拶で、日本商品見本市は始まった。午前10時半に予告なしで毛沢東主席が現れた。村田は訪問団団長宿谷栄一とともに、1時間をかけて毛主席を案内したのち、30分ほど会談した。毛沢東は農機具に興味を示した。そして、「見本市は日中友好に寄与する、日本の技術に学ばねばならない」と言った。「日本との和平は欲するが、困難は承知しているから急ぐことはない、アメリカ帝国主義は困るが人民は別である、いずれ米国も判るときがくる」とも言った。村田は、「経済人の立場で日中友好に寄与したい」と答えた。毛主席から「天皇と鳩山首相に宜しく」と言われた村田は、「現在自分は一国民に過ぎず天皇とは直接会う機会がないから伝言はできない」が、「鳩山首相へは伝える。首相からも主席に面談の節は宜しくとの伝言があった」と答えた。午後4時に周恩来首相が来場し、長時間見学した。勿論、村田の案内である。これは、1972年の「日中国交正常化」から遡ること16年、今から丁度56年前に、中華人民共和国の首都北京で起こったことである。戦後の北京でおそらくは初めて屋外に「日の丸」が掲げられ、日本の財界人が毛沢東と会話した瞬間である。これはフィクションではない。
《日中貿易の井戸を掘った村田省蔵》
「井戸を掘った人間を忘れるな」という。日中貿易の端緒は、1962年の「LT貿易」(廖承志・高碕達之助による「日中総合貿易覚書」)と記憶する人が多い。しかしその記憶は違う。1952年に、帆足計・宮越喜助・髙良とみの三人の日本人がモスクワ経由で北京に入り、中国と結んだ第一次「日中貿易協定」が最初の契約である。これは58年の第四次協定まで続いたが、同年5月に右翼青年が中国国旗を引きずりおろした「長崎国旗事件」で中断した。その後、「LT貿易」と「友好貿易」の二方式で貿易は再開したが、72年の日中国交正常化までに、その存続には多くの危機があり、日中友好人士による「井戸の水」を絶やさぬ努力でようやく持ち堪えたのである。数量・金額でいえば貿易総額の数%という微々たるものであった。が、それはのちの基準でみた判断である。
知る人は少ないが、村田省蔵(1878=明治11年生~1957=昭和32年没)は、日中友好の「井戸を掘った」人物の一人である。戦前は大阪商船(現・商船三井)社長として活躍し、業界一位の日本郵船に肉薄した経営者だった。1940年に、第二次近衛内閣(第三次も留任)に鉄道大臣兼逓信大臣として入閣し、兵站活動を差配して「大東亜戦争」を戦った。41年2月から敗戦まで、駐フィリピン日本軍の軍政顧問と日本大使を務めた。謂わば帝国主義者の財界人である。戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨に約2年間拘置されたが、不起訴となる。釈放後もしばらく公職追放されていた。解除後の最晩年は日中貿易の再開に全力を傾倒した。財界人、政治家、外交官、戦犯容疑者、再び財界人という経歴について、本人は一貫して財界の人間であると自覚していた。
共産中国との友好機運は、経済界、国会議員などの間に、1949年の新中国成立と同時期に始まっている。村田は当初台湾寄りだったが考え方を変えた。政治家石橋湛山、銀行家北村徳太郎、財界から政治家へ転じた鮎川義介らと共に「日本国際貿易促進協会」(略称「国貿促」)を1954年につくり自ら会長となった。この組織は、その後長く対中国本土貿易の拠点となって現在に至る。参考までに歴代会長の名前を掲げておく。村田省蔵、山本熊一、石橋湛山、藤山愛一郎、桜内義雄、橋本龍太郎、河野洋平(現)である。
《周恩来に「痛快だった」と言わせた会談》
村田は、1955年1月に北京で周恩来首相と4時間余の会談を行った。既に多数の日本人左翼と会っていた周恩来は、初めてナショナリズムの話法で語る村田に強い印象を受けたようである。村田は、中国外交を強く批判すると同時に、新中国建設への共感や期待を表明した。村田は、中ソ共産党による日本共産党の破壊活動支援は止めてくれと言った。当時結ばれた中ソ共同宣言が日本を仮想敵国としていること、戦中のソ連による中立条約違反、対日戦勝利を「日露戦争の仇」を取ったとしていることを激しく批判した。周恩来は「革命は輸出できない」と答え、逆に日本の対米従属や資本主義圏の共産圏への敵視と包囲を攻撃した。しかし同時に村田は、周恩来の唱える「平和共存路線」に賛成した。台湾問題は中国の内政問題だと認め、統一された中国の国連加盟を希望した。東西冷戦下、中ソの唱える「共存政策」は「平和攻勢」、「外交謀略」と言われていたから、村田の発言はリスクを伴うものであった。記録でみる限り、二人の相互理解はこの会談で深まった。村田側の記録には、周恩来が「本日のお話は率直であったので誠に痛快である。この態度に敬服する」と言ったと書いている。
この直後の3月に雷任民を団長とする貿易代表団が来日し第三次日中貿易協定が結ばれた。時の鳩山内閣で、通産大臣は石橋湛山、経済審議庁(のちの経済企画庁)長官は高碕達之助であった。共産圏貿易を阻止しようとする米国の圧力のなかで、石橋は日本の現役閣僚として初めて中国要人と会談した。同年10月に東京晴海で、12月には大阪堂島で中国商品見本市を開いた。合計で190万人の日本人が入場した。
《「一億総ナショナリズムへの遁走」が現実に》
冒頭の「北京秋天の日章旗」はこの翌年の話である。見本市は上海でも開催され合計で193万人の中国人が入場した。村田の左旋回に様々な推測が駆け巡った。「アカ」になったとか、「オポチュニスト」だという批判もあった。しかし北京の日章旗を見てから半年後の57年3月にガンで死んだ村田の意思は、イデオロギーを超えた真の日中友好、互恵となる貿易再開だったと私は考えている。村田は入社後の10年間を上海に過ごして、「犬と中国人入るべからず」という租界を知っていた。彼は新生中国に感動したことを隠さず記録している。
この頃、『太陽の季節』で芥川賞を受けた一橋大学学生の石原慎太郎は、同窓の先輩である「進歩的な村田」が嫌いだったらしい。小説『亀裂』(1956年)の中に次の記述がある。作品の主人公の大学卒業歓送会で同窓会会長が挨拶する場面である。
■会長が彼等に餞として演説した。Mという大船舶会社の会長で、業界では一番進歩的と言われた男だ。彼は前の年、中共との貿易折衝の全権で中国に行って来てもいた。それでも彼が何を饒舌ったか詳しくは覚えちゃいない。が唯それは案に反して“恐るべき”はなむけの言葉だった。「大それたことをするな。運は先に行ったら開けてくる。上役の言う事は大体は正しい。間違っても労働争議を主導するようなことがあってはいけない」そんなありきたりな説教をあの男はヤクザの貸元のようなドスの利いた声で繰り返していった。
石原の書いた通りなら、周恩来と激しくやり合ったナショナリストが後輩へ贈る言葉としては、確かにあまりに通俗的である。石原の感想に同情したくなる点もある。
それから56年後、政治家になった作家と松下政経塾とやらを出て首相になった県会議員が、「井戸を掘った」両国の無数の人々の長い営為を崩壊させようとしている。しかもその連係プレーを支援すると叫んだ者たちが、野党第一党の中枢を掌握した。私は、2年ほど前に、この国の「一億総ナショナリズムへの遁走」の危険を書いた。それがこんなに早く現実になるとは思わなかった。我々は恐ろしい時代の入り口にいるのである。
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