テント日誌10/31日経産前省テント広場―417日目…時ならぬダンプカーが登場して
- 2012年 11月 1日
- 交流の広場
- 経産前省テントひろば
宣伝カーから降りてきた人が「これから少し騒がしくなりますが」と挨拶にこられた。テントの前に座りながら見守っていると、大型のダンプカー27台が次々と経産省前にやってきた。復興事業に携わる道路建設業の皆さんであり脱原発の申し入れをしにきたのである。経産省前にたってその訴えに耳を傾ける。
いつも経産省前には播磨屋本店の大型宣伝車が停まっている。車には「餓死地獄がくるぞ 日本経済の再生は百万パーセント絶対ない 政府がやるべき急務は食糧安保である」「若い同胞に告ぐ お前たちの未来は『地球革命』拓いてやる 革命はもう間もなく日本の財政破綻で始まる」等の鬼面人を驚かすとでも言うような憂国のメッセージが書かれている。三台も連ねられた大型宣伝車も今日は何処かに姿を消したようだ。何故、播磨屋という菓子屋さんがこういう活動をしているのか不思議に思いながらいつも見ているのだが、目にした人はどんな感想をもつのだろうか。ダンプか―はこれとは別の迫力があった。
復興事業の現場ではゼネコンの独占的な支配があり、現場の労働者や事業者には低賃金労働が押し付けられている、という訴えがなされている。瓦礫処理や除染作業などでゼネコンの独占と低賃金のおしつけが横行しているのである。これは、福島第一原発の事故現場の実態でもある。それらの実態を訴える労働者のみなさんの声を耳にしながら思うことは、復興予算の流用などとして報道されたことだ。復興予算の行政(官僚)機構などによるひどい使われ方がある一方で、復興現場には必要なカネが回らず、そう上で旧態依然とした大企業による独占的利益確保と小企業や労働者の苦境は続いているのだ。
私たちが新聞等で断片的に伝え聞く事柄が展開されている。原発震災も含めて大震災からの復旧や復興はどうなっているのだろうか。テントに戻り、いつものように椅子に座りながらこれについて考えた。復興事業は依然として日本社会の現在の中心をなすことであると思うが、現実にはそれは遅れているといわれる。被災地の人々からそういう声は時折届くが、原発震災が大きい福島の現状としてそれは明瞭に思えるように思う。大震災や原発震災からの復旧や復興はなによりもその被災地の人々、被災にあった人々のことである。つまり、被災に遭遇した人の恢復であって、それに対して政治や社会が関与や寄与できることは限られている。その人々の傷が癒えるには長い時間、つまりはそれを包括して行く生活と時間が不可避でありこれは当事者以外の関与はあまり有効ではない。しかし、復旧や復興に政治や社会が関わる領域はあり、それは小さくはない。政治や社会の必要な領域はあるのだ。
私たちが復旧や復興の遅れというとき主にこのことを指している。政治がこの役割を果たしていると思えないのは復興予算の使い方ひとつをみても明らかだ。原発問題でいえば、事故をいまだ収束させえず、放射能汚染に対する具体的な対応をとれなれでいることは語るまでもないことだ。大震災や原発震災に対する復旧や復興は緊急の課題であり、誰しもがやらなければ課題であるが、それに政治や社会が応じられていないのだ。その場合に政府や官僚の対応と我々一人一人の対応とがあるが、政府や官僚の役割が機能不全にあるだけでなく、原発震災では間違った復旧や復興を志向していることがある。原発再稼働→原発保存というシナリオを持ち、それを志向せんとしている。
私たちが原発震災に対応しようとするのは被災地の人々の具体的課題に対応することと、原発再稼働の動きに対応するという、つまりは緊急の課題としても重層的に関わろうとしている。政府や官僚が緊急の課題と言う側面でも対応をできず、あるいは誤った対応しかできないことに異議申し立てをしようとしているのが私たちの現在である。こういう中で政府は官僚、あるいは経済界の中枢の人々、それに連なる人々との復旧や復興のビジョンや構想が何故こんなことになるのか、ということが出てくる。これは政府や官僚たち、あるいはそれに連なる人々は大震災や原発震災を自然災害と見て、これを社会的災害と見る認識が薄いか小さいのではないか。
自然災害と見る限り、復興や復旧は地域的・場所的なものと見られ、時間の中で風化して行くことは免れない。大震災や原発震災が自然災害である側面はあるが、同時にそれは社会的災害であるという側面がある。つまり、人間が社会をつくり、歴史としてそれを存続させてきた中にある矛盾の現れであり、その解決なしには復旧も復興もないということだ。この点は原発震災の場合は分かりやすいが、政府や官僚という現在の社会の中枢を占める人々はこの社会の矛盾、歴史的な矛盾ということを認めたがらない。それは現在の社会の転換や変革につながることへの拒否感があるためではないか。既得権益という言葉があるが、これは現在の社会に利益を感じていて転換や変革につながることを否定したい気持ちを現わす。善悪を超えた社会の保守の傾向をさすといってもいいが、この人たちは大震災も原発震災も自然災害とみることが強いのだ。
私は大震災や原発震災を社会的災害であると認識すべきだと語った。これはごく常識的な事のように思えるがやさしくはない。社会的災害であることはそれを歴史的に捉えることである。これは大震災や原発震災の復旧や復興は緊急課題だが同時に永続的な課題であり、ここでは未来から視線が提起されているということだ。歴史的にとはこの人類史未来からの視線、過去の全歴史を含んだ視線で認識することだ。大震災や原発震災は人類の究極的な問題を提示し、この課題として受け止めなければ復旧や復興のビジョンも構想も出てこないのである。この究極の問題とは「カネより命」、「はらむ女の立場」、「自然との循環社会」、「近代《現在》の超克」とかいろいろ出ているがそれは断片的の言葉であってまだ社会の言葉にはなってはいない。かつてなら社会主義という言葉がそれを意味したかもしれないが今はその力もない。
未来から視線でいいが、原発ゼロの社会が人類史の究極の問題を提示していることであれば、その所を明瞭にすることで復旧や復興に緊急の課題という側面と同時的に存在させなければならない。私たちが今の政党や政治家たちに失望をしているのはこの永続的課題というところに視線を持とうとしないためだ。
政党も政治家もそのビジョンや構想が貧しいのはそのためである。大型のダンプカーが去ったあとテント前でこんな妄想めいたことに耽っていた。短くなってきた秋日和が心地よかった。 (M/O)
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