政治家の匂い -- 田中角栄から安倍晋三まで-政治エリートのありよう --
- 2013年 3月 26日
- 評論・紹介・意見
- 『田中角栄』小川 洋政治家早野透
早野透の『田中角栄』(中公新書、2012年)を読んだ。田中角栄の番記者をつとめた人物による角栄伝である。新書とはいえ400ページ近い力作だ。読み終わって、戦後も昭和の終わりまで、政治家には土や汗あるいは血の匂いが染みついていたこと、また彼らが類い稀な胆力の持ち主だったことを、あらためて認識させられた。角栄とそれ以降の首相経験者たちの人物について、しばらく考えを巡らせてみたい。
田中と対立関係にあった福田赳夫について、早野は旧制高崎中学(現・高崎高校)への通学路を追体験し、「かなりの時間のかかる道のりだった」と述べている。地元で神童と称えられた福田も青春時代の5年間、冬には赤城颪の強風が土埃を巻き上げる道を通ったのだ。「血の匂い」も大げさではない。福田が大蔵省の主計官として仕えた高橋是清は2・26事件で暗殺されている。
福田より13歳年下だった田中角栄は、長い冬のあいだ雪に埋もれる越後で、博労(馬の仲買人)の子として文字通り汗と土にまみれながら成長した。小学校での田中は指導力や頭の回転の良さを教師に認められたが、昭和恐慌のただなかに高等小学校を卒業して直ちに仕事を始める。最初に就いた仕事は高橋是清蔵相の「時局匡救事業」による農村の土木事業であり、農村部の経済開発という彼の生涯の政治課題の原点となった。
田中の盟友となった大平正芳にしても自らを「讃岐の貧農の倅」と称し、学業も何度か継続困難に追い込まれ、最終的に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業したのは27歳の時だった。多忙な政治活動のなかでも学問への畏敬の念は終生絶えることなく、読書を好み経済論や随想など多くの文章を残し、2010年には全7巻の著作集としてまとめられている。戦後首相のなかで屈指の知性派であったとことは衆目の一致するところである。
平成に入ると政治家たちから、このような匂いが消え、胆力も失せていく。平成3年に就任した宮澤喜一は最後の東京帝大卒の首相だったが、党内の権力闘争を抑えられず、非自民の細川政権の成立を許すことになった。彼の選挙区は広島県でありながら、小学校は東京高等師範付属(現・筑波大付属小学校)、旧制武蔵高校(現・武蔵中高)から東京帝大に進んでいる。山下汽船から政治家に転身した父親のもと、東京生まれの東京育ちだったからだ。岡山県を選挙区とする橋本龍太郎も、同じような事情で東京生まれの東京育ちだった。
宮澤喜一以後の8人の自民党の首相は、森喜朗を除いて全員がいわゆる二世議員である。神奈川出身の小泉純一郎を除いて共通しているのは、小学校か中学校から東京で教育を受け、東京の大学に進学していることである。体験はもちろん意識の面でも選挙区の事情には疎いまま成長期を過ごしている。あたかも江戸時代の藩主たちのような育ちかただ。選挙は地元の建設業者や企業経営者たちからなる後援会組織が差配し、東京育ちの跡継ぎである二世の国会議員は、彼らに担がれる神輿のようなものである。土や汗の匂いが消えていくのは当然だろう。
他の先進国でも土や汗の匂いを発する政治家は少なくなっている。しかしヨーロッパでは、もともと教育歴とくに高等教育において示す高度な業績 ― 学業を通じて示される知性やスポーツなどを通じて示される勇敢さや公正さを尊重する精神など― が、エリートの条件として重んじられる。政治指導者もその業績を原資として、つまり学歴エリートとして、指導者への階梯を登っていく。
イギリスの政治家や高級官僚の多くは、パブリックスクールという特権的な私立学校で学び、大学進学資格試験で優秀な成績を収めてケンブリッジ大学やオックスフォード大学に進む。1960年代のマクミランから現首相のキャメロンまでの10人の首相のうち実に8名がオックスフォード大学卒である。保守党であろうと労働党であろうと学歴はあまり変わらない。なおスコットランド出身のブラウンは16歳でエディンバラ大学に入学を認められている。
フランスでも高等教育を受けるためには、バカロレアという国家試験に合格することが前提条件となる。将来のエリートを目指す者は、より高い威信をもつ高等教育機関であるグランゼコールに進学するための準備学校に進む。その入学試験はバカロレアよりもはるかに高度なものである。現大統領のオランドは社会党だが、フランス屈指のエリートを輩出するグランゼコールであるパリ政治学院出身である。中道右派政権の大統領であったシラクも同じグランゼコール出身である。ジスカールディスタンはフランス最高の官僚養成教育機関のグランゼコールである国立行政学院の出身だ。
政権が右派と左派の間を行き来したとしても、指導者の間には文化的な共通性が強く、政治に大きなブレを生じにくい。政治の安定性の点からいえば、このようなエリート養成のシステムはメリットが大きい。
日本では選抜性が強く卒業生が社会的優位に立てる大学が、国立大学のとくに旧帝大であることに異論はないだろう。宮澤喜一の後、国立大学出身者は鳩山由紀夫と菅直人だけである。ついで選抜性の強い有力私大である早稲田と慶応の卒業生は、橋本龍太郎、小泉純一郎、福田康夫、野田佳彦である。安倍晋三と麻生太郎の二人は、途中に外部からの学力チェック(国家試験など)のないまま、同一の学校法人が経営する学校で小学校から大学までの教育を受けている。ヨーロッパ諸国ではありえない教育歴である。二人とも大学時代に勉学やその他の場面で、顕著な業績を残したという話も聞かない。またしばしば日本語運用能力について問題を指摘されるなど、基礎的な学力に疑問符が付けられるという心許なささえある。
高等小学校が最終学歴だった角栄はわずか44歳の若さで大蔵大臣に就任した。首相の池田勇人には「あんな車夫馬丁の類に大蔵大臣は務まらん」と言われながら、圧倒的な学歴差のある官僚たちを自在に操りながら、東京オリンピックを挟む3年間、その職責を果たした。その操縦法は細やかな気配りと金銭の力をベースとしたが、官僚の積み上げてくる資料にとらわれることなく、自らの直観で政治判断をして、いくつもの懸案事項を処理している。角栄と比べると、近年の宰相たちのひ弱さはいっそう際立つ。
短命に終わった民主党政権に代わって自公連立政権が復活したが、政権を担う人材のレベルの低下は目を覆うばかりである。安倍首相は「戦後レジュームからの脱却」とか「国防軍」など、イデオロギー的な勇ましい議論を好むが、それは実際の能力や胆力の欠如の裏返しにしかみえない。欧米の政治エリートに課せられる学業業績追求の努力とはまったく無縁な学歴でありながら教育改革に人一倍熱心だという、少し冷静に考えれば冗談のような事実ひとつとっても、この政権の底の浅さは如何ともしようがない。
このような政権には、専門領域での業績を欠く、つまり研究者としては二流、三流の人物たちが集まって政権を支える議論を提供する雰囲気が生まれるものだ。国民がそのような政権に懐疑的になり、拒否反応を示すようになるのか、あるいは表面的な勢いのよさに反応して支持し続けるのか、日本の政治は大きな分岐点に来ている。
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