会社人から社会人へ
- 2013年 8月 24日
- 評論・紹介・意見
- 会社社会藤澤 豊
随分昔のことになるが、学校を卒業してある機械メーカに就職した。これを巷の言い方で言えば、一人前には程遠いが、晴れて“一社会人になった”ということになるのだろう。一従業員として先輩諸氏から色々ご指導を頂戴し、社会人としての“千里の道も一歩から”からが始まった。
学園紛争のしっぽをつけたまま社会人となった、それなりの“社会”意識を持ち合わせた者には、職場とその延長線の社会のなかでの生活がどうも釈然としなかった。先輩諸氏の話は、一企業の従業員としての視点を超えるものがなく、あっても自社が所属する業界内とその延長線の社会ででしかなかった。まだ元気だった労働組合の委員長以下、組合役員の方々から青年部の活動家でされ、自社とその延長線から見た社会を超えることはなかった。
遭遇した労働争議では、地裁と高裁で会社側の証人として会社に都合のいい真っ赤なウソの証言をした先輩諸氏が何人もいらした。ウソの証言をされた方々も個人としては決しておかしな人たちではなかった。家に帰れば、子供にウソをつくことを良しとしない躾をされていらっしゃっただろう。まさか、子供に“お父さんは会社でうまくやっていて、このあいだ裁判所で会社のためにウソの証言までしてきたんだ”なんて言ってはなかっただろう。言わなかったとしても平気でウソの証言をする不見識の持ち主であったこと、また、不幸にして、その不見識は多分、メンタリティとして家庭の文化をかたちづくり次の世代にもしっかり引き継がれてゆくだろう。
あの方々は、まっとうな意味で本当に社会人なのか?自分もあの方々と同じ社会人になるために日々があるのか考えた。一言で言ってしまえば、“一緒にされたら迷惑だ。”という気持ちがあった。あの方々のありようは、社会人である前に、極端な場合は、たとえ一時的ではあったにせよ、社会人であることをやめて、あるいは本来あるべき姿の一部を萎縮した“会社人”としての生き方で、人として選択してはいけないものだと、不安を抱えたまま整理した。
じゃあ、社会人とは一体なんなのか?偉い国語学者の定義なのか、広辞苑には、“1) 社会の一員としての個人、2) 実社会で活動する人”という二つの解釈が載っている。多くの場合、英語の方が明確なので、調べてみたら、”a member of society”が社会人に相当するらしい。1)と英語の定義はほぼ同義と思うが、日常生活でこの意味で社会人が使われることは希だろう。この定義では今、生まれた赤ん坊も、今にも他界しそうな方も社会人になる。フツー社会人というと、何からかのかたちで就労している人=勤労者で、多くは企業に雇用された従業員=会社員になる。
労働して企業に貢献して、対価として収入を得る。そして、収入から税金や年金、保険を払っていれば社会人なのか?家族がいれば家族を養うし、自らも家族も消費者としての生活を送る。何年かに一度の選挙にはきちんと投票に行く、会社や地域のボランテイアにも、マンションの自治会の役員もしている。これは、立派な社会人だという主張も成り立つと思う。しかし、それだけでは会社人としての勤労生活に、行政が提供するサービスの受益者+消費者としての生活の合算にもの過ぎない。勤労者として社会に貢献しているのだから=会社員として長時間働いているのだから、後は受益者+消費者の立場で十分じゃないか。
この主張を正しいとして受け入れれば、社会人とは、会社人+行政の受益者+消費者ということになる。この定義では、能動的なのは会社人の場合だけで、残りは受動的な存在ででしかない。そこには社会の一員として社会を創り、運営してゆく立場の社会人がない。
”a member of society”のsocietyが少なくとも二つないと社会人じゃないのではないか?一つ目のsocietyが勤労の場としての企業、その従業員としての会社人、二つ目が住民としての残り部分?の社会人。行政の受益者の立場を取る限り、積極的な社会貢献もありえないだろうし、社会を背負ってたっているという社会人としての自負も自覚も生まれないだろう。その結果、社会人という言葉が、そのまま会社人を意味してしまうことになる。社会のあり方を考えることもなく、一民間企業の経済的利益しか眼中にない、そして、平気で真っ赤なウソをつく会社人=社会人が出来上がってしまう。
そんなところでは、自分の社会に誇りを持てるとも思えないし、真の意味での愛国心なぞありようがない。奇形化した社会人=会社人として社名が、社内の肩書きが人を表す情けない社会ができあがる。
社会人が創り、運営する社会がありうるのか?現在の社会も行政のあり方も、市井の人が参画して自らの社会を創ってゆくシステムになっていない。歴史上でみても住民が自ら社会を創り、運営したことはほとんどない。例外としてあるのは、ヨーロッパ人による米国の開拓時代ぐらいだ。社会を創り、運営してきたのは貴族だ。生活に汲々としている住民や市井の人達には社会を創り、行政を担当する。。。などに割くエネルギや時間、さらに昔はその能力を養う機会もなかった。
確かに歴史的にはそうだったろうが、人が会社人として生産活動に全てを捧げなくても十分な生活ができるまでに生産性が上がり豊かな社会になった今、会社人として負担を多少軽くして、社会の方に時間をさいて、社会人としての責任=能動的に社会を背負って立ちうる条件は十分整っているはずだ。社会人が背負って立つ社会が、能動的に参画できる社会がありうる。会社人を脱皮して社会人になれるはずだ。ただ、それとし得るという考えだけがない。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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