無関心の罪
- 2013年 11月 9日
- 評論・紹介・意見
- 松元保昭
ここに 紹介する拙訳は、ナチ・ホロコーストのユダヤ人・サバイバー(生存者)として象徴的な証言者となってきたエリ・ヴィーゼルの「無関心に傍観してはならない」という思想を受けて、中東研究の歴史家ローレンス・デヴィッドソンが考察した「無関心の罪」という短い論考です。ま た、デヴィッドソンがこれを書くきっかけとなったウリ・アヴネリのイスラエル人の無関心についてのハ・アレツ紙の記事も後半に付しまし た。
ホロ コーストをくぐり抜けたユダヤ人として「傍観してはならない」と啓発するエリ・ヴィーゼル、アメリカ人として同じ植民国家であるイスラエ ル人がつくりあげた集団意識「無関心の罪」を指摘するローレンス・デヴィッドソン、イスラエル人左派として「占領の無関心」を警告するウ リ・アヴネリ、あなたは日本人として、この「無関心」をどのように考えますか?
参考までに、訳者の感想を述べておきます。
先日、 パレスチナのヘブロンで5歳の子どもが「石を投げた」罪でイスラエル兵に逮捕されたという記事を紹介したが、日本では、福島の避難者が補償も なく打ち棄てられ、在日朝鮮人が言葉の「石を投げられ」、ともに「無関心」という大きな構造に被害者が喘いでいる。ともに加害者が罪責を 問われることなく、集団の「無関心」が加害と被害の双方をうやむやにしてしまっている現実がある。
しかし 無関心は、強烈な関心の裏側である。占領と人種差別をよしとする強烈な関心の裏側が無関心である。5歳の子どもの逮捕が人種差別であるとは考えたくない強烈な占領体制への関心、アイヌの墓の盗掘が人種差別だとは思い たくない強烈な自己弁護、在日朝鮮人差別が人種差別だと思いたくない強烈な排外自己中、戦争責任に頬被りしてたえず侵略された側の北朝鮮 や中国を攻撃する強烈な自己正当化、沖縄や福島の犠牲者が我が身と関係ないと思いたがる強烈な自己保身、こうした強烈な自己関心の裏側に 対となった「無関心」があるのではないか。
期せずしてRestorationは、「復興」であり、「維新」である。イスラエルは「ユダヤ国家の復興」がどんな戦争犯罪も占領犯罪も正当化されると信じている。日本も靖国神社と天皇制侵略国家を生み出した「維新」を自ら断ち 切ることなく(この「ねじれ」がいま顕在化しているが)連続した近代国家だと信じている。イスラエル人として生きることは、シオニズムの 人種差別を実践して生きることだ。日本人として生きることは、明治以来の膨張排外主義を取り戻し「ガンバレニッポン」として生きることだ。イスラエルも日本も、そのRestorationという神話から離れられないようだ。ありもしない「神話」 への強烈な関心ゆえに、その無責任と犠牲者をどこまで拡大してゆくのか?「何かが間違っている」ことの根は深い。(2013年7月17日 記)
★ご参考最新記事:「イスラエル愛国者の最後の切り札はボイコットだ」ギデオン・レヴィ (ハアレツ 2013年7月14日)
http://d.hatena.ne.jp/stop-sodastream/20130715/1373904886
※訳注 1:エリ・ヴィーゼルの聖書の言葉は、「汝の隣人の血が流されるとき、無為に傍観する勿れ」レビ記19:16。
※訳注2:著者ローレンス・デヴィッドソン博士は、米国ペンシルバニア州のウェスト・チェスター大学の 歴史学教授。中東史研究を中心に、中東と米国の関係史、および現代ヨーロッパ思想の研究者。Intifada-Palestineの常連投稿者。
●出典:Intifada-Palestine ,Posted: 01 Jul 2013 05:29 AM PDT
The Crime of Indifference – An Analysis by Lawrence Davidson
無関心の罪
ローレンス・デヴィッドソン博士(松元保昭訳)
2013年7月1日
パート Ⅰ、無関心
エリ・ヴィーゼルは、世界的に著名な人物である。ナチズムの強制収容所にかんする心を揺り動かす描写の著作によって、彼はホロコースト犠牲者の象徴的人物となった。彼の多くの洞察のなかに、「愛の反対は憎しみではない。無関心である。」という有名な 言葉がある。ヴィーゼルは繰り返しこのモチーフを語ってきた。セントルイスのワシントン大学で行われた2011年の卒業式のあいさつで、 彼は聴衆に語った。「私にとって、もっとも大切な戒めが聖書のなかにあります。『汝、無関心でいる勿れ』これは、あなたが不正を目撃した なら無関心に傍観してはならない、ということを意味します。」また2012年、ボストン講義のあと、ヴィーゼルはボストン大学の学生たち に語った。「…傍観ゆえに無関心にさせる無知こそ、最大の危険であると私は思う。…もし誰かが苦痛を受けており、彼または彼女の苦痛を軽減するために私が何もしなければ、私のどこかが間違っている。」
残念なことに、シオニズムを支持し行動を共にすることでヴィーゼルは、モラルの象徴のような彼の評価が疑われる矛盾 とディレンマに必然的に陥っていることになる。実例として、2010年3月、ちょうどイスラエルがパレスチナ住民を立ち退かせていたと き、彼はエルサレム問題をめぐってイスラエル政府にいかなる圧力も与えないようオバマ大統領に公開の嘆願を訴えていた。そうすることで、 彼はイスラエルの目的と行動という現実の姿に、彼自身の無関心をさらけ出していたのである。その結果、100人のイスラエル知識人と活動 家たちは、彼の態度と振る舞いに「失望」と「怒り」を表明した公開書簡を送った。
それにもかかわらず、無関心と無反応についての彼の評言は、重要であり洞察に満ちている。例えば、「もし誰かが苦しんでいるなら、彼または彼女の苦難を軽減するために私が何もしないのであれば、私のどこかが間違っています。」こうしたヴィーゼルの格言 は、何十年ものあいだ「無関心に傍観してきた」彼の多くの仲間のシオニストの誰彼を審査する基準として用いることができるものである。
パート Ⅱ、イスラエルの無関心
最近、ウリ・アヴネリがここで示した事実に注意を促す幾つかの記事があった。(ハ・アレツの同記事全文を下段に紹介 しています。=訳注)
「われわれ[イスラエル人]は、われわれがいつも見ているこの状況[「我が家からたった2,3分のドライブで行く」 占領]に慣れるようになってしまった。」ニューヨークタイムズの前エルサレム支局長エタン・ブローナー氏は、イスラエルの政策と差別的な 常習行為が引き起こす苦しみに対するこの広がる無関心を確認した。「[イスラエル人の」わずかな人でさえパレスチナ人について話をしませ ん。…長い間彼らの中心的な課題と見えていたこと―他民族とこの土地をいかに分かち合うか―に焦点を当てる代わりに、イスラエル人の大部 分はそれを無視しています。」
さらに具体的には、第二次インティファーダが勃発した2000年9月以来、イスラエル軍は1500人以上のパレスチ ナ人の子どもたちを殺害した、例えば現実のこうした事実を見て見ないふりをしている。中東モニターによれば、「ほぼ13年間で、3日ごと に1人の子どもがイスラエルに殺害されている」ことになる。同じ期間に、負傷した子どもは6000人に達し、18歳以下の子どもは約 9000人が逮捕されている。ヒューマン・ライツ・ウォッチのような民間NGOはもちろん国連によっても立証されているパレスチナ人の苦 難は、実際、平均的なイスラエル人によって顧みられることなく依然として進行している。
そして状況としては、少しも改善されそうにない。イスラエル人がパレスチナ人の苦難に無関心を決め込んでいるあい だ、イスラエル政府はこの苦難の体制を無期限に続行し維持するという意向をほのめかした。「イスラエル内閣の新星」通商大臣ナフタリ・ベ ネットによれば、パレスチナ国家という発想は「死んで」おり、西岸の相当な範囲を併合すべきである。国防副大臣ダニー・ダノンはこれに同意し、「われわれは、1967年のラインの内側にパレスチナ政府を創設するような政府ではない。国家主義者(ナショナリスト)の政府であ る。」と述べている。その間に、彼らがそれ(パレスチナ人の苦難)を考えようと考えまいと、イスラエル人の相当数は、パレスチナの土地の 不法な占領をますます拡大することで利益を得ているのである。
パートⅢ、無知の役割
われわれはヴィーゼルの言葉を使ってこのように問うことができる:
パレスチナ人の65年もの苦難をまったく気にかけないイスラエル人は何が間違っているのか?イスラエル人の何が悪い のか?彼が「傍観ゆえに無関心にさせる…無知」と述べるなら、ヴィーゼル自身が解答の一部をもっていることになる。
無知とは何か?平均的なイスラエル人は、この問題で本当に無知なのか?最初はこの主張がばかげているようにみえる。 そもそもアヴネリが注意を引きつけたように、パレスチナ人のこの苦難は、大部分のイスラエル人の裏庭からけっして「ちょっとの間」以上の 距離ではないし、ときどきイスラエル・ユダヤ人の上にブーメランとして返ってくることもある。それにもかかわらず、一種の仕組まれた意図 的な無知が効果を示し始めるのだ。人は、無関心を引き起こしては、自らの役割と他者の苦難をともに否定する歴史観を身に着け、無知のなか で育てられることが可能である。集団全体は、純粋に(その無知を)信じている人々の中でも最も忠実な適合の仕方をする人々によって、心理学的にそのような人格形成を行うことができる。このように条件付けられた無知が、他者の運命にたいする無関心の基盤になっている。イスラ エル人はこのプロセスの完成品を作り上げているのだ。
しかし、このシナリオはシオニストやイスラエル人のオリジナルではない。事実、多くのシオニストはこのように世界を 見る観方をアメリカ人から学んでいた。数年前に私は、この遺産を探究した『アメリカのパレスチナ』という本を出版した。結論から言うと、 1920年代のシオニストの主題のひとつは、現地のパレスチナ人が文明化と現代化の勢力に激しく抵抗する先住民アメリカ・インディアンと 同等のアラブ人であったということであった。これらのインディアンの破滅―残忍な略奪と民族浄化に対する平均的なアメリカ人の態度はどう であったのか? それは、やがては大部分のアメリカ人が、インディアンや彼らの運命をまるで考えようとしないまでに大きく成長した無関心というものであった。
数年前、ペンシルバニア大学で討論したとき、イスラエル・ペンシルバニア領事館の副領事と彼のシオニスト・グループ の学生たちに、この関連の説明を試みたことがある。長期にわたるシオニストの戦略は、パレスチナ人を民族浄化することであった。それゆえ 世界に対しては、 そのうち時がたてば慣れてゆき、つぎにはこの罪を忘れるよう期待することであった、とそれとなく言ってみた。100年あるいは150年たって、 誰がパレスチナ人を思って泣くだろうか?今日同じ集団について、アパッチ族やシャイアン族を嘆くように?しかしまた、私は、今日のポスト 帝国主義者の世界において、この歴史的なシナリオが同じことを繰り返すとは考えられなかった、と彼らに話した。領事と彼の取り巻き連中みんなの反応は否定的だった。彼らは退場していった。
パートⅣ、結論
ヴィーゼルがそれほど恐れている傍観にいたる無関心は、すぐにもわれわれの人生の習慣的な一部となりうる。そもそ も、われわれの人生の多くは、まさに「与えられた立場で合理的に有用か不合理に不適切か」どちらも可能な「習慣的な行動の連続」である。 後者の場合、われわれはトラブルを起こすことになる。イスラエル人がパレスチナ人の苦難を無視しているとき、この点で彼らは「彼らの与えられた立場で不合理で不適切な」行動をしており、それは、ヴィーゼルの言い方では、彼らの「何かが間違っている」という意味になる。あまりにこの行動様式を繰り返し振る舞ってきたわれわれは、アメリカ人として、この症状を認めるべきである。シオニストがこの無感覚をモデル としたように、現在この無関心は、イスラエルの土地にかんするわれわれの「特別な関係」の指標となっている。
(以上、ロー レンス・デヴィッドソンの翻訳終 り)
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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