「起こりうる」冤罪の背後にひそむものは何か
- 2013年 12月 5日
- 評論・紹介・意見
- 合沢清書評
書評:『ハーグ国際法廷のミステリー』ドゥシコ・タディチ著 岩田昌征訳・著(社会評論社 2013.11新刊 2000円+税)
*本書は2011年12月9日から2012年5月25日にわたり、サイト「ちきゅう座」に掲載された原稿に基づいている。
この書の副題は「旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の戦犯第一号日記」となっている。この書の訳者兼解題の著者である岩田昌征は、日本を代表する東欧史、特に旧ユーゴスラヴィア、ポーランド地域研究を専門とする第一級の学者である。
彼がこの書を翻訳するに至った経緯は、この書の前書きに書かれている。ベオグラードの書物見本市でのこと、あるセルビア人女性が著者のドゥシコ・タディチに「この種のテーマに関心を持つ外国人」がいるとすれば「日本人のIWATA」だと告げたことによるそうである。なんとも奇妙な縁だ。
この訳書を一読して感じたのは、訳者の解題から逆に読むほうがこの中身がよくわかるのではないかということだった。もちろんこの書を最初から読み進んでも、「なぜ無実の(少なくとも彼自身はそのように主張している)人ドゥシコ・タディチが『コザラツのアイヒマン』と呼ばれるようになったのか」「ハーグの国際法廷は、この件について何をどれだけ調査したのか」「セルビア人への先入見を持っていなかったか」など、いろいろな疑問がわいてくるし、「無実の者が犯罪者にでっち上げられていく(冤罪)」というミステリー性は十分味わえるだろう。
しかしそれでも、旧ユーゴスラヴィアをめぐる民族問題、複雑な歴史などは、なかなか素人には理解しづらいものである。いや、素人どころか、有名なロシア語の同時通訳者だった故米原万里ですら、その著の中でこう白状している。
「実は、ユーゴに隣接する国々の著者が書いたものは、これ以外にもずいぶん目を通したのですが、意外にも、近視眼なくせに抽象的で余計わかり難くなる。それで、岩田昌征さんの『ユーゴスラヴィア―衝突する歴史と抗争する文明』を読んで、いきなり目の前がパーッと開けて興奮したんです。本書は、旧ユーゴの内戦について書かれたものの中で、実状を熟知し、斬新な見方を随所に光らせ、従って群を抜いて面白い。スターリン型ではない社会主義を模索していたユーゴ連邦がなぜ崩壊し相互殺戮地獄に陥っていったのか、その謎を岩田氏は実に丁寧にそして大胆に解きあかしてくれます。・・・」(『ガセネッタ&シモネッタ』文春文庫の中の「芋蔓式読書」p.281)と書いている。この書の解題「リベラル文明の盲点」、特にその後半は、この米原万里の指摘の正確さを証示し、岩田昌征のこの分野での造詣の深さが現れている。
しかし、書評という性格上、ここでは必要な限りにとどめ、詳細な論述は省く。興味のある方は直接本書の解題あるいは岩田の類書にあたっていただきたい。
「起こりうる」冤罪
著者ドゥシコ・タディチ自身が、この「日記」の中の少なくとも二カ所で引用しているのが、次のカフカの『審判』中の言葉である。
「誰かがヨーゼフ・Kを中傷したに違いなかった。何もしていないのにある日逮捕された。」(本書p.73)
まさに突然に、理由も明らかにされないまま逮捕、拘禁されるという事態が起きたのである。今、大問題になっている「特定秘密保護法案」がすぐに想起される。逮捕理由は、本人にも弁護士にも永遠に明らかにされないことがありうるのである。その結果は密室・暗黒裁判!
これほど気味の悪いことがありうるだろうか。何も分からず、何も知らされないままに長期に拘束・拘禁され、自己弁護の機会も与えられずに有罪判決が下されるのだ。どうも犯人といわれる人間を取り違えた(間違えた)らしいのである。そのために14年以上の拘禁状態におかれたのだ。「情報公開」が閉じられた結果が生み出すのは、かくのごとき不可思議で、気色の悪い状況なのである。
岩田は「経産省前テント裁判」での被告人(正清太一氏)取り違え事件をこの「起こりうる」例として取り上げている。
「ところで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの戦乱状況からほど遠い平和な日本社会の首都東京においても、同じような人違い事件が発生した。福島第一原発事故再発に警鐘をならすテントが経産省管理遊休国有地に出現し、国が国有地不法占有の賠償を求め、占有者二人に対して民事訴訟を起こした。平成二五年七月二二日に第二回口頭弁論が東京地裁で開かれたが、『朝日新聞』七月二三日によると、国が提出した証拠写真三枚のいずれも被告本人ではなく、別人のものであった。・・・被告正清氏と別人A氏は、共に白髪、目付き、鼻付き、顔付きが似ている。しかし、体格は全く異なる。それなのに経産省の役人は、10メートル先のテントにいた正清氏とA氏を識別できなかった。A氏の写真を正清氏の不法行為の現場写真として裁判所に提出した。弁護団に追求され、国の代表者はただただ沈黙、傍聴席は満座爆笑であったという。平時でもこんな取り違えが起こった。ましていわんや、凶事混乱の最中においてをや。」(本書p.139)
つまり、被告ドゥシコ・タディチは、この戦闘の頃は、ここで問題になっている土地にはおらず、他所で暮らしていたにもかかわらず、彼によく似た別人の収容所官吏と取り違えられて(間違われて)残虐非道な「コザラツのアイヒマン」とされたようなのだ。
「この」冤罪はなぜ起きたのか
このような実にばかばかしいほどの単純なミス(犯人像の取り違え)は、しかしながら間違われた当人にとっては「単純ミス」では済まされない。そのために14年以上もの長期にわたり牢獄暮らしを強要させられたからである。
それではなぜ、このような「単純なミスが起こりえた」のであろうか。私見ではあるが、先に岩田が引用した「経産省前テント裁判」でのミスは、被告とされた「正清太一」氏が、元社会党の練馬区議であり、その名が知れ渡っていたための先入見が経産省の役人の判断を狂わせたともみなしうる。それでは今問題になっているドゥシコ・タディチの場合はどうであろうか。この謎解きをする名探偵役に訳者・著者の岩田昌征はまさにうってつけである。以下、岩田の「解題」の中からこの辺の事情について触れている個所を少しくピックアップして考えてみたい。
「(第一次世界大戦)初期の戦場は、東ボスニアのドリナ河であった。1914年9月後半、セルビア人義勇軍が押さえていたスレブレニツアをオーストリー軍が奪還した時、ムスリム人・クロアチア人部隊も一緒になって現地住民に対する惨たらしい報復を行った。殺害された義勇軍隊長コスタ・トドロヴィチは、英雄となり、今日に至るまでセルビア人殉教伝説に生きている。」・・・オーストリーの軍令は「住民に対して(の)人間性や節度」はすべて無用・有害であると命じ、その結果「『k.u.k軍(オーストリー帝国とハンガリー王国軍)は、パルチザン攻撃に対して一般住民を人質となし、数千の男女、子供を殺害し、村々を焼き払い、運べるものすべてを掠奪した。しかも、この事は、セルビアにおいてだけでなくドリナ河の向こう岸、すなわちボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BiH)においても現実だった。』」(本書p.153)
ここに読み取れるのは、歴史的に形成された「民族憎悪」と報復の連鎖という構造である。このことはチトーの時代になっても本質的には変わらなかったと岩田は指摘している。
「労働者自主管理、市場・協議の混合経済、そして非同盟外交を三本柱として、諸民族の『友愛と団結』の普遍主義的民族政策、すなわち連邦内インターナショナルの旗の下に新国家ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」(本書p.160)が出現し、大成功を納めたかに思われたのであるが、それすら崩壊する。何故か。
「ここでは、『友愛と団結』の民族政策の下に第二次大戦中の兄弟殺しの具体像がかくされてしまった事を指摘しておこう。全国に何十何百とある兄弟殺し的虐殺の現場では、すべてファシズムという抽象の犯罪にされた。」(本書p.160)
しかし、殺された者の親族は勿論のこと、殺した者の親族さえも、子々孫々にいたるまでその具体的な記憶をとどめているものである。
「パルチザンの敵方の凶行に関してもこのような状態であったから、パルチザン自身の凶行の黙殺は徹底していた。例えば、1945年5月にオーストリーの町(スロヴェニア国境に近い)ブライブルグでイギリス軍によって引き渡されたウスタシャ軍人、チェトニク軍人、そして家族達のパルチザンによる処刑の犠牲者は、数万にのぼる。しかし、社会主義時代、私は、その話を聞いたことがなかった。社会主義崩壊とは、まさに第二次大戦中の兄弟殺し隠しの崩壊であった。」(本書p.161)
このように歴史的な事情を追ったうえで、岩田は次のように推理する。少し長いが引用する。
「私が『タディチ裁判』に関連して、何故に王制対共和制の問題を説明したのか。ドゥシコ・タディチは、・・・『私の父は、ユーゴスラヴィア人民軍の将校で、友愛と団結の精神で子供たちは育てられた。』と書くように、チェトニク(王党派セルビア民族主義者)の伝統から無縁な家庭で育った。そんな彼が体制崩壊後のナショナリズム時代の嵐に巻き込まれて、対クロアチア・ナショナリズム、対ボシニャク(ムスリム人)・ナショナリズムの関係では、セルビア・ナショナリズム一般に身を置くことで困難なく対応しえたとしても、セルビア・ナショナリズム内部で王統派ナショナリズムが強くなって行く中で対処できなくなって、戦線離脱し脱走の汚名をあえて選んだ。そして、ドイツへ逃げた。こんな推測も働く。また、もしかしたら、『髭面』の男は、チェトニクの家庭で、社会主義時代に冷遇されていたのかも…。」(本書p.165)
ここまでの下りは、民族憎悪の連鎖が今日まで消えずに生き残っているという歴史的事情を基にした推論であった。しかし、岩田の議論はここにとどまらない。むしろここからが彼の真骨頂とも言える。
多民族戦争の裏にひそむ階級形成闘争という本質
「被害者が同時に加害者となる」という弁証法的な転倒は、歴史的な事象だけに限らず、日常生活のいたるところでよく経験するところだ。例えば米軍基地を押し付けられた沖縄(被害者)から飛び立った爆撃機が、ベトナムやアフガニスタンやイラクを攻撃するとき、沖縄は同時に加害者の役割を担わされることになる。実際に、沖縄で「米軍基地反対」を闘っているある友人から聞いた話なのだが、彼らがベトナムのハノイでの交流会に参加した折、彼らの出身地が「沖縄の嘉手納」であると紹介された途端に、座が一瞬白けたそうである。民族憎悪の連鎖にも同様な論理が働いていることは、この本のあちらこちらで岩田が指摘している通りである。
そのことを十分意識した上で、彼の視点は、この転倒劇の背後に潜むものを透見する。
その推論の一端は先に引用したのであるが、それは次の箇所で更に鮮明化される。
「ところで、かかる論脈で本書の53、『額へ弾丸を』を読んでいただきたい。そこには、多民族戦争の裏にひそむ階級形成闘争における勝者になりつつある者の本音が暴露されている。階級的利益が民族的利益に勝っている。プリェドル危機管理本部のセルビア人実力者は、『私を解任することはできるだろう。そうなったならば、私は、この地域全体をクロアチアに合併させるだろう。私達は、倉庫に460万トンの鉄鉱石を保有しているそれをシサク(クロアチアの都市、製鉄所がある。岩田)へ運搬して加工するだろう。こうして金が入る。』言うまでもなく、この社会有鉄鉱石は、当時、強制収容所に転用されていた社会有オマルスカ鉱山(今日は私有化され、ミッタル製鉄の一部)産出であった。」(本書p.162)
次の箇所を紹介して、この書評を締めくくりたいと思う。
ハーグ法廷とは、正式には旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)のことで、1993.5.25国連安保理決議で設立されたものである。日本人の多谷千香子はその法廷の判事を務めたことがある。その多谷によれば、「個々の事件は、・・・偏向した見方に左右されずに真実を洗い出している。・・・」という。その点に岩田は真っ向から反対する。
「すくなくとも、ハーグ法廷の検事と判事は、タディチ側と同じように偏向した見方にとらわれており、どちらかの『偏向』がポリティカルにコレクト(「政治的に正しい」)として文明社会で採用されただけであるかのように見える。タディチ裁判がハーグ国際法廷の出発点、第一号であることを考えれば、第三者として『真実を洗い出している』と納得し切れないところが私には残る。」…「『審理の過程で自ずから明らかになったのは、・・・一部の政治家や軍人が、自己の権力拡大と蓄財のため・・・民族浄化を煽り拡大したという構造であり、そのような構造は民族間で違いはなく・・・。』という主張は、多民族戦争勃発以来の私の主張と同じである。問題は、そんなことは『審理の前』から分かっていた事で、それが分からなかった人達によって、主としてセルビア人が多く起訴され、多民族戦争の国際的宣伝戦において一方を悪魔視する国際世論形成にICTYが大きな役割を果たしてしまった事にある。・・・」(本書p.172)
2013.12.4 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion4676:131205〕
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