書名『死に支度』
- 2015年 2月 17日
- カルチャー
- 『死に支度』書評瀬戸内寂聴雨宮由希夫
著者 瀬戸内寂聴 発売 講談社
発行年月日 2014年10月30日 定価 ¥1400
この私小説的長編小説の主人公は91歳の誕生日を目前にして、夜も眠らず年がら年中仕事に追いまくられている女性作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん。舞台は主人公が1974年に京都・嵯峨野に開山した「曼陀羅山 寂庵(じゃくあん)」である。物語は、そうした作家の超多忙な日常を見るに見かねた、長年付き添った女性スタッフたちが涙ながらに、「私たちを養って下さるためにお仕事が減らせないのです。どうか先生のお好きな革命をもう一度なさって、この際思いきって暮し方を変えて下さい」と突如やめると言い出す場面から始まる。残されたのはモナという名の一番若い66歳年下の孫娘のような20代の女性一人だけであった。主人公いうところの「春の革命」の勃発である。
本書を手にして、まず、タイトルと白地に金箔の表紙装幀に驚く。あの寂聴さんもいよいよか……と思いつつ、急ぎページを括ったが、「本音を言えば、この小説を書いているうちに私は必ず死を迎えられて、この小説が今度こそ最後の作品となってくれるだろうと考えていた。ちょうど1年間書いたが(初出は『群像』2013年8月号から2014年7月号である)、どうやらまだ死にそうもなく、それでいて、今夜死んでも何の不思議もない私に愛想をつかして、“死に支度”なんて、小説の中でも、実生活の中でもやめようと決意した」と書かれているのを読んでホッと胸をなでおろした次第である。時に「どうして私、死なないんだろう、もう生き飽きたよう!」と口走る寂聴さんと、時に「92歳って、死の上に張った薄い氷に乗っているような感じなのです」と泰然自若な寂聴さんにお目にかかれるのが不遜ながら愉しい。
「自分の死についてあれこれ考えだしたのは、70歳頃からだった」という寂聴さんは、今こそ自分の臨終の用意のために『往生要集』を丁寧に読み直している……。そのかたわら、日々、記憶の中から、知己たちの死に際を思い起こしているが、近親者の死。とりわけ二人姉妹の姉の死を綴った一文には心打たれる。「中尊寺で剃髪の場に付き添ったたったひとり」の姉は、かつて、結婚できない人と付き合っている妹に、「どうしてもその人の子どもを産みたかったら産みなさい。私の籍に入れて、私が育ててあげる」と言ってくれた姉であった。5歳年長の姉と仲良しであった作家は「私のように恥も外聞もなく、心をさらけ出しては生き延びてくる蛮勇のなかった姉」を何度も偲んでいる。
大正11年(1922)5月15日に徳島市の神仏具商の家に生まれた作家は今年で御年満93歳となる。司馬遼太郎をして「天性の作家」と言わしめた寂聴さんは、稀有にして偉大な私小説作家にして歴史小説作家である。
平成19年(2007)5月15日を奥付として上梓された『秘花』(新潮社)は能の大成者・世阿弥を主人公とし、謎に包まれた晩年の世阿弥がどのように逆境を受け止め、老いと向き合い、死を迎えたかを描いたものである。「72歳といえば、もう充分生き過ぎた命ではないか」と自らを慰めながら配流の地・佐渡に生きる世阿弥が活写されている。『秘花』は当時85歳の作家が自らの命を注ぎ込んで世阿弥の生涯82歳をみずみずしく書き上げた伝記小説であり、渾身の歴史小説である。
本書『死に支度』の帯に「死に支度は、生き支度。今すべての世代へ贈る、限りなく自由で温かい“生と死の知恵”」とあるが、本書が幅広い世代に、多様な読まれ方をしているというのもうなずける。舞うように生き、生きることが舞うことだった世阿弥の生きざまを鮮やかに蘇らせた『秘花』より8年。作家の筆はおいてなおますます軽やかである。どうしてこんなに平易でみずみずしい文章が書けるのかと脱帽せざるを得ない。書くことに関して、本書には「どうせ死ねないのならば死ぬ日までペンを握って、机にうつ伏して死にたいと切望している」。「今、こうまで生き永らえて、何が嬉しいかと言えば、小説を書くことだけである。どんな短いものでも、新しく産み出した小説が仕上がった時くらい全身に喜びが満たされることはない」とある。
座右の銘は「生きることは愛すること」だというが、本書には、「いつでも生きた、書いた、恋したの生涯」で、「私なりにいつでも全身全霊で、思い残すことはない」と言い切る。わが生涯に未練なしと言い切れる、そのこと自体が羨ましいが、そもそも、寂聴さんにとって、書くことは生きることであり、寂聴さんは書かずにはいられない真の意味でのモノカキなのだ、と思い知る。
寂庵は昭和43年(1973)に中尊寺で出家した寂聴さんが1年後に嵯峨野の小倉山の麓に結んだ庵(住まい)であり、寺(修行の場)である。「40年ほど前から棲みついた京都のこの嵯峨は、王朝の物語に出てくる嵯峨野の余薫のようなものをどことなく残していたが、今では恐ろしいほどの勢いで、そうした情緒は日々打ち砕かれている」。嵯峨野の変貌の激しさを作家はこのように綴っているが、その寂庵では20代のモナとアカリ、91歳のセンセが日々を送っている。時に「死ぬのは怖くないが呆けるのが恐ろしい」「赤恥をかかない前に、一に都も早く断筆宣言をすべきではないか」と老いに悲観的にもなるが、新米秘書たちと笑いころげ、冗談を言い合う寂庵での暮らしもつぶさに描かれている。生命力と無邪気なまでの愛らしさにあふれる瀬戸内さんの素顔に引きつけられる。
私事ながら、瀬戸内さんの素顔といえば、私は1度きりだが、寂聴さんにお会いしたことがある。平成10年(1998)秋、当時、私は神田神保町のS堂の本店長であったが、『現代語訳源氏物語 全10巻』(講談社)の完成を記念しての「瀬戸内寂聴サイン会」の開催を依頼するや、快諾してくださった。寂聴さんは当時のことを、「国内外の講演や展覧会に駆け回り、休む暇もなく、達成感の昂揚と骨身にしみた疲労の最中にあった」と回想されている。当時76歳の寂聴さんが、あえてサイン会に応じてくださったことを今にして思い知る。事前打ち合わせの席上、色紙へのサインをお願いすると、私の禿げ上がった頭を凝視しつつ、微笑みながら悠然と筆で色紙上に大きな円(マル)描いてくださったことも忘れがたい。
「正直に言えば、私はもうつくづく生き飽きたと思っている。わがままを通し、傍若無人に好き勝手に生き抜いてきた。ちっぽけな躰の中によどんでいた欲望は、大方私なりの満足度で発散してきた。最後のおしゃれに、確実に残されている自分の死を見苦しくなく迎えたい。人は自分の生を選び取ることはできないけれど、死は選ぶことが許されている」としつつも、「人間に自分の定命(じょうみょう)が知らされないのは恩寵だろうか、劫罰だろうか」とも。なんと奥深いことばであろうか。92歳の寂聴さんの明日も、66歳年下のモナの明日も、私たち読者の明日も、誰にも分からない。たしかに、それこそが恩寵なのである。
「51歳で出家」という表現が何度も出てくる。「出家は生きながら死ぬことだから、ほんとはもう死んでいる。今ある現身は仮の姿」とある。臨終をどう迎えるか、誰もが避けて通れず心によぎる思いを主題としながら、作家として、宗教者として、人間としての生き様を晒して、死への思いを福々しい晴れやかさで語りかけ細やかに綴った本書はかけがえのない一冊である。
「次作は」との声に、寂聴さんは「次のタイトルは『神も仏もない』にしようかしら」と応じたという。ありがとうございます、寂聴さん。たのしみにしております。「次の東京オリンピックを見ることもないだろう」などとおっしゃらず、いつまでもお元気でいらして下さい。
(平成27年2月9日 雨宮由希夫 記)
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