ピケティとマルクス格差論と古賀茂明発言問題としての2015年4月的段階について(その2)
- 2015年 4月 3日
- 交流の広場
- 武田明
今回も以下の続報です。
1.マルクスとピケティについて
2.池田信夫氏と古賀茂明氏について
池田信夫氏は、一見、左翼的装いを持っている。
『資本主義の正体』
http://revolutio.exblog.jp/21679054/
日本人のためのピケティ入門
http://revolutio.exblog.jp/21679062/
だが、逆説では何も生み出さない。
左翼はなぜ劣化したのか
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51931722.html
左翼小児病を生む「純粋信仰」
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51933638.html
「彼らが完全に消滅したあとに、初めて日本の本当の問題を語れるときが来るだろう。」
「4月からのアゴラ読書塾では、こうした戦後の左翼的知識人の挫折の歴史を振り返り、その原因を考えたい。」
この問題は、おいそれと答えられるものではないのだろう。
ただ、現状追認だけであるなら大衆、庶民は、その時代の奴隷の位置に留まり、政治的にも安倍自民党の一党独裁体制に甘んじるだけの存在であり、自己としてのアイディンティティを持つことも出来ない。
逆説では何も生み出しはしない故に、この時代のニヒリズム、新たなる大政翼賛会的状況に抵抗する思想、理想としての独立とは何かを明確にしていなくてはならないはずだ。
それが、ピケティ格差論からマルクス的歴史学批判を考察する今日の淡いブームではあるのだが基盤である。
ブームをブームとして終わらせてはいけない危機感は、こちら側にあり、富裕層に独占されている「政官業」支配、政治、政党政治壊滅支配としての自民党一党独裁体制に抵抗をしながら、反原発運動と辺野古基地反対運動をただ反対だけではなく、別案対案としての基盤たるピケティ格差論から関連付けて、明確にしていかなくてはならないと言う事なのではないのだろうか?
しかし、これは、一人間の生涯には、余りある歴史的人間の視点である事がある。
教条を産まずに、知識的延長である「日常的人間」としての短い生涯のものが、「歴史的人間」としての視点に立てるのか?この問題があり、その問題意識を整理せずして、昭和史から平成史へ、その狭いに日本の時代さえも追うことが出来ない故の池田信夫氏のニヒリズム的現状追認としての諦念だけを知識人階級のものとしていくと言う事になりかねない危機感こそを分析しなくてはならないと言うわけなのだ。
池田信夫氏は、更に、
「翼賛体制」をつくった知識人たち
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51933885.html
この様に語り、戦前の赤狩り的視点を擁護していき、体制的帰依、大衆側の思考停止だけを知識的に推し進めれているのではないだろうか?
マルクスの最前線を考える上でも、また、古賀茂明氏発言問題を考える上でも、大衆、庶民としての視点としては、「教育格差」的にもピケティ氏が言われている様な知識格差が進められていて「歴史的人間」としての視点に到達されていない事が問題であるのだ。
反原発運動も辺野古基地反対問題も物理学的知識基盤、更に、日米関係史としての知識基盤へと容易に到達できない故の逆転的全体主義としてしか、マルクスも自民党政治独裁についても語ることが出来ていない故の弊害としての「梯子外し」としての古賀茂明氏おろしの風潮的抑圧もあり、朝日新聞社や報道ステーションにも与えられている「無言の圧力」「有言の圧力」としての危機感を感じている次第などである。
テント日誌3月29日…アルトサックスの音が/転載:古賀茂明、報道ステーション(生放送)で、降板理由を暴露
http://chikyuza.net/archives/52062
古舘伊知郎氏と古賀茂明氏の「報道ステーション」バトル全文書き起こし
http://chikyuza.net/archives/52054
本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(83)政官業の癒着体
http://chikyuza.net/archives/52108
自民党一党独裁政治を危機としてみるのか?必当然の日本主義的帰結とみるのかは、ピケティ格差論をどの様に処理して、「歴史的人間」批判として、マルクス論再生としての体系を知識人、大衆、庶民を問わず、ブームを乗り越えて、確固とした知識基盤として、繰り返し語り、広報しなくてはならないものとしていくかにかかっている様に思う。
しかし、マルクス研究には、苦々しい記憶とかつての知識人たちの失敗がある故に、おいそれと近づけなくなっている。
ましてや、大衆、庶民次元では、絶望的な「教育格差」「階級化」に晒されている故に、常に、「梯子が外されている」状況にある出発点を明確にしながら、まずは、「教育格差」撤廃から論を組み立てなくてはならないのだ。
池田信夫氏の様な逆説的ニヒリズムでは何も解決しないのだ。
むしろ、その投げ出しによっての弊害が、「政治の不在」としての安倍自民党の独裁体制である出発点を追認するだけの弱者排除の論理だけとなり労働者側の自主性としての基盤をこれまでも破壊してきた繰り返しでしかないだろうと言う危機感、警戒感の共有から開始しなくてはならないのだ。
古賀茂明氏の今後の展開に期待したいのだが、アウトサイダーの限界もあるやもしれない。
しかし、同じ、アウトサイダーに追いやられている山本太郎氏、植草一秀氏は、インターネットの中でも抵抗を続けている。
支援し、連携をしていく事によって、運動を広げて行けるし、それをしなくては、日本は、絶対的な階級支配の中で、幼稚なサブカルだけの支配する大企業文化コマーシャリズム支配だけの奴隷として甘んじるだけであり、「歴史的真実」と「歴史的人間」としての問題意識からさえ門前払いとなっている悲劇が続いているだけである。
では、それをどの様に、仕上げていくべきであるのか?
「純粋理性批判」もしくは、「純粋理想としての批判」は、どこにあるのか?
反「格差支配」反「階級支配」としての真の大衆運動として、ピケティ経済学を更に、強固に問い続ける必要もあるのだろう。
I am not Nobuo Ikeda
I am Koga
この危機感こそを更に、共有して広げていきたい。
右左を超えて、「反抗は正しい」サルトルカミュ論争にまで遡り、同じ、混乱をそろそろ卒業したい、「喪われた20年」を取り戻したい。
資本主義=エゴイズム(自我)=金融経済支配としての階級支配から自立した「純粋理想としての批判」を小さな声、ちきゅう座発であっても広げていきたいものである。
再び、教育商品論へと戻りたいのだが、時事的問題が、それを拒み続けている。
資本主義の恐れているのは、「人間の可能性」であり、それを封じ込めたい、奴隷として、押しとどめたいとする体制的支配に抵抗する「誰でも、モーツアルトになれる」ましてや、マルクスや古賀はたやすい良心の発露であると言う事をこれまで主題としたいとしていたのだ。
「純粋理想としての批判」I am Kogaとしての運動を更に、明確にしていきたい。
I am Koga
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