人の輪
- 2015年 4月 3日
- 交流の広場
- 藤澤豊
『天の時、地の利、人の和』の前の二つの句(?)、“天の時”と“地の利”には違和感がない。ところが最後の“和”には随分前からちょっと違うのではないかと思っていた。巷でどのように理解されているのか気になってWebで調べてみた。人さまざまとまではゆかないが、この三句にいくつもの違った理解があった。この類の専門家でもなし、原意に遡ってどうのという知識はない。今までなんとなく分かったような気になっていたのだが説明を見てちょっと驚いた。おいおいというのもあれば、なるほどそうもとれるか、でもそうとっちゃというのがいくつもあった。
気にしてきた”和“に入る前に前の二句、自分なりに整理してしまおうと思う。極端に言ってしまえば、「(偶然)いいところに居合わせた。」とでも思えばいいかなと思っている。映画『ダイハード2』でロスアンジェルスの警官ジョン・マクレーンがワシントン・ダレス国際空港で警察の仕事をして、地元警察署長に、いちゃあいけないところに、いけないときに、いちゃいけないヤツがいると怒鳴られるのとちょうど反対のことを思えばいい。地方自治が基本の米国では町のお巡りさんは町のお巡りさんで、その町を一歩出たらお巡りさんはではなくなる。
フツーは“人の和”だろうと思ってWebを見たら、“人の和”を“人の和(輪)”と書いてあったのが一つ見つかった。似たようなことを考える人もいるのかと思ったが、特別何か考えがあって“(輪)”をつけた訳でもなさそうだ。
“輪”はそのサイトだけで、それ以外は“和”となっている。正しくは“和”で、大勢の理解も“和”なのだろう。
よく日本人の社会性を評して人と対立するのを忌み嫌い、何はともあれ人間関係を平穏に保つことを善とする社会観が上げられる。常に周囲の人たちの言動や動静に注意を払い、大勢のなかに身をおく事を処世術としてきた。大勢順応が文化の根底にあるところでは個人の自立やそこから生まれる自由闊達な個人としての主張や考えは疎まれる。多くの人たちと一緒にいる、同じでいたいというところから、次の時代を背負う新しい考え、今までから一歩ぬきんでた視点や考えなどでてきようがない。没個性の集団行動を基本とした教育思想(管理し易い人材育成)のもとで、国際社会でも通用する個性を育む。。。その反動からか大勢のなかでのささやかな自己主張-五十歩百歩の“個性”がことさらに強調される。
人と違う生活、違う視点や思想や意見が大勢と齟齬をきたせば、あいつは変わっていると疎外される。疎外されるのを恐れれば、たとえ腹のなかでどう思っていようが大勢に見えるところで迎合することになる。それを繰り返していれば、個人としてのみならず社会の文化として大勢に巻かれるのを善とする社会ができあがる。
あれこれある思考や志向に嗜好。。。をレーダチャートで表すと分かりやすいかもしれない。日本人の多くができるだけ大きな丸を求める。減点主義に汚染された感情から何かに秀でるより、何かで劣らないことを優先する。そのうえに大勢順応本能が働くと、誰もがそれぞれ特徴なり個性をもっていたとしても、ある許容値に収まろうとする。許容値を大きく超えてはみ出れば、その主張や考えは“和“乱すことになり、疎外の対象となる。
いくら集まっても誰も彼もが似たようなレーダーチャートの人たち、似たような興味の対象を似たような視点で似たように見て、同じように考え、同じように判断して、同じような口ぶりで話をして、空気をよんで場を保つ。
そこには、恐ろしいほど画一化された大文字の“和”があるだろう。それを保つのが参加者の最大の関心事になって、個人個人の自由な視点や考えをすべて覆い隠す。
そこから何か次の時代を背負って立つ、そこまでゆかなくても人を啓発するようなものがでてくるとは思えない。
似たようなレーダーチャートを何枚重ねても同じ領域をカバーしているだけで、カバーできる領域は広がらない。
反対意見もなければ何もない、似たようなDNAを共有しているが故にある特定の環境には適合できても、違う環境には適合しえない、環境変化への順応という点でみれば、非常に脆弱な集団といえる。知識や知見、思考も嗜好も特定の領域に限られたモノカルチャー集団になってしまう。
“和”を“輪”に置き換えて、違う社会層、業界、立場。。。さまざまな違う人たちが集えば、知識の共有から融合に始まってさまざまな広がりが生まれる。どんなに優秀な人であっても人が一人で処理できる情報の量や種類、領域はしれている。一人の限界がある。その限界を人の“輪”が押し広げてくれる。違う領域で禄を食んでいる人たち、違う文化で生活している人たち、その人たちが個々の認識や考えを分かち合えば、一人の個人としての限界から一歩でれる。その一歩が、「いちゃあいけないところに、いけないときにいる。」から「(偶然)いいところに居合わせた。」への足がかりとなる。
“人の和”の大事さは分かる。誰しも事を荒立てることなく平穏無事でいたい。それですめばいい。お互い立場も違えば視点も違う、志向も違えば嗜好も違う人たちが言い合い、押し合いへし合いしながら“人の輪”で先に進む。何か価値あるものを求めれば“和”の中に留まっているわけにはゆかない。“和”にはちょっと後ろに下がってもらって“輪”が常態、ちょっと疲れたらまた“和”に戻って。。。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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