2015年ドイツ逗留日記(8)
- 2015年 8月 15日
- カルチャー
- 合澤清
1.今季初めての小旅行(エアフルト、イエナ)-8月8日
ドイツ滞在も残り1カ月を割り込んだ。8月に入ると友人たちからのお誘いやら何やらで例年大忙しになる。今季、週末に自分らで旅行ができるとすれば、8、9の日か15,16の日しかない。思い切って旅行に出掛けることにした。
土、日に限ったのは、いうまでもなく「週末格安乗車券」が使えるからだ。昔は、この週末旅行券は1枚25マルク(今だと12.5ユーロ程度)で、5人まで乗車可能、しかも2日間使えた。今は民営化(日本同様)の「おかげで」サービスはグーンと低下、料金はグーンと高くなり、1枚2人券で44ユーロ、しかも乗車は1日だけ。日曜日はまた44ユーロを払って買わねばならない。
日本の「国鉄民営化」を振り返ってみれば分かるように、お金持ちには誠に都合よく、快適になってきてはいる。しかし、われわれ一般庶民にとっては新幹線やリニアモーターカーや九州の超豪華旅客列車(「ななつ星」3泊で55万円なり)などよりも、長距離の格安列車や普通急行列車や、地方の人々に日常的に利用される列車などの方がはるかに重宝である。「民営化」といううたい文句で、すべてを商業主義一本にしてしまうやり方は問題があるどころか、危険である。直接社会的弱者の切り捨てにつながりかねないからだ。
もっと危険なのは、今アメリカで既に実行されている「軍事民営化」である。戦争の民間企業請負によってとんでもない悲劇が引き起こされていることは、チャルマーズ・ジョンソンや本山美彦など多くの論者が指摘している通りである。日本でも「戦争法案」によって同じことを安倍政権がやろうとしていることを銘記すべきである。
軍隊の民間委託、消防や警察などの民間委託(大学、研究施設の民間委託はすでに進んでいる)、最後に政治の民間委託まで行けば、文字通り「日本株式会社」の完成ということになろうか?しかし、これは決して笑いごとではすまされない。
話を小旅行の方へ戻す。朝8時ごろのバスでゲッティンゲンへ行く。
Cantusというドイツ鉄道(DB)民営化によってつくられた子会社の各駅停車の電車に乗り、のんびりと、トコトコゆられてBebraというところで乗り換えながらエアフルトまで行く。約3時間ちょっとの旅。
エアフルトは大きな美しい古い町である。僕らは毎年訪れていることもあり、今回はあくまで途中下車での散歩といった程度で歩いた。ここは旧東ドイツに属していたため、今でも並みいる社会主義者(共産主義者)たちの名前を冠した通りや公園が数多く残る。マルクス広場、エンゲルス通り、ローザルクセンブルク通り、リープクネヒト通り、等々。
Angerという広い電車通りを左に曲がり、曲がり角を少し行ったところにあるパン屋でサンドイッチを買って、それを持ってHirschgarten(鹿庭園)まで行きそこの木陰のベンチに座って食べた。
この日、ゲッティンゲンを出るときは時々雨模様の曇り空だったが、エアフルトでは晴天で、36℃くらいの猛烈な暑さだ。それでも風があれば涼しくは感じる。ベンチで、僕の背中あわせに初老の小母さんが来て座る。蜂がやたらにパンの周りを飛び交うが、お構いなしに全部食べつくす。こぼれたパン屑は、スズメが来て整理していく。
背中あわせに座っていた小母さんが立ち去る時、小さな声で「tschüs」(チュース、さよなら)といった。
そこからすぐ近くの「lange Brücke」という通りにある「カフェ・ラント」という毎年決まって来ているコーヒー店に入る。客はもう一人いるだけ。コーヒーを頼む。ここのコーヒーは本格的だ。いつもはエスプレッソのダブルを頼んでいたのだが、今回は普通のコーヒーを注文した。それでもかなり濃くて薫り高いのである。大きなカップに並々のコーヒー、水と小さなチョコがついてくる。ゆっくり時間をかけて飲む。
去年と同じ小母さんが一人で切りまわしている。「僕らを覚えています?」と聞いたら、「もちろんよ。いつもコーヒーを飲んでるからまだ呆けていないわ」という返事。嬉しくなる。コーヒー一杯1.9ユーロ(日本では立ち飲み?)。
帰るときにはなんだか客がかなり増えていたが、「また来年の夏きます」と挨拶して出た。
例年は、ここからすぐの教会のドーム(エアフルトの象徴でもある)に行ってから町を散歩する習わしだったが、今年はすべて省略して、近くの小川に掛る橋を渡り、裏通りを歩いて再びAngerに出て、駅へと向かった。軍服姿のビスマルクの像がビルの2階の軒先に立っている。
エアフルト:ビスマルクの像の近くの噴水(女神は右手に薔薇の一輪を持っていた)
駅でイエナ行の電車の時刻表をコピーして、しばらく日陰で待機。指定されたプラットホームに行く。ところが、またまた予定変更の表示、何が何だか分からないまま、一旦プラットホームを離れて、通路の方に降りる。どうも別のプラットホームに移ったらしい。時間がない。焦って怪我をするのが一番ばかばかしいので、速足で、しかも慎重に行く。幸い電車はまだ止まっていた。早速乗り込みやっと一安心。イエナ(Jene West駅)には4時頃ついた。早速、いつも泊まっているすぐ近くのホテルへ行く。ところがなんと、このホテルはRezeptionが6時まで閉まっていて幾らベルを鳴らしても応答なし。仕方なしに旧市街地まで行き、Ratskellerで紅茶を飲んで時間をつぶすことにした。
そしてふと思い浮かんだのが、確かこの近くに一軒宿があったはずだということだった。どんな宿かは分からないが、狭い横町にあるはずだ。またJena West駅まで引返すよりもこの後の予定から考えても便利ではないか、と考えた次第。そしてともかくもあたってみることにした。Hotel「Zur Noll」という名前だった。すぐ近くに「ヘーゲルハウス」や「ロマンチカーハウス」がある。ともかくも受け付けにあたってみた。
完全予約制だったみたいだが、幸い屋根裏部屋の様な部屋が空いていた。風の通りが悪い感じだったが、仕方がないのでここに決めた。料金は安い。74ユーロ(朝食・風呂付き)。
大きな扇風機を天井に向けて回りっぱなしにしていたが、それでも暑かった。
シャワー(Dusche)で汗を流してから早速行きつけの「赤鹿亭Roter Hirsch」へ出かける。この店は創業が1509年(seit 1509)の老舗の居酒屋兼旅籠で、ビールも旨いが食事も相変わらず安くて美味しい。しかもいつ行ってもそれほど混んでもいない。室内の大きな梁に刻印されたドイツ語などを眺めながら(何が書いていたかはよく覚えていないが)ゆっくりと数時間過ごす。
「赤鹿亭」の正面。交渉すれば3階に泊めてくれる(昔の旅籠)。但し、相部屋で、トイレ、シャワーも共用
2.2日目(イエナ、アイゼナッハ)-8月9日
翌朝はホテル「Zur Noll」で朝食。これが以外に素晴らしいご馳走だった。暑くてよく眠れなかった代償にはなった。朝、チェックアウトをした後で初めて知ったのだが、このホテルもかなり由緒あるホテルらしく、母屋は1500年代に作られ、最初は民家(農家)として使われていて、1880年ころから建て増ししてホテルになったとのこと。表玄関の上にこういう表示が掲げられていた。道理で、食堂の梁に太くて立派な木が使われていたわけだ。しかも、ヘーゲルが住んでいたアパートからわずか10数メートルの距離でしかない。当然彼は毎日この辺を歩いていたのであろう。偶然とはいえ、良いところに泊まったものだと改めて思った。
10時くらいにJena Westからアイゼナッハに向けて出発。ゴータを過ぎたころ、一人の少女がわれわれの席にやってきて、連れ合いの持っている「電子辞書」を盛んにのぞき込んでいる。どこから来たのか聞いてみた。イランだという。年は10歳だそうだが、小柄だ。目の大きなかわいい子で、われわれの周辺で無邪気にはしゃいでいた。イスラム圏からの移民はこの辺でよく見かける。ドイツ語と英語が喋れると言うが、ドイツ語は僕よりも下手だ。どんな生活をしているのか少し気になる。彼女もアイゼナッハで下車。母親らしい人と一緒だった。
旧東ドイツのアイゼナッハも以前は薄暗く汚れた田舎町という感じだったが、ここ数年で見違えるほどきれいに洗練されてきたようだ。駅からZentrumの方へ歩く。途中の小さな公園にマルチン・ルターの大きな像が立つ。この町の小高い丘の上に立つ古城ヴァルトブルク(Waltburg)は、世界遺産にもなっている素晴らしい城塞だが、かつてルターはここの一室に幽閉され、「聖書」のドイツ語訳を作ったといわれる。
ルターは体格もそうだが、顔つきも厳つくて、どう見ても聖職者というよりは政治家風にしか見えない。16世紀のドイツの農民革命への対応をめぐる、ルターとトマス・ミュンツァ-の確執は、エンゲルスの『ドイツ農民戦争』に詳しい。
この日も大変暑い日だったため、ここに止まってビールを飲んでからゆっくり帰ろうか、それとも一気にゲッティンゲンまで戻ってからビールを飲もうか、マルクト・プラッツの片隅の日陰のベンチでしばらく休憩しながら考えた。
連れ合いの意見では、帰ってからゆっくりの方が落ちつけて良いということだったので、そうすることにした。
ここでまた、DB(ドイツ鉄道)問題が起きた。乗り継ぎが大層複雑だったので、DBインフォで聞いたところ、一旦ゴータへ戻って、そこから電車でBad Langensalzaに行き、今度はそこからバスでMühlhausenまで行き、再び電車に乗ってEichenbergへ、そこで再度乗り換えてゲッティンゲンまで行くようにという。やはり大変複雑だ。しかし特急を使わない限りそれ以外の方法は無い。仕方なくそれに従う。
しかし、不運は重なる。ゴータへ戻る電車が途中20分程度遅れて到着したため、乗り換えの電車は既に出発した後だった。途方にくれたが、「まあ何とかなるさ」と思い直して次の乗り継ぎを待つ。小一時間してやっと、同じコース行きの電車が来た。後は教えられた通りに進む。5時頃やっとゲッティンゲンへたどり着く。
途中駅のMühlhausenについては数年前に書いたことがあるが、ここMühlhausenは先ほど触れたルターの宿敵だったトマス・ミュンツァ―が、農民軍を率いて最後の闘いを試みた場所だった。今回は残念ながら彼の名前を冠する通りをバスで通過しただけだ。
ゲッティンゲンのイタリアレストランでほっと一息、ビール2リットルと大きなピザを食べて帰宅。色々あってさすがに疲れたが、結果からみれば面白い体験をした。
教訓:「災い転じて福となす」
2015.8.11記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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