小説 「明日の朝」 (その5)
- 2015年 10月 2日
- カルチャー
- 小説川元祥一
5
朝とも黄昏とも見分けのつかない光と影が行き交う駅の階段を平崎は一人下りた。彼が乗ってきた総武線の電車と、隣の山手線の緑色の電車が出入りするプラットホームはラッシュアワーの名残をもって混雑しているというのに、一つ離れたプラットホームは忘れられたように静かだった。
虚しいようなプラットホームを歩いて行くと中程のベンチでポニーテールの女が立ち上がり手を振る。聖子だった。胸に白い蝶のようなリボンを結び、ピンク色の薄いカーデガンを羽織った聖子は、まるでハイキングでも出掛ける女学生のようだった。
「ごめんなさい。急に電話したりして」
「しょうがないじゃない。お嬢さんが里帰りするんだからさ。お見送りくらいしなきゃ」
聖子が座っていたベンチには、はちきれそうな赤いボストンバックがあった。その赤い大きなカバンが高校を卒業してすぐ東京に出てきたという靖子の、希望や夢を象徴しているかのように見えた。
「会社は盆休みや正月休みないでしょ。だから久しぶりなの、田舎に帰るの。それでお土産がたくさんになっちゃって…」
ボストンバックを見ている平埼に気づいて聖子が言訳をする。
二人は並んでベンチに座った。
「列車は九時三十分?」
「うん」
「だいぶ時間があるねえ」
「喫茶店に入る時間あるかしら?」
「今頃開いてる店も少ないと思うからね。捜してるうちに時間きちゃうかも…」
「そうね…」
聖子が所在なげに自分の腕時計を見た。
「ここに座って待ってもいいじゃない」
平埼はタバコを取出して火を付けた。
「昨夜さあ、といっても今朝だけど、丸さん酔っぱらって戻ってきてさぁ。俺ほとんど眠れなかった」
「あら、どうしたの?」
茶目っけのある瞳に聖子が興味を光らせる。
「酔っぱらって戻るのはいつもの事だけど、飲み屋でチンピラと喧嘩したらしくて、張り倒したんだって。そしたらそのチンピラが仲間と一緒に後をつけたらしくて、窓ガラス三枚も割られちゃった。石ぶつけて」
「やだー。平崎さん怪我しなかった?」
「俺はしないさ。あんな大きな建物の中で窓の二三枚割られたってなんともないけどさ。その後が大変よ。マージャンやってた連中が飛び出してきてチンピラ追っかけるの。放っといたらこの後毎晩やられるって」
「捕まえたの?」
「捕まらないんだけどさ。だけど丸さんその事まったく覚えてないの。チンピラを張り倒したまでは知ってるんだけど、その後の事覚えてなくてさ、宿直室で朝まで大いびきなの」
聖子が面白そうに笑った。
「大変ですねえ、夜警の仕事も」
「そうだよ。こっちは鼾がうるさくて眠れやしない」
「ごめんなさいね。そんな時来てもらって」
「君が謝る必要はないけどさ」
その時プラットホームの左奥に重い機関車が現れゆっくりと滑り込んで来る。
「発車まで俺も一緒に乗っていようか」
彼が言うと聖子がうれしそうに微笑んだ。赤い大きなカバンを平崎が持って二人で列車に乗り込んだ。果物がすえたような甘酸っぱい香りが車内にあった。聖子の故郷の香りなのかも知れないと思った。乗り込む人の姿もまばらだった。
座席の中程でボストンバックを棚にあげ、彼女と向かいあった。
「このまま一緒に行けたらいいわねえ」
健康そうな艶のある顔をふくらますように聖子が言う。
「そうだねえ、俺まだ長野県に行ったことないんだよ」
「このまま行けば…」
「そうもいかないよ」
窓から見えるプラットホームの時計が九時十五分を差していた。
「早いのよね。こんな時って」
時計を見ている平埼に気づいて聖子が言う。
「いつ戻って来る?」
「日曜日。出来るだけ早く帰って来ようと思ってるの。お父さんの様子にもよるけど、命に別状あるわけじゃないし」
聖子が彼の顔を凝視しながら言った。その目線が言葉と違うことを考えているように見えた。
「平埼さん今度の日曜日何かある?信州のおみやげ買って来てあげる」
「それはうれしいけど、こんどの日曜日は用事があるんだ」
伯母さんの所に行くとかなんとか、言訳しようかと思ったが、彼は言葉を呑んだ。
「そう…」
会社の用事で出張するといった感じの背広姿の男が二人、彼らの横に座りかけて、一人の方が後ろの座席を指差した。あらためて見回してみると、いつの間にか座席がうまっているようすだった。
「私ね…」
二人の男が行った後聖子が言った。
「今度平埼さんのことお父さんに話してみる…」
彼女は肩をすくめるような恰好だった。しかも、その言葉は硬いひびきをもっていた。
「何を…?」
平崎が問い返した。聖子が堅苦しい顔を伏せた。<何んなんだ>という思いが走った。しかし聖子は肩に力をいれて視線を膝に落とした。
彼の脳裏でなおも〈何を…〉という疑問がつづいていた。だが、彼女の硬い言葉と表情から、それにふさわしいというべきかも知れない事柄が遠くの幻想のように浮かぶ。<まさか>と彼は思う。<こんな幻想が勝手に浮かぶのはむしろおかしいのではないか>と彼は思う。が、なぜなのかそのような幻想が続くのだった。
思わず堅苦しい時間だった。彼はタバコを取り出して火をつけた。その間脳裏でいくつもの言葉が現れては消えるのだったが、彼は黙ってタバコを吸いつづけた。彼女の言葉を軽い耶愈の中にまぎらわすことが出来ないわけではないだろう。しかし彼女が何を意味したかわからないのに自分が先走るのはやはりおかしい。それに、型ぐるしい時間の後では遅すぎる気がした。
ベルが鳴った。彼はその音を救いのように聞いた。
「じゃあ気を付けてね」
彼は言って座席を立った。なぜなのか、その時自分がいかにも不器用な立ち振る舞いをしている感じがした。しかしその理由もはっきりしなかった。
列車の外に出て窓辺に行くと聖子が窓を開けて顔を出していた。明るい表情だった。
「わざわざすみませんでした」
聖子が軽く頭を下げた。
「元気でね」
彼は窓辺で手を上げて応えた。
列車が動き聖子が窓から手を振った。その手に必要以上の力が入っているように思えた。そしてそれは、先程の堅苦しげな言葉の、彼女が意味したかも知れないことと連続している感じがする。
列車が遠ざかるのを見ながら、平埼は一人プラットホームに残った。別れの虚しさが胸をとらえると共に、何かチグハグな気持ちが体の中に止まっていた。〈つきあう男が出来た。そんなことを父親に知らせようと言うのだろうか。まあ、そんなこともあるかも知れなかった。しかしそれにしては彼女の言葉も表情も堅すぎるのではないか…>聖子はいったい何を父親に話そうというのだろうか。彼女の堅苦しい表情を見て、まさかと思う遠い幻想が浮かんたとはいえ、もしそれが真相なら、なぜ彼女はそれを父親に話そうとするのだろうかー。
体の中にギスギスした軋みが生れ始めた。それはあたかも、前進する自動車の車輪にブレーキを掛けるようなものだと彼は最近考えるのだったが、それは彼が、今心に浮かんだイメージを前にした時、いつも感じるものだった。しかもそのイメージを前にすると、聖子の言葉が二重写しになってくる。
階段を上がると右側に六番線のプラットホームの表示が見えた。彼はいつも十番線のプラットホームに入る総武線でこの駅に着き、六番線の中央線の電車で吉祥寺のアパートに帰った。しかし今日彼は左側の、広い改札口に向かった。自分の体内でギスギスした軋みが生まれているとはいえ、昨夜から計画していることが優先だった。そしてそこに向かいながら彼は、聖子と付き合いはじめて半年くらい経った頃、彼女に話したことを思い浮かべていた。
あれは去年の夏のことだった。神田川の黒い水面が窓の下に見える小さな喫茶店に聖子と二人座っていた。神田川の樹葉の向こうに二人が働く後成園スタジアムの建物が見え、そのはるか西方、抽象的な模型に見える数々のビルの向うに夕陽が沈むところだった。二人がそこでどんな話しをしていたかほとんど覚えていなかったが、しかしある一つのシーンだけは今でもはっきり覚えている。
聖子が自分の故郷の話しをしていたのだ。しかも彼女の家のすぐ裏を流れているという川の話だった。平埼はそのとき、夕陽を浴びて黄金色に輝く川面を頭に思い描いていた。
「私ね中学生になってからも男の子たちと一緒にそこで泳いでいたのよ」
聖子は甘ったるい感情を舌にのせていた。
「男の子にからかわれなかった?」
「そんなに悪い人もいなかったの。だからいつまでも男の子と一緒に泳いでいたのかなぁ。でも私が女の子みたいじゃなかったのかも知れない」
「俺のところも近くに川があってよく泳ぎに行ったけど、毎日喧嘩ばかりしてたから女の子は来なかったな」
「どうして喧嘩するの?」
健康そうな肌の、形のいい唇をふくらますように聖子が聞いた。
「どうしてかよくわからないんだけど、俺のところの川には周りの村や町の者が大勢来てたんだよね。だから喧嘩になったんじゃないかなぁ」
「そうなの?。私のところはよその村の人来なかったわ、ずっと離れてたから」
「俺のところは賀屋川という大きい川でね。その中に流れがゆるいところがあって、隣の村の者も来たし、川の向うの町の者もそこに来るの。そのためかどうか知らないけれど、何かあるとすぐ喧嘩になったな。両岸から石を投げあったり、どつきあったり。俺も石をぶつけられて大怪我したことあるんだよ、ここに」
平埼はワイシャツの袖をまくり上げ、左腕の肘を聖子に見せた。そこには今も皮膚が盛り上がり白っぽい固りになった傷の跡があった。
「体中傷だらけみたい。頭にも怪我されたんでしょう」
「そうなんだよね」
彼は笑った。だがその笑いの奥から、ある塊りになったイージが浮いてくるのを感じた。まるで水の中から引き揚げた藻のようにー。
たしかによく喧嘩をした。平崎は幼い時期だったので、喧嘩に積極的に参加することはなかったし、その理由も多くの場合わからなかったのであるが、それでも青年たちに混じって石を投げることも度々だった。何かあると両岸に別れて石を投げあった。彼の村の青年が、相手の村や町の者を岸にひきずりあげてどつき合うシーンもあった。
そんなある日のことだった、河原の水辺で遊んでいた平崎の目の前で突然傷害事件が起きた。彼の村の武三という男が太い棒切れを持って一人の男を追ってきて、彼の目の前で殴り倒した。男は水辺に倒れて動かなくなり、武三はそれを見て川を渡って行った。平埼は呆然として見ていたが、武三が向こう岸に渡ったのを見て、自分も同じように川を渡った。河原は町の側にあり、村に帰るには川を渡らなくてはならなかった。倒れた男の頭から血が流れ水を赤く染めていた。そんな町の側の河原にいるのが不安だった。ずっと後になって彼はこの時の自分の気持ちを不思議な心理として思い出す。他人が起こした事件なのに、その人が同じ村だからなぜ自分も逃げたのだろうー、と。しかしその時はそれがあたりまえのように思った。
自分の村の側の岸に上がって振り返ると、倒れた男は二、三人の仲間にささえられ向こう岸の土手を上るところだった。その日の夕方になると武三が倒した男の傷は病院で手当てをするくらいで、警察が動いている、という噂が村に伝わった。しかしそれを知ってかどうか、そのころ武三は村にいなかった。事件の直後村に戻り、その足で姫路の飯場に行ったという話だった。警察の手から逃れるためだろうか。しかもさらに後になると、その日彼の目の前で起こった傷害事件が、それより数日前、町で起こったある事件の復襲戦だったのを知ることになる。
数日前町で起こった事件はこうだった。武三は津沢の町の南の端にある古町という屠畜場で仕事をする邦男と一緒に映画を見て帰るところだった。住んでいるところは互いに離れていたが、二人は従兄弟同志で、よく一緒に遊んだ。その帰り道、二人は町中のお好み焼屋に入ったのだったが、そこにいた客と口論となり、傷害事件に発展したのだった。お好み焼屋で二人が酒を飲んでいると、後ろの席で古町の話しをする者がいた。「古町の肉屋は死んだ牛の肉を精肉に入れて売るらしいで」と。邦夫はその肉を作っている者で、その話が事実とかけ離れたものなのを当然知っていた。だからそれを聞いた邦男が「何ゅぬかすか。わしの前でもう一回言うてみい」と噛みついた。邦男の父親は古町から出て、町の中で肉屋をやっている。邦男自身も自分で牛を買ってきて古町の屠場で屠り、親父の店に出している。
つかみかかろうとする邦夫を武三が抑えて、 その場は一応収まったという。しかし町はずれで二人が別れた後、邦男は再びお好み焼屋に戻り、根拠のない悪口を言う先の男を呼び出し、叩きのめした。そしてそこまではよかったのだったが、引き返そうとする邦夫の後ろから、一緒に店にいた男が遅れてでてきて、邦夫の後ろから頭にビール瓶を叩き付けた。倒れた邦夫の横腹にもう一発蹴りが入って、邦夫は気を失って側溝に転がっていたという。武三が賀屋川の水辺で倒した男がこの時のビール瓶の男なのだ。しかもこの二つの傷害事件の背後には、日本人の多くが長い間囚われつづける古い制度による一つの観念がある。それはこの国が建て前上千年にわたって動物の屠畜を禁止、肉食と皮革生産を禁じてきた歴史に直接関連していた。禁止しながらも皮革は武器や防寒に必要とされ、国家も税として賦課していた。肉食は健康によいのを誰もが知っており、隠れて喰ったり、薬として食ったりしたのである。したがってそれらの生産行為をつづける者が、社会のぬぐい難い矛盾の中で「必要なのにその存在が否定される」専業者として固定的にされたのだ。しかもそのうえ、その歴史を反省もせずに欧米の肉食文化を取り入れた近代日本が、誰もその歴史を究明しようとせずに、固定観念ばかりが続いている。
やがて平崎は自分が子供の頃、夏になると毎年のように繰り返された川を挟んだ喧嘩が、実は日本人の多くが囚われているこの長い歴史の中にある矛盾した観念に関係あるだろうと思い始めた。もちろん全ての喧嘩がそうだと言えないものの、何かあるとすぐ村ぐるみの喧嘩になってしまうのは、長い歴史の後ろ向きな関係に個人個人が引きずられている証拠だとしか考えられないのだった。
抽象的な造形物に見える東京の街並を黄金色に染める夕陽を見ながら平崎はこの日本人の矛盾した後ろ向きな観念を頭に思い描いていた。そしてそれを聖子に話したらどうなるだろうかと思った。
その観念をーそしてそのためにつくられてしまった人間の矛盾した関係をー聖子に話してみようと思ったのはそれが始めてではなかった。もちろん、どうしてもそれを言わなくてはならないとは思わなかった。いかに長い歴史があろうと人は歴史に囚われてばかりではいられないし、囚われてはならないだろう。しかし、たとえそれが遠いい過去のものであったとしても、脳裏に浮かび上がったものを言葉に出来ないというのもおかしなことだろう。しかも多くの日本人が今もそれを気にしているというのにー。
聖子が長野県出身だというのは早くから知っていた。彼女とつき合い初めてまもなく、何かの拍子に、彼女が育った長野県と、同県出身の島崎藤村の『破戒』という小説が頭の中でダブルイメージになったことがあった。大学のキャンパスで話している時だったと思う。彼女の生家は『破戒』の舞台からだいぶ離れた北よりだったが、島崎藤村を知らないわけはないだろうし、小説『破戒』の名を言えば、二人の間に共通の話題が生まれるのではないかと思った。しかし彼は『破戒』を手懸かりにしてその話をしたくなかった。<俺はあんな人間ではない。俺は隠さずに生きようとしている。出身を言うにしても告白するのではない>と思っている。告白する必要はまったくない。隠したければ隠してもいい。人の実存は歴史にあるのではない。ただ、自分の故郷を、愛する故郷を、誰もがそうしているように自然な形で話したい。そこにどんな歴史があろうとなかろうと、その歴史は俺自身の存在の一部でもあるだろう。そんな故郷が話せないということがあってはならないだろう。そう思っているのだった。しかもその上『破戒』の主人公の人物像があまりにもくだらなくて現実離れしているようで、自分の人生をそこに繋ぎたくない気持ちが強かった。平崎が知っている“部落民”と呼ばれる人の中に、小説の主人公・丑松のような人物は一人もいなかった。出自を隠すと言えば伯母の広中紀子が際立っているだろうが、彼女は胸を張って隠し、生きている。歴史的な固定観念にとらわれている者こそ愚か者と思っているに違いない。そのことを思うと、島崎藤村こそ、日本人の多くが今も克服できない後ろ向きな矛盾した観念に囚われ、その観念によって『破戒』を書いた、と言って間違いないだろう。そしてそうした意味で『破戒』は今も、日本人の多くの者が囚われる後ろ向きで矛盾した観念を増幅しているだろう。
「頭の傷は自分で突っ込んで行ってそうなったんだけどね。子どものころの傷はね、なぜそうなったのかよくわからないんだよね。でもそれがね、最近少しわかったような気がしてるんだけどね」
平崎は言った。<こうした流れの中で、すべてが滑らかに語られていけばよいだろう>そして平崎は続けた。
「川を挟んだ喧嘩の原因はね、部落問題と言われてる事だったと思うんだよね。俺の村が“部落”と呼ばれるところだった。だからといって喧嘩になる理由はわからないけれどね、その表面にあるのはくだらない風習とか習慣のようなものだったと思うんだよね」
そんな事を言いながらも彼の脳裡に浮かぶものがあった。<あのくだらない観念は、彼らが勝手にこだわっているだけで、俺がいちいち言い分けする必要はないのだ。だが、そのように思いながらも、彼は思わず言ったのだった。
「藤村の『破戒』に書かれたのと同じなんだよね」
言ってしまって一瞬彼はやはり余計なことだ、と思った。しかしそれを口走る自分の心理に、聞いている聖子にダメ押ししようとする気持ちがあったのを知っている。その気持ちが自尊心を支えていた。せっかく良い流れが出来て話した。しかしそれを聖子がどのように聞いたか、しっかりしたことがわからなかった。“部落”というのは小さな集落にも使われる。だからおれが言うこの村にかぎって、多くの日本人は共通する言葉を持っていない。だから聖子が何か他のものと勘違いしたら困るのだ。元も子もないといったところだ。だから誤解されないよう念を押した。
聖子は固い表情で聴いていた。勘違いはないように思えた。しかしそう思うと同時に<あの主人公と同じに思われたくはない。俺はあんな奴とは違う…>という言葉が脳裏を走る。が、彼はそれ以上言葉を続けなかった。言訳すればするほど自分が惨めになりそうだった。
麻のラッシュアワーがやっと落ち着いた感じの新宿駅南口改札を平崎は一人抜けた。前の明治通りを歩き、新宿二丁目の信号を渡る。その頃になめと、脳裡の聖子のイメージは遠くなっていた。ひとりで考えても仕方ない事だろう。それはそれで、今は昨日事務所で借りた三千円が意識に登っていた。ズボンの後ポケットあった。それを手で確かめながら彼は角のデパートに入る。
開店間際の虚脱感が漂うデパートだった。ドアを入って右側の通路を行くとポスターやチラシがひと際目立つプレイガイドがあった。近付くと、一昨日渋谷のプレイガイドで見たロシア人のモノクロ写真がすぐ目についた。一昨日はこの写真がやたら縁遠い存在だった。それが今日はぜんぜん違った。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0163:1501002〕
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