小説 「明日の朝」 (その6)
- 2015年 10月 6日
- カルチャー
- 小説川元祥一
6
「音楽会なんかよく行くんですか?」
白いコーヒーカップに手をのばしながら平埼は千津子に聞いた。
「ええ、時々お友達と。この間中村紘子のリサイタル聞きに行きました。でも今日はとっても素敵でした」
農紺のワンピースの胸に真珠のネックレスをつけた岡谷千津子が頚を傾げながら笑顔を浮かべる。ピアノリサイタルのためにお洒落をして来たのだろうが、その笑顔には彼女の家の近くで見るような素朴さがあって彼の心を満たした。
「岡谷さんは自分でもピアノを弾くんでしょう?時々家の方から聞こえてきますよ」
「弾くと言ってもお習い程度でだめなんです。特にお勤めが始まったらピアノの前に座る時間がなくて」
「そうでしょうねえ、勤めがあったらねえ。僕はどういうわけか小さい時から音楽に縁がないんです」
平埼が言うと千津子がけげんな顔で彼を見た。こうしてピアノリサイタルに来ていながらどうして?と問いたげだった。
薄暗い店の中で聞覚えのある交響曲が流れていた。「まるでリサイタル会場の続きみたい」と千津子が言ったばかりだった。目の前の舞台にあるグランドピアノから弾き出される生の音とは較べようもなかったが、店の雰囲気はリサイタル会場のムードを作ろうとしているのだろう。新宿の厚生年金会館で行なわれたピアノリサイタルの後、歌舞伎町まで戻って平埼が誘った店だった。古めかしくて落ち着いた雰囲気を待つ店を千津子も気に入ったらしく「こんなお店があるなんて知らなかった」と言いながら二階の窓辺のソファーに座った。
「僕が育ったところは田舎だから音楽のリサイタルなんて考えられなかったですよ。それにね、田舎の家に古いプレーヤーがあったんですけどね。それはプレーヤーと言うより畜音器そのものなんです。でも一応それらしいものがあったんですね。ところがねえ、家にあるレコードはみんな浪曲ばかりなんです。だから僕はだいぶ大きくなるまでね、レコードは浪曲しかないのかって思ってたんですよ」
千津子が愉快そうに笑うのを見て彼は少しオーバーな言い方をした。
「君のところなんかクラッシックのレコードありました?クラッシックじゃなくてもタンゴのレコードとか」
「少しありました。タンゴじゃなかったかも知れませんけど、クラッシックが少し。でもそう云えばやはり少なかったですね。私の父は歌謡曲が好きなんです。中でも三橋美智也が。だから歌謡曲のレコードがたくさんあったんですけど、あとは確か浪曲のレコードもありましたよ。クラッシックは二枚か三枚かしら」
千津子が楽しそうに話した。
「僕の家にあるのはねえ、こんな箱の形でね、横にハンドルが着いててそれをぐるぐる回しながらレコードを回すんです。レコードを回すというかプレーヤーのゼンマイ巻くんだけど途中でゼンマイがゆるくなるわけ。そうしたらあわてて、こうしてね、ハンドル回すんですよ。そうしたらレコードが早くなって、ワーン、ワーン、ワーンと調子が戻るわけ」
「そうそう。私の家では最近までそれ使ってましたよ。こんな大きなラッパが着いててね。弟がね、生意気になってステレオほしいって買うまで私もそれよく聞きました」
「そうですか、なつかしいな。僕の家のは僕が子供のころ壊しちゃってね、中がどうなってるか見たくてバラバラにしちゃったんです。今度伯父さんのところに行ったら君のところに寄らせてもらってその蓄音器でショパンか何か聞きたいなぁ」
「いいですねえ。来て下さい。父に言って出してもらいますから。私のところのはまだ使えると思いますよ。納戸の方に入ってますけど」
「どこに入っててもいいですよ。お父さんがいいって言ったら僕が自分で捜して、ほこりも自分で払って使いますから」
千津子が胸を押さえて笑った。
「そうしていただくと助かります」
「僕がレコード買って行きます。モーツアルトのピアノ曲捜して行きますよ」
リサイタル会場で千津子と話したことを思い出しながら彼は言った。会場のシートに座ったまま休憩時間を過ごしたのだったが、その時千津子が「私モーツアルトが大好き」と云った。その口振りに疑問をはさむ余地はなかったが、彼にはモーツアルトの良さが全くわからなかった。「僕はベートーベンのような情熱的なのか、ショパンのように物静かで透き徹ったものか、どっちかでないと好きとか嫌いとかわからないんですよね。ちょっと矛盾してる気がしますけど…」
そんなことを話しながら休憩時間を過ごしたのだった。
「あら、いいです。私買っておきます。プレーヤーの掃除までしていただいてレコード買っていただいたら失礼ですもの。それにね、私のお友達にショパンが好きな人がいて、ショパンのレコード全部集めてる人がいるんです。その人からレコード借りてもいいですよ」
「そうですか。それなら本当になんとかしなきゃあだめだな。僕の伯父さんも聞きに行きたいって言い出すかも知れないですよ。あなたの屋敷の中に住んでますからね」
平崎は軽口のつもりだったが、千津子はまともに受けた。
「いいですよ。どうぞ来て下さい」
しまったと思った。修平を二人の間に登場させたくなかった。が、案の定、千津子が修平を思い出していた。
「広中さんは何か書き物されてるんですか?」
「ええ」
彼は仕方なく答えた。<千津子は長い間このことを確かめたかったのかも知れない>千津子の問いかたに、そんな雰囲気があった。
「立派な方なんですねえ」
「そうでもないんですけど…」
やはり修平の話しをしたのが間違いだった。彼は悔やんだ。
千津子が修平を立派だと言ったのは社交辞令かも知れないが、素朴にそう思っている可能性もなきにしもあらずだろう。そして、平埼と修平がうまくいかなくなっているのを千津子は知らないだろうから、千津子の修平への好感は、平崎にとって不利なものではないはずだった。ところが平埼の内には、千津子が持っていそうな修平への好感に同意したくないものがあった。自分が修平と同じに見られるのも避けたかった。そうでないと、ろくでもないことになりそうだ。
「どんなものをお書きになっておられるんですか?」
「小説を書いているんです。以前はねえ、田舎にいたころですけど、短歌を書いたり詩を書いたりして同人誌に出してたんです。そのいくつかが東京の短歌の雑誌に紹介されたんですけど、最近は小説を書いてるみたいなんです」
「そうなんですか。よくお家におられるもんですから、何かそんなお仕事されてるのかなって思って」
「そうでしょうねえ。毎日ブラブラしてますからねえ」
「いえ。そんな意味ではないんですけど。そんなに大変なお仕事されてるとは知らなかったものですから」
「仕事と言ってもねえ、実際は何もしてないんです。昔のように、短歌をコツコツ書いてる方がよほどいいと思うんですけどね」
彼は思はず言った。だが、言ってしまってから、こんな言い方では、かえって自分の印象が悪くなると思った。事実、千津子の瞳が小さく固まったのが分かった。
「小説を書くのが悪いんじゃないですよ。小説を書くのは立派なことだと思いますよ。そんなことを言ってるんじゃないんですけどね」
そこまで言って彼は口を閉ざした。この千津子に、今の修平の状態をわからすにはどのように話せばいいだろうか。中途半端な話をするだけなら、誤解を重ねるだけではないか。
千津子がじっと彼の顔を見ていた。しかし彼は言葉を失ったままタバコに火をつけた。あの男はでたらめなんだ。言いたい放題、やりたい放題。身勝手に生きているだけで、その芯になるところは何もない。しかもその身勝手さは外に向かって放たれることがない。外に向かってエネルギーが発散されたり、所かまわずそうであるなら、それはそれなりに面白いかも知れない。しかし修平の場合、それはいつも内側に向かって、身内の者にばかり向けられる。皮肉なことではあるが、千津子が持つ修平の印象からもそのことが分かる。外に向う発想がない。外の者には物分かりのいい紳士面をする。ところがその同じ顔が身内に向うと、我儘で傲慢な男になる。しかしそれを千津子に理解させるには、とても長くて詳細なことを話さないといけない感じがする。
伯父の修平とは、ながい間一緒に生活して来た。岡山県の津沢市の農村部にある故郷にいた時期、同じ家で暮らしていたのだ。平埼の母、孝子の弟が修平だった。孝子は平崎伸男という男と結婚し、一度家を出た。しかし伸男が早世して章行とその弟を連れて実家に戻っていた。だから一つの家に二つの姓がある。章行が物心ついたころから修平は好き勝手なことをしていた。平埼はそのころ、そんな修平にある意味の自由な雰囲気を感じ取っていたのだった。しかしそれも身内を相手にしたときだけ生まれる自由だったにちがいない。広い世界から言うと、それは我がままと言うに等しいだろう。最近はそう思う。そして修平への幼い頃の幻想もだんだんと変質していく。
修平は四年くらい前、小説家になるといってわずかにあった実家の田んぼを売り、東京に来た。その金を元手に生活していたが、やがて東京で知り合った女、花枝と結婚し、花枝が働いて日頃の生活を維持している。それはそれでいいとしても、その後修平が小説家になるため努力しているようにはとても思えなかった。書きかけの原稿用紙を丸めて散らかしているのを時々見るくらいで、他の作家などの本を読んだ形跡がない。週刊誌がゴロゴロしているだけで、まともな本を見た事がない。勿論自分が書いた本などあろうはずもない。しかし、そんな事を第三者の千津子にどう話せばいいというのだろうか。
平崎が修平と袂を分かつのを決心したのは、今年の春だった。小説を書くのを批判はしない。しかし修平の怠惰と思い上がりは耐えられなかった。袂を分かつと修平が小説を発表し、作家として認められるようになった時、修平からきつい仕返しをされそうだった。修平独特の自己弁解の言い回しで、平崎が親戚中からのけ者にされる可能性すら考えられたが、それでも会いたくなかった。
今年の春さき、桜の花が咲き始めたころだった。修平の女房の花枝がアルバイト先に電話を掛けてきて「明日花見に行くから来ない?」と誘われた。修平からこんな誘いがたまにあった。風呂釜を新しくしたから来ないかとか、庭に花を植えるから手伝ってくれないかとか。平崎からすると何の意味もない遊びごとだった。しかしたまにはいいだろうと思って誘いに乗って行く。長く一緒に生活したこともあって、積極的に断わる理由もなかったのだ。伯母のところにもそうやって時々呼ばれるし、親戚というものはそんなものかも知れないと思っていた。
承知して、次ぎの朝バイト先からまっすぐ伯父夫婦が住む東京西部の田野に向かった。電車に乗ったとたん激しい虚脱感に襲われ、行く約束をするんじゃなかったと思ったが、もう取り返しは出来なかった。花見が悪いわけではないし、その日自分の予定があったわけでもなかった。それなのに修平のところに向かうこと自体、時間の無駄といった実感があった。そんな時はいつも、体の中で時間がグズグズと崩れ、筋肉の力さえ消えて行く感じに襲われるのだった。
修平の家に着いたのは昼前だった。花枝が捲寿司やお稲荷を作っており、修平は上機嫌だった。
「もう昨日から大変なの。修平さん昨日多摩川に散歩に行ったんだって。そしたらねえ、土手の桜がちょうど満開なんだって。それでね、今日はどうしてもあそこで花見がしたいって言うの。子供みたいなんだから。私だってたまの休みだからゆっくりしたいと思ってるのに」
花枝が不満気なことを言ったが、その顔はまんざらでもなさそうだ。だが、平埼の方はげんなりしていた。そんな楽しみは夫婦でやってくれというものだ。
「修平さん前から言ってたのよね、ほら章行さんも行ったことあるでしょう。多摩川の堤防を少し上に登って行くと竹薮があるところ。あそこの土手に小さな桜の木があるのよね。あの木がかわいいかわいいって、前から言ってたの。その木に花が咲いたみたいよ」
どうだっていいじゃないかと平埼は思った。しかし彼は顔で笑っていた。関心がある振りをしたのだ。修平と一緒にいるといつもこんな事になってしまう。どうしてこんな事になってしまうのか自分でもよく分からないところがあったが、一緒に暮らしてきた者の習性なのかも知れない。
うすら寒い花見だった。多摩川の長大な堤防に三メートルばかりの桜の若木が一本あって、それに花が咲いていた。たしかに小さい若木としてはめずらしく、枝いっぱいに花が咲いていた。それはそれなりに見事だったが、他に桜の木はないし、見て楽しむような草木もない。
「陽が暖かいうちにこの下で花見がしたかったの」
修平が言って土手の枯草に座った。
修平が一人ではしゃいでいるのだった。やがて川に向かって「荒城の月」を歌い始める。花枝がそれに同調するのだったが、しかし彼女は仕事疲れの青白い顔をしていて、決して心から楽しんでいるようには見えなかった。平埼は花枝のそんな疲れた顔を見るだけで心が痛んだ。
一時間ばかり土手にいただろうか。日当りは良かったが風が冷たくて、長くはいられなかった。ところが家に戻つてから、まだ真昼間なのに修平が酒を飲むと言いだした。のぼせているのがわかった。自分が言い出した花見が満足なものにならなかったのを何んとか繕い、心に潜むみじめさを隠そうとしている。そのように平崎は思った。
修平は彫りの深い端正な顔をしていて、好男子に見えるのだったが、近くで見るとのぼせてふやけた顔付きだった。その顔が酒を飲むと一層ふやけて形を失っていく。しかも酔いが進むにしたがって思い付くまま勝手なことをしゃべりまくる。
その日もそうだった。調子にのって修平の顔が崩れ、口角に泡がたまった頃、突然平崎に言いだした。
「お前のお母んはなぁ、津沢のあの家を自分の物にしょう思うて、庭に塀を造ったりしょんじゃ。塀を造るんならなあ、あがいなとこえ造っちゃあいけんのじゃ。造るんなら庭にある畑を全部囲む塀にせにゃあいけんのじゃ。わしゃあ前からそがい言うとんじゃ。それなのいなぁ、庭を半分割って塀を造っとんじゃ。畑まで囲んだら金がかかる言ようるけど、本当の気持ちはなあ、庭を半分にして、家を自分の物にしょう思よんじゃ。そうだろう。お前でも分かろう。塀を造るんなら畑も全部囲む方がええいうことが」
平埼は聞きながら胸がむかついた。津沢の家を支えているのは病院の炊事婦をして働く母なのだ。修平が働いているのを見たことがない。今は自分が住んでもいないし、維持も出来ない家をとやかく言う権利はこの男にないだろう。その上自分の相続分の田圃を全部売っているのだ。塀がどこに出来ようといいではないか。<くだらない奴。くだらない奴…>平埼は心で叫びつづけた。ところが彼はまたもや心とは反対に、同調をもとめる修平の言葉にうなずいていた。最後の修平の言葉が反対しにくい形になっていたせいでもあるが、こんな調子がずっとつづいていることは確かだった。<くだらない同調とあいまいな妥協。こんなことはもう終わりにしなくてはならない>
「伯父さんがそう思うんならそれはそれで仕方ないし、必要なら伯父さんが小説に書きゃあええ思うけど、とにかく伯父さんはちゃんと仕事をせにゃあいけん思う。大勢の者が見て分かるような、そがいな仕事をせにゃあいけん」
平埼はたまらず言った。そして長い間これが言いたかったのだと思った。だが同時に、こんなことを言ったからといって、自分の本当の気持ちが修平に伝わる気がしなかった。自分の気持が伝わるどころか反対に修平の我がままな怒りを受けることになるにちがいない。これまで、修平はこのような指摘を最も嫌がってきたのだ。
「何ゅう言よんなら。関係ないことじゃがな」
呆けたようなふやけ顔を向けて修平が平崎に言った。平崎が予想した通りだった。しかもその額には血が登っていた。
「関係ないことはない。仕事いうものを考えにゃあいけん。小説でも何んでも仕事の一つじゃ。遊びごとじゃあないんじゃ。そのことを考えてちゃんとやらにゃあいけん思う」
平崎は堰が切れたように言った。言いたいことは山程あった。しかも自分の言葉の間から多くのものがこぼれ落ちているのを感じていたが彼は<ちゃんと>という言葉に全てをかけた。
「偉そうな…。お前にそがいな事を言われる筋合いはない。わしがどがいしんどい思いをしょうるかお前らにゃ分からん。せっかくうまい物を食わしちゃろう思うて呼んじゃったのい、そがいな事を言うてもらわいでもええ」
「うまい物を食わしてもらわいでもええ。食わしちゃろう思うて呼んでもらわいでもええ。わしゃぁわしで生きていくんじゃけん」
「いつの間にそがい偉そうなことを言うようになったんなら。この間までは素直なええ子だったのい。のお…」
修平が花枝に同意を求めた。この時花枝が修平に何かの注意をしていたら、彼は立ちあがらなかったかも知れない。しかし花枝はヘラヘラと笑って修平の言葉に同調した。修平と一緒にいるとこんなあいまいな同調が習慣になることを平埼もよく分かっていたが、もはや自分のいる場はないと思った。そして座を立った。
「どこえ行くん?」
平埼が立ち上がると、修平が下から見上げた。
「今日はとにかく帰る」
「ありゃ、偉い大学生が。何ゅう考よんなら。ええがな泊まって行けえ」
これが修平のやり口なのだ。何も分ってはいないにちがいない。羞恥心すらない男だ。曖昧な同調と妥協ばかりで成り立っている生活。<それもこれでおさらばだ…>平埼は心でつぶやいて修平の家を出た。
「岡谷さんは大学の専攻は何だったんですか?」
平埼は話題を変えようとして聞いた。
「一応経済なんですけど、短大ですからあまり専門的なことはなくて」
「そうなんですか」
「平埼さんは?」
「僕は文学部なんです。日本文学」
「やはりお仕事もそちらの方に進まれるんですか?」
「そうですね、伯父さんみたいに小説書きたいと思いますけど、とりあえず小さな新聞社か出版社に入りたいですね」
彼は伯父の話を避けながら小さな希望を口にした。これまでこんな話しをしたことがあまりなかったような気がした。
「日日経済新聞みたいに大きなところには入れないかも知れないけど」
「そんなことないですよ。私なんかたまたま縁故で入れただけです」千津子が頬に手を置いて微笑んだ。
「入れないということもあるかも知れないけれど、本当言うと、あまり大きな会社や機関に入りたくない気がするんです。大きい方が安心かも知れないけれど、自分の力を試したり活かしたり出来ない気がするんです」
不思議な気持ちだったが、千津子には自分の本当の姿を見せておきたいと思った。
「素敵ですね。やはり男性っていいですね」
「そう思います?」
「私の会社でもそんな人多いでよ。決まったことしかしない人とか、上の人の命令がないと何も出来ない人とかー」
<おとなしげな顔をしているわりにははっきり物を言う>彼は思った。しかし彼は満足していた。
「僕の友達もねえ、大企業めざして行った人いるんですよ。三井グループとか住友グループがいいとか言ってね。しかも反体制の学生運動しながらそんなところ目指すんですよね。僕はそれはおかしんじゃないかと思うんですよ。大企業大企業って言って、大きな傘の下にいれば安心といったような考えがね。むしろ不安定なものを安定させる方がよほど充実感があるし、人生というのは、そうした充実感が最も大切なんじゃないかと思うんです」
青山学園の短大に行って、親戚か友人の縁故で日日経済新聞に入ったと言う千津子なのだ。そのことを考えると彼女の回りに大企業を目指したり、そこで働く者がいる可能性はあった。そして、もしそうなら、大企業に行った友人をあまり悪く言わない方がいいと考えたが、彼はやはり自分を率直に見せようとした。
千津子はコーヒーカツプを傾け、そして聞き入るような顔で彼を見た。
「ストランセスキーのピアノ聞いた後こんな生々しい話しするのおかしいかな」
彼は何かを言いつくした気持ちになっていた。
「いいえそんなことありませんわ。いいお話しだと思います。私なんかちょっとぼんやりしてるものですから、真面目な方のお話し聞くとハッとします」
千津子が目元を紅潮させていた。
「こんな話するの久し振りなんですよ。以前こんな話しをよくした友人が皆んな先に学校を卒業しちゃって、留学した僕が一人取り残された感じなものですから」
千津子が微笑んだ。
その時、学生風の男が四、五人店に入って来て二人の横を通った。そしてそんな男たちが運んできた外気で我に返ったといった感じで千津子が腕時計を見た。
「あら、もうこんな時間?」
平埼も時間を忘れていたが、リサイタルは九時に終わったのだ。それから考えても十時はとっくに過ぎているだろう。しかも新宿から千津子の家まで一時間はかかりそうだ。
「僕もうっかりしてたな。行きましょうか」
「ええ」
二人は席を立った。千津子が時間を忘れていたのを彼はくすぐったく感じた。
「私出します」
平埼がレジに立つと千津子が横に来てハンドバックを開けようとした。
「いんですよ」
「でも、私お給料いただいているんです」
「僕も働いてるんですよ」
平埼は強がりを言ったが、千津子はそれで納得したようだった。彼はジャケットの内ポケットから裸の札を出してレジに置いた。
彼が着ているジャケットは、大学入学当時伯母の広中紀子がプレゼントしてくれた、フランス製の洒落た初夏用のものだった。伯母はそのころいろいろなものをプレゼントしてくれた。まさか二人が懐を分かつことになると思っていなかったのかも知れない。その後平崎が新聞配達などしてきたのでジャケットは無用の長物のように扱っていたのだったが、思わぬところで役に立っており、秘かに伯母に感謝するのだった。
二人は新宿駅からしばらく同じ電車だった。どっちみち満員電車であり、二人が体をくっつけるように立つことになるだろう。それを思うと照れくさくもあり、嬉しくもあった。
「田野まで送って行きますよ」
「いんです。私大丈夫ですよ」
「田野駅まで一緒に行って、僕は折り返し帰ります。田野駅からは大丈夫でしょう。昔からの自分の町でしようから」
「そうですか…」
千津子が照れながら答えた。
「実は、次の日曜日に、八重洲にあるブリジストン美術館に行きたいと思っているんですけど、あなたどうですか?日日経済は大手町ですから、反対側の八重洲の方にはよく行くかも知れませんが」
「いいえ。八重洲の方はあまり行かないんです。もう社と家を往復するだけなんです。他に余裕がないもんですから」
「そうですか。一昨日大学の生協に寄ったらめずらしくそこで働く先輩に出会って、ブリジストン美術館の優待券貰ったんです。大学生協にいるとそんな割引券や招待券がよく回ってくるんだそうですよ」
平崎は思わず言葉に脚色をつけた。そこに先輩がいるにはいるが、貰ったのではない。そこに行けばいつもその優待券があるのを知っているだけだ。無料でもない。
「お邪魔じゃないんですか?」
「そんな事ないですよ。僕は以前一度入ったことあるんですけど。別世界のようなところなんですよ。気分転換だけでも価値があると思うんです。せっかく優待券二枚あるし、あなたと一緒に行けたらうれしいと思って」
「ブリジストン美術館の名まえは聞いてましたけど、どんなところかも知らなくて」
「そうですか。よかったら次ぎの日曜日はどうですか?銀座でコーヒー飲んで、ブラブラ歩いても行けますよ」
「そうですか。じゃ、ご一緒しようかしら」
「よかった。じゃあ今日と同じ時間に同じところで…」
あれこれ考えるのがいとわしくて彼は言った。そして言い加えた。
「だんだんと二人だけが知っている喫茶店を決めたいと思いますけど…」
千津子が頬笑んだ。
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〔culture0165:1501006〕
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