連載・やさしい仏教経済学-(28)「豊かさ」から「幸せ」の時代へ/(27)経済成長至上主義よ、さようなら
- 2011年 1月 15日
- スタディルーム
- 安原和雄
「豊かさ」から「幸せ」の時代へ -連載・やさしい仏教経済学(28)-
時代の雰囲気は「豊かさ」から「幸せ」へと変わりつつある。例えば最近のメディアには「幸せ」に関する記事が多くなっている。豊かさと幸せとは質的にどう異なるのか。平たく言えば、豊かさは「量の増大」であり、幸せは「質の充実」である。
そういう幸せの定式として「平和憲法の幸福追求権の活用+精神的充実感」を提案したい。この幸せの定式を実現させる必要条件として二つ挙げたい。一つは「ゆとり主導型経済」の推進で、これは従来の輸出主導型、内需主導型に代わる新しい構想である。もう一つは「生活者主権」の尊重で、従来の消費者主権に代わる新提言である。時代の変化は、それにふさわしい新しい構想、提言を求めている。(2011年1月15日掲載)
▽「豊かさ」よりも「幸せ」に関心が高まってきた
最近、「幸せ」という発想、文言に出合う機会が多い。
ここ3か月間の新聞投書(趣旨)から具体例を拾ってみよう。氏名は省略。
・<新聞の川柳や俳句が楽しみ>=主婦 34歳 福島県いわき市
何気なく新聞を見ていたら川柳が載っていた。その一つに朝から大笑いしてしまった。そこで、ふと思ったが、朝から笑えるのって、何て幸せなことだろう、と。川柳一つで自分も、伝えた誰かも、朝から笑える。小さな笑いのタネを見つけることで、自分も家族も他の誰かも幸せにできたら、すてきだな、と思った。
・<「最小不幸」より「小さな幸せ」を>=主婦 57歳 山口県光市
菅首相は、「最小不幸社会」の実現を目指すと言ったが、この言葉に違和感を覚える。先日、追悼コンサートでみんなで「小さな幸せ」を歌った。亡くなった先生の作詞作曲で、小さな幸せが大きな希望や喜びにつながるという内容だった。みんなが明るく笑顔で過ごせる社会。そんな「小さな幸せ」こそが、今この国に求められている。
・<生きるっていいよ>=主婦 54歳 茨城県日立市
毎日のように子供の自殺がニュースになっている。私もつらいこと、苦しいこともたくさんあったが、生きてきてよかったと思う。小さなことでも楽しみや幸せを見つけられるし、やる気があれば、夢がかなうこともある。すべての親は子供に幸せになってほしい、命を大切にして欲しいと思っている。自分一人の命じゃないことを分かってほしい。
さてフランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥシュ氏(70歳)の説法「経済成長 人々を幸せにしない」(朝日新聞=2010年7月13日付夕刊・東京版)を紹介する。
・私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長が続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ。
・(「持続可能な成長」という考え方について)持続可能な成長は語義矛盾だ。地球が有限である以上、無限に成長を持続させることは生態学的に不可能だからだ。
・(「南」の貧しい国も成長を拒否すべきなのかについて)北の国々による従来の開発は、南の国々に低開発の状態を強いたうえ、地域の文化や生態系を破壊してきた。そのような進め方による成長ではなく、南の人々自身がオリジナルの道をを作っていけるようにしなければならない。
・(菅首相が経済成長と財政再建は両立できると訴えていることについて)欧州の政治家も同じようなことを言っているが、誰も成功していない。彼らは資本主義に成長を、緊縮財政で人々に節約を求めるが、本来それは逆であるべきだ。資本主義はもっと節約をすべきだし、人々はもっと豊かに生きられる。我々のめざすのは、つましい、しかし幸福な社会だ。
<安原の感想> 幸せの定式=幸福追求権の活用+精神的充実感
「僕は幸せだなー」という歌の文句ではないが、幸せとはなによりも精神的な喜び、潤い、充実感である。しかしこの精神的充実感を客観的に保障する枠組みが必要である。それを平和憲法の多面的な幸福追求権に求めたい。
まず憲法13条「幸福追求権」をどう活かすかが課題となる。幸せのためには何よりも平和=非暴力が不可欠である。だから憲法前文の平和的生存権、9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」の理念を実効あるものにしなければならない。さらに生活に必要なモノ・サービスも欠かせない。そのためには憲法25条「生存権=健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、国の生存権保障義務」の活用も必要不可欠のテーマである。
以上のように憲法に定めてある多面的な幸福追求権を土台にして「平和憲法の幸福追求権の活用+精神的充実感」を新しい「幸せの定式」としてはどうか。
菅第2次改造内閣が1月14日発足した。その政策目標の目玉は「安心できる社会保障、財源としての消費税引き上げ」つまり増税路線である。これでは菅首相時論の「最小不幸社会」ではなく、「最大不幸社会」とはいえないか。
以下では上述の「幸せの定式」を実現していくための必要条件を考える。
▽ 幸せの必要条件(1)― ゆとり主導型経済の構想
幸せの必要条件としてまず「ゆとり主導型経済」という構想を提案したい。
わが国におけるかつての高度成長時代の輸出主導型経済は、輸出拡大が経済の牽引力となった。それが対外摩擦を生み、批判を浴びて内需主導型経済に転じた。内需つまり国内需要とは、GDP(国内総生産)の需要項目(輸出、企業設備投資、在庫投資、公共投資を含む財政支出、住宅投資、個人消費)のうちの輸出(外需)を除く部分を指しているが、この内需の拡大が経済の牽引力を担う内需主導型も万能ではない。
1980年代後半のバブル経済とその崩壊が具体的な一例である。内需拡大策がバブルを増幅させ、その結末があのバブルの崩壊にほかならない。そこで仏教経済学としては「ゆとり主導型経済」という構想を練って、それへの転換を進めるときであると考える。
ゆとりとは、次の五つのゆとりを指している。
*所得のゆとり=物価水準の安定ないしは引き下げ、憲法25条の活用に必要な実質所得と就業機会の確保など
*空間のゆとり=社会資本ストックの質的充実、ゆったりした私的・公的空間、人間性尊重にふさわしい職場空間の確保など
*環境のゆとり=地球環境と自然、土壌、生態系、きれいな大気・水、豊かな緑と森林と田園、美しい景観などの保全と創造
*時間のゆとり=労働時間短縮と自由時間増大、年次休暇の充実、介護・育児休暇の増大など
*精神のゆとり=こころの充実感、平和(=非暴力)、安らぎ、働きがい、生きがい、モラルの確立など
この五つのゆとりが経済発展(=経済の質的充実に重点がある。量的拡大しか意味しない経済成長とは異なる)の牽引力となり、またそのゆとりの確保を目標にして経済が循環していく。
ここでは一つだけ、精神のゆとりがなぜ経済発展の牽引力になるのかに触れておきたい。無気力、怠惰、モラルの崩壊による働きがいの喪失感が経済発展の制約条件であることはいうまでもない。働きがいも生きがいも無縁な社会はすでに崩壊状態にあることもまた自明のことであろう。精神のゆとりとは、こころの充実感であり、生きがいであり、それは働きがいと共に存在する性質のものである。そういう意味で精神のゆとりは経済発展の重要な支柱である。
指摘しておく必要があるのは、五つのゆとりのうち所得と空間のゆとりは主として市場価値、貨幣価値であるが、環境、時間、精神のゆとりは、いずれもお金に換算しにくい、従って市場で入手できない非市場価値、非貨幣価値であるということ。いいかえれば所得と空間のゆとりはGDPの構成要素となり得るが、環境、時間、精神のゆとりは構成要素にはなりにくい。
仏教経済学としては、非市場価値、非貨幣価値を重視する。なぜなら環境、時間、精神のゆとりを抜きにしては真の幸せを実感できないからである。また環境、時間、精神のゆとりの確保は、幸せを実感させてくれるが、GDPの構成要素ではないため、経済成長率の高低とは無関係である。こうしてゆとり主導型経済と脱経済成長主義とは、表裏一体の関係にある。
内需主導型経済の視点からすれば、以上のようなゆとり主導型経済が果たしてうまく循環していくのかという疑問が生じるかもしれない。ゆとり主導型といえども、もちろん外需(輸出)も内需(公共投資、民間設備投資、個人消費など)も存続する。そうでなければ経済は回らない。
大切な点は、内需主導型が経済成長至上主義、つまり成長率が高いほど好ましいと考える立場であるのに対し、ゆとり主導型では成長率を高めることを目標とするものではないし、ゼロ成長(経済規模の横ばい状態)でも一時的なマイナス成長(経済規模の縮小状態)でも構わないと達観する。なぜなら仏教経済学は成長率を高めることが必ずしも真の幸せにはつながらないという認識に立っているからである。
▽ 幸せの必要条件(2)― 生活者主権の尊重
幸せの必要条件として生活者主権の尊重も大切である。
現代経済学では消費者主権を重視する。一方、仏教経済学では生活者主権の尊重を前面に掲げる。生活者主権という用語はまだ市民権を得ているとはいえないが、地球環境保全や幸せを重視する時代のキーワードになるべき新しい考え方である。生活者主権の確立のために次のような「生活者の四つの権利」を提案したい。
*自立・拒否する権利=依存効果(注1)からの自立、環境破壊の拒否など真の自由・選択権
(注1)依存効果とは、アメリカの経済学者J・K・ガルブレイス(故人)が著書『豊かな社会』(岩波書店)で説いた経済用語で、まず企業による生産が行われ、それを消費させるために欲望を喚起すること、つまり欲望は生産に依存するという意。テレビのコマーシャルは「消費欲望の喚起」の日常的な光景といえる。本来なら欲望が先行して、それを満たすために生産が行われるが、この因果関係が逆転して、生産主導型になっている。
*参加・参画する権利=財・サービスの生産・供給のあり方、政府レベルの政策決定などへの参加・参画権(注2)
(注2)参加は集会、会議などにそのメンバーの一員として加わることで、決定権は必ずしも持たない。参画は議決・決定権の行使に重点をおく参加のこと。
*ゆとりを活かす権利=上述の五つのゆとりの創造・活用・享受権
*自然・環境と共生する権利=経済成長至上主義に代わる「持続可能な発展」を追求する生存権
生活者主権は既存の消費者主権とどう違うのか。消費者主権とは、消費者が主役として、消費者の自由な選好と利益を最優先させて経済全体の資源配分を行うことを意味している。この消費者主権は市場価値、貨幣価値のみに視野を限定した消費者の欲望をどこまでも充足させていくことを前提に組み立てられており、従って地球環境の保全、資源エネルギーの節約とは両立しにくい。そこに消費者主権の限界がある。
一方、生活者主権は生活者が主役として、経済全体の資源配分を行うことを指している。生活者を主権者とする経済デモクラシーといってもいい。生活者とは、消費者と違って、お金で買える市場価値(=貨幣価値)だけではなく、むしろお金では買えない非市場価値(=非貨幣価値)を尊重し、双方のバランスをつねに考慮する。そこには知足、簡素の感覚が伏在しており、従って地球環境の保全、資源エネルギーの節約とも両立する。
誤解を避けるために補足すると、人によって消費者、生活者に分かれるわけではない。同じ人が消費者であったり、生活者になったりする。両者の違いは人によるのではなく、日常の行為として消費者主権、生活者主権のどちらを重視するかによる。仏教経済学としてはもちろん生活者しての生き方をすすめたい。
<参考資料>
・日野秀逸著『憲法がめざす幸せの条件 ― 9条、25条と13条』(新日本出版社、2010年)
・市場価値(=貨幣価値)と非市場価値(=非貨幣価値)については「お金では買えない価値の大切さ 連載・やさしい仏教経済学(24)」を参照
・安原和雄「知足とシンプルライフのすすめ ― <消費主義>病を克服する道」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第26号、平成十九年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年1月15日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study370:110115〕
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経済成長至上主義よ、さようなら -連載・やさしい仏教経済学(27)-
毎日新聞の「万能川柳2010年」(12月27日付夕刊・東京版)に「GDP抜かれて3位 だからなに」(東京 寂淋)があった。文字通り「経済成長至上主義よ、さようなら」でいいではないかという心情を詠(よ)んだ一句と理解したい。これまでGDP(国内総生産)総額では米国1位、日本2位、中国3位だったが、日本が中国に抜かれて3位に転落したため自称・経済専門家たちが大騒ぎしていることへの皮肉めいた感想になっている。
若干解説すれば、GDP総額ではたしかに中国に逆転負けしているが、1人当たりGDPでみれば中国人口は日本の約10倍だから、中国の1人当たりGDPは日本の約10分の1にすぎない。ただこういう数字にこだわること自体、脱「成長主義」からほど遠い。ともかく成長率論議にぎやかな経済成長至上主義の時代は過去のものとなったことを自覚して出直したい。(2011年1月8日掲載)
▽ 40年前のシューマッハーから21世紀の地球白書へ
脱「経済成長」をめぐって時代はどう推移したかに触れておきたい。
「貪欲と嫉妬心が求めるものは、モノの面での経済成長が無限に続くことであり、そこでは資源の保全は軽視されている。そのような成長が有限の環境と折り合えるとは、とうてい思われない」
これは40年も昔の仏教経済思想家、シューマッハーの経済成長批判の言である。
さて21世紀初頭の現在、脱「経済成長」論はどこまで広がっているだろうか。一例を挙げると、米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008~09』はつぎのように指摘している。
時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。(中略)しかし経済成長(経済の拡大)は必ずしも経済発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、容易には解消することのない大量の貧困を伴った ― と。
さらに次のようにも記している。
今日、近代経済の驚くべき莫大な負債が全世界の経済的安定を根底から揺るがすおそれが出ている。三つの問題 、すなわち 気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配 は、今日の経済システムと経済活動の自己破壊を例証している ― と。
以上の認識、記述は大局的に観て正しいと私(安原)は考える。要するに経済成長は豊かさをもたらすものではなくなっており、「経済成長至上主義よ、さようなら」が合い言葉ともいえる時代なのである。ところが昨今のテレビや新聞などメディアには経済成長のすすめ、待望論が静まる気配はない。政治の世界も同様である。2010年6月発足した菅民主党政権は新成長戦略を前面に掲げてまっしぐらという構えである。一体これは何を意味しているのか。「経済成長=豊かさ」という定式に今なお執着しているためだろう。
なるほど第二次大戦後の日本の経済発展史をふり返ってみれば、「経済成長=豊かさ」がそれなりに成立した時期もあった。1956年度(昭和31年度)から1973年度までの高度成長期(年度平均9.1%の実質経済成長率を達成)である。高度成長を支えたのが池田内閣時代に策定(1960年12月閣議決定)された所得倍増計画(「10年間で月給倍増、雇用拡大、生活水準引き上げ」がスローガン)であった。当時はモノ不足時代で、それを満たす消費の増加によって豊かさ感を味わった。しかし当時すでに高度成長の陰で公害や格差などのひずみもひろがりつつあったことは見逃せない。
▽ 「経済成長=豊かさ」という固定観念を捨てよう
40年も前の昔話にこれ以上お付き合いする必要はないだろう。2010年前後の目下の現状はどうか。「経済成長=豊かさ」という固定観念を捨てて、 ― そういえば最近思い込み、執着心を投げ捨てる「断捨離」(だんしゃり)という行為が流行となってきているようで、いいかえれば「諸行無常=すべては変化する」という真理を尊重して、 ― 日本や世界を観察し直すと、異質の光景を目にすることができる。
その具体例として以下の主張、提案を紹介したい。
(1)経済成長で貧困は解消しない
経済成長で貧困は解消せず ― 貧困それ自体を政策課題に(湯浅 誠・反貧困ネットワーク事務局長)=2010年6月11日付毎日新聞。その大要は以下の通り。
低所得と貧困は完全にイコールではない。貧乏でも家族や友人、地域の人に囲まれ、幸せに暮らしている人はいる。貧困とはそうした人間関係も失った状態を指す。<貧困=貧乏+孤立>だ。
単身高齢世帯が463万世帯と、高齢者世帯全体の23%に達した。貧乏でも孤立していなければ、孤立していても貧乏でなければ、何とかなるかもしれない。しかし両方が重なる世帯が増えてしまっている。
「経済成長さえすれば貧困は改善する」という人たちがいるが、それが決定的な処方せんになるとは思えない。02年から07年までは「戦後最長の好景気」だったが、低所得世帯は増え続け、貧困も広がった。経済成長しても、その果実の分かち合い(再分配)を間違えれば、貧困は解消しない。経済成長が「主」で、貧困はそれに従属する「従」の要因だという発想そのものを転換する必要がある。
イギリスでは今年、児童貧困対策法が成立した。20年までに子どもの貧困を解消すると法律で宣言し、改善状況を毎年国会に報告する義務を負った。そこにあるのは貧困それ自体を政策のターゲットにする発想である。貧困をどうやって減らすかを真剣に考えなければ、たとえ経済成長しても、減らない。
<安原の感想> 貧困打開には「果実の再分配」の変革を
湯浅氏の指摘を評価できるのは、「経済成長=貧困の改善」という定式を否定していることである。貧困を改善するためには経済成長が先行しなければならないという主張は、現代経済学の決まり文句ともいえるが、こういう迷妄を打破しなければ、貧困問題の打開策は見つからない。
なぜか。そもそも経済成長とは何を意味するのか。それは経済活動によって生み出される付加価値(大まかにいえば企業利潤と賃金の総計)が増えることを指している。つまり付加価値の量的増加を意味するにすぎない。この付加価値が企業利潤にほとんどが配分されて、賃金への配分が少なければ、働く人々の暮らしは改善されず、貧困は解消しない。これが今日の日本経済が直面している現実である。だから貧困を改善するためには湯浅氏の表現を借りると、「果実の再分配」を働く人々中心へと変革する必要がある。
こういう単純な真理が必ずしも理解されていないのは、真理への眼(まなこ)が曇っているからだ。もう一つ、競争力強化の名目をかざして巨額の内部留保(企業利潤)を貯め込んでいる大企業を優遇(法人税減税など)する経済運営が行われているからだろう。政権担当者の責任はとても大きい。
(2)持続可能で公正な「脱成長社会」をめざして
バルセロナ(スペイン)会議の「脱成長宣言」(経済的脱成長に関する第2回国際会議・2010年3月採択)=食政策センター‘ビジョン21’発行「いのちの講座」・2010年8月25日号。その大要は次の通り。
2010年3月脱成長に関する第2回国際会議に40カ国から400人の研究者、実践家、市民社会のメンバーが集まった。2008年パリで開かれた第1回国際会議の宣言は、財政・金融の危機であり、同時に経済、社会、文化、エネルギー、政治さらに地球生態環境の危機でもあることを指摘した。この危機の原因は、成長にもとづく経済モデルの失敗にある。
さて経済成長を促進しようとする「危機対策」は、長期的には様々な不平等と環境条件を悪化させるだろう。「借金を燃料としてくべる成長」という幻想、すなわち借金を返すために経済を無理矢理成長させるという妄想は、結局のところ社会的な災厄を招き、経済的な負債と地球環境への負債を将来世代と貧しい人々に押しつけ、たらい回しにすることになるだろう。
世界経済の脱成長プロセスは不可避である。問題はこのプロセスをナショナル、グローバル双方の視点から社会的公正を軸にしてどうコントロールするかである。これこそ脱成長運動が解決すべき課題である。まずは豊かな国々が脱成長に向けての変化を開始しなければならない。
バルセロナに集まったのは、現在のシステムとは根本的に異なる代替策、つまり地球生態環境からみて持続可能で社会的に公正な「脱成長社会」をめざす様々な提案を組織化するためであった。
会議では次のような新しい提案が出された。
・地域通貨の促進普及
・小規模な自己管理型で、利潤追求を重視しない企業の促進普及
・ローカルなコモンズ(共同体による共有財産管理システム)の防衛と拡大
・労働時間削減などワークシェアリング(仕事の分かち合い)とベーシックインカム(一定の所得を無条件で保障すること)の導入
・原子力発電所、ダム、ゴミ焼却炉、高速輸送などの大規模インフラ(社会的経済的基盤施設)の放棄
・クルマ中心のインフラを徒歩、自転車、オープンコモンスペース(自由利用公共空間)に転換すること
・資源搾取に反対する、南の環境正義をめざす運動を支持すること
・政治の脱商業化と政策決定に対する直接参加の強化拡大
これらの諸提案の実現に取り組むことによって人々の良い暮らし(well-being)が増大するだろう。経済成長の愚かさに終止符を打たなければならない。現在の課題は「いかにして変えるか」ということだ。
<安原の感想> 資本主義そのものの改革案
バルセロナ会議の「脱成長宣言」は、経済分野での脱成長をめざすにとどまらないで、むしろ資本主義そのものをどう変革していくかに主眼があるといえる。その変革のめざす目標が<持続可能で公正な「脱成長社会」>である。
これは2008年のアメリカの金融危機に始まる世界金融危機とともにいったん破綻はしたが、消滅はしていないあの市場原理主義(=新自由主義)との決別をも意味している。いいかえれば経済成長推進か、それとも脱経済成長か、という経済に視野を局限した従来の日本的発想を超える政策提言といえよう。
その具体的な政策提言が地域通貨の普及、利潤追求を重視しない企業の促進普及、労働時間削減を含むワークシェアリングの導入、原子力発電所の放棄、車中心のインフラからの転換 ― などである。もちろんワークシェリング、脱原発、脱車社会にしても、アイデアとしては日本にもあるが、これを<持続可能で公正な「脱成長社会」>への提案と展望の中に位置づける姿勢は乏しい。バルセロナ会議の「脱成長宣言」に学ぶところは少なくない。
<参考資料>
安原和雄「持続可能な経済(学)を求めて―『地球白書』に観る二一世紀の世界」(駒澤大学仏教経済研究所編「仏教経済研究」第三十九号、平成二十二年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年1月8日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study369:110108〕
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