小説 「明日の朝」 (その16)
- 2015年 11月 11日
- カルチャー
- 小説川元祥一
16
一つの奇跡はどのように続くだろうかー。続くのか、続かないのかー。確かに聖子の前で一つの選択をした。そしてその時、脳裡に千津子がいたのは確かだった。しかしだからといって、千津子と自分との間で何がどのように続くのか続かないのか、自分で予測するものは何もなかった。その時その時を自分に正直に生きて行く。その程度のことしか考えていなかった。聖子についてもそうだった。結婚を予測することはなかったし、若者の間で流行っている同棲生活もごく普通に憧れを持つことがあったとしても、現実観をもって考えることはなかった。遠い未来像のようだった。そしてあの日、聖子が何を意図したのか表面的なことがわかったとしても、そのように彼女が一歩前に出ようとした根っ子のことは実のところ今でもはっきりしない。しかしまた別の意味で、彼女が同じアパートでもいいと言った時、その深層の不明確なものはすべて解けたとも言えるだろうし、平崎は平崎でその時、自分の内で一つの選択をしなくてはならない場面を感じていた。しかもそれはまったく予期せぬことで、おそらくそのためもあって、自分と聖子に思わぬ痛みを残したと思うのだった。といっても彼は、そうした選択に後悔はしなかった。
鉄冊にもたれて彼はタバコに火をつける。右側の井の頭線改札の真上にある時計の針が少し斜めに重なった後だった。重なった針が今は細いV字に開いている。<単なる十分>彼は思った。無限の空間の中にある単なる十分。誰もさわることの出来ない時間ではあるが、その間に千津子は電車にゆられているだろうか。いや彼女はすでに駅に着いていてプラットホームを、この、二つの駅が交差する架橋の上の境界に向かって歩いているかも知れない。
彼はタバコの煙をゆっくり吐きながら架橋を渡ってくる人々の間に目を走らせる。
ここで千津子と会うのは今日で三度目だった。最初のうちはやむを得ないとしても、二度目三度目となると、もっと気のきいた場所で落ち逢うのがよさそうだ。先週もここで同じことを考えていた。しかし、この町でデートを続ける気がなかったので、適当なところを決めかねていた。しかし三度目ともなると殺風景な改札口では能がない。今日は必ず、二人がいつでも待ち合せ出来る場所を作っておこう。吉祥寺駅の北口を出て、商店街をしばらく行くと『田園』という名曲喫茶がある。ヨーロッパの古城を真似た建物で、いつもクラッシック音楽が流れている。ストランセスキーのリサイタルの後千津子と入った新宿の『らんぶる』と同じような店なので、千津子も気にいるにちがいなかった。彼女が来たら真っ先にその『田園』を知っているか尋ねてみよう。
荷車を押した駅員が後ろから鉄冊を押した。平崎は体を避けて荷車を通した。
一時十分を少し過ぎていた。最初の時も少し遅れて来た。彼女の家から考えると、家からこの駅まで四、五十分はかかるだろう。電車が来るタイミングなどちょっとした誤差で十分くらいの違いは出来てしまうだろう。
彼は荷車が通った鉄冊に再びもたれた。何もあせることはないのではないかー。
金曜日に会社を休んだという聖子。昨日土曜日の朝、彼は広場に水を打ちながら、聖子が前を通ったらどうしようかと、内心うろたえていたのだったが、彼女は通らなかった。今日も休むのだろうか、という思いが走った。しかし遅番早番というものがある。その日前を通らなかったからといって、その日の彼女の動向を見極めることは出来ないだろう。そんなことを考えながら彼はそそくさと後片付けをして会社を出たのだった。山田芳美がその日遅番だったのも幸いだと時思った。だが、よく考えてみると、聖子が早く出て来てすべてを明らかにした方がいいのではないか。そのことで自分がボロクソに言われることがあるとしても、その方がはるかに落ち着きそうだった。今のような状態で聖子の事をあれこれ考えても、もはや何の意味もないのだから―。そんな風に思うことにした。
時計の針の空間はさらに広がり一時二十分を指すところだった。<いったいどうしたというのだろうか>
彼は鉄柵を離れ、中央線上りのプラツトホームが見える階段の上まで歩いた。八王子の方から東京に向かう電車が着いたばかりで、人が階段一杯に昇ってきた。この人の群れの中に千津子の顔があるかも知れない。あの、頚をちょっと傾げたやさしげな顔ー。その顔を期待しながら彼は、最後に登って来た老人を見送った。
やがて彼は足を返し再び鉄柵の前に立った。<千津子は来ないのだろうか…>もしそうだとしたら、なぜなのか?熱を出して寝ているとでもいうのだろうか。
<後十分待とう。いや二時まで待ってもいい。一時と二時を勘違いしている場合だって考えられないことではない>
彼は手持ちぶさたに自分の腕時計に目をやった。駅のそれと一分と違わなかった。時は確実に動いていた。その本体を誰も見たことのない不思議な時ー。時計の針という一つの物質によって見えることになってはいるが、それが時のすべてではないだろう。いろいろな時がある。石が持っている時。動物が持っている時。植物が持っている時。そして俺が持っている時。千津子が持っている時。それぞれ自分の時の中を生きている。そして今、彼にとって彼の時はすべて虚しくて、停止しようとしている。駅の時計がいかに動こうと、動物たちがいかにその生命の輝きの中に生きていようと、彼の内にある時は息苦しさと猜疑、俊巡の中にあって停止しようとしている。これが止ってしまったら人はそこに精神の中の何かの死を感じ取り、そこから飛び出そうとするのではないか。逃亡しようとするかも知れない。おそらくは、死ぬよりはましだと思って。
千津子は今どこにいるのだろうか。あの、広々とした重そうな屋根を持つ家の一室で哀しみの時を過ごしているのか。あるいは憎しみの時か。あるいは全く平崎に関係のない時の中で、自らの生命と向きあっているというのかー。
平崎は<これが最後だ>と思って、再び上り電車が入るプラットホームの階段の上に立った。電車を待つ人の姿だけが目に入る。そしてやがて、プラットホームのスピーカーから男の声が流れ、オレンジ色の電車が滑り込むー。
階段を昇る人の群れが消えた後、彼は通路を引き返した。改札の上の時計が二時を指していた。<一時と二時を間違えているとしたら、彼女が少し遅れて来る可能性も考えられる…>
鉄柵の前に痩せた一人の男がいて、そこに戻ってくる彼を見た。その顔に嘲笑の色が浮び、何か言った。<お前少し思い違いしてないかい。彼女との間に何かの繋がりを感じる、それはお前の大きな思い違いではなかったのかい>
自嘲の色を浮かべる男に体を寄せながら彼は言い分けをしようとし、しかし言葉が思いつかないのを感じて、透明なその男の身体に同化して立ち留まる。
一本のタバコが短くなり、吸い殻を後ろの線路に投げ込んでからしばらくして、彼は鉄柵を離れた。体に溜まった無念さと猜疑心が屈辱感に変わり、混沌とした疲労感とともに広がる。彼は駅の階段を下り、人と車で混雑した道を横切った。独りなのを感じた。身体の全てが独りなのを探っていた。
月曜日彼は学校に向かった。午後一番の授業で卒業単位に必要な古文書の講義を受けなくてはならない。久しぶりに味わう大学の空気だった。だがしかし、自分の頭の中が落ち着かなくて、講義は何も耳に入らなかった。ただ単位を取るためにそこに座っているだけ。それだけの時間であり空間だった。
授業が終わると、特別学校に用があるわけではない。留年しているせいで、教室に親しい学生もいない。それに今日はアルバイトの日だった。午後六時前には大学を離れなくてはならない。
自治会室にでも行って時間を潰そうか。そんな事を考えた。文学部の自治会室はもぬけの殻だろうが、中執に行くと誰かがいそうだった。自称革命家を目指して意図的に留年する早野徳一なら必ず学内にいて、中執に出入りする。そんな早野の革命論はこりごりだったが、今日はそれでも気晴らしになるかも知れない。もう一人大学生協に残る日文科の先輩がいる。彼も革命を標榜する学生運動家の一人だったが、こっちは収まる所へ収まったという感じで面白くも何ともない黴の匂いのする男だった。もう一人、短期大学を卒業した後、あらためて学部のフランス文学に入学した大岡幸子がいる。こうしてみると、定期に卒業しないモサのような学生が結構いるものだ。彼らに会えば気持を割った話ができそうだった。
その頃のキャンパスは「原潜入港阻止」と書かれた立看版があちこちに目立った。アメリカの原子力潜水艦が横須賀に入港するのを阻止しようと呼びかける学生運動の一環だった。早野たち中執の活動でもあった。そんなキャンパスの雰囲気に触れて、最近やたら敗北感や焦燥感に出会う自分の脳裡に不思議な落ち着きが生れるのを感じてもいた。彼は本館の地下に向かう階段を下りた。新聞部と書かれた部屋のドアを押すと、二人の学生が紙の山の中に埋まっていた。
「大岡さんいない?」
「彼女さっき出かけたわねぇ。どこへ行ったの?」
オカッパ頭の女子学生が奥の男に尋ねた。
「立看の写真入れたいって言ってたから、校内でしょう。すぐ帰るんじゃない」
忙しく作業をするらしい空気が張りつめていた。そんな空気の中で当てもなく待つのが嫌で平崎は部屋を出た。学食に行ってコーヒーでも飲もうと思った。中庭を歩いている時だった。校舎の間から大岡が出て来るのを見た。向こうもすぐ気づいた。
「あら、めずらしいわねえ。生きてたの」
「やっとこさ生きてるよ。今新聞部に寄ってたんだよ」
「あら、どうしたの?」
「新聞部のお姫さまに何か面白い話ないか聞いてみたくてさ」
「あら、お姫さま二人いるんだけど。どっちにする?ピチピチか、ちょっと年増か」
「俺も年増だからな。年増でいいよ」
「よし、でも年増は忙しいよ。とにかく下でコーヒーでも飲もう」
二人で学食に降りて行った。安っぼくもあったが、いつも腹を満たしてくれるカレーライスの香りが漂っていた。
「アメリカの原潜が横須賀に入るでしょう。だから日曜日に反対集会が現地であるの。平崎君行く?最近そんなところに顔出さなくなったじゃない。忙しいの?」
「忙しいって言えば忙しいよ。俺はいつも仕事してる労働者だからな」
「だから日曜日なのよ。それならみんな行けるでしょう」
「そうか。一応考えてんだ」
「考えてるわよ。それ抜きに考える事ないわよ」
「そうですか。しかし俺は今のところ遠慮するよ」
「早野さんがね、平崎君に期待してたわよ。彼ら新しい前衛党作ったでしょう。そこに誘うって」
「いいですよ。彼の革命論は歯が浮きそうで、ついていけないよ。彼も大学にばかりいないで、どこかの職場に潜り込んで、その会社の構造をよく知ってから彼が盛んに言う労働者と話せばいいんだよ。俺たち毎日その現場でクソッて腹立ててんだから」
「まあねえ。ちょっと浮ついてる感じよね。気持ちはわかるけど」
「彼の情熱とかね、政治を批判してる範囲では真っ当だけど…。ところであんた良い写真撮れた?立看の写真撮りに行ったって言ってたけど」
大岡が抱える大きなカメラを見て彼は話を変えた。早野のことになるといつも話が堂々巡りして面白くない。
「今日出す新聞にキャンパスの雰囲気入れたくてさ。とりあえず最近の大学でめずらしいのは立看だけだかね。ほかに動きはないもん」
「そうかもね」
「あなた授業あったの?」
「三時限にあったんだ。だけどその後学校には用がなくてさ、コーヒー飲むか図書館で昼寝してからバイトに行くつもりだけど、お姫さまの顔もたまには見とこうと思ってさ」
「そうなの。今急いで編集してるの。すぐ印刷に回さないと次の日曜日に間に合わないのよ。もしよかったら横須賀へ一緒に行こうか。日曜日」
「まあ、俺の分も叫んどいて。俺は職場にいて何が出来るか考えとくよ」
「そうか。時々新聞部に寄りなさいよ。いろいろ話ししよう」
そう言って大岡が残ったコーヒーを飲み干した。
「今日はだめなの。これでごめんね」
大岡がカメラを抱えて立ち上がる。千津子のことを相談してみたい気持ちがあった。こんな時女心はどんなものなのかー。が、そのいきさつをどのように説明出来るか、いきなり言葉にするのも難しい感じだった。そのうえ、ともかく大岡がせわしないー。
一人になって彼はぼんやりと学食を見回した。いつ来ても安っぽいカレーの匂いが立ち込めていた。一応腹足しになって安いのがカレーライスだった。学生のほとんどがそれを注文するのだろう。
学食の出口に公衆電話があった。彼はそこに目を置き、一つの計画を実行しようかしまいか迷っていた。一つの可能性に、あるいはもしかしてそれは絶望を示すものかも知れないが、それを自分の手で試てみようと考えた。昨夜からその思いが続いていた。しかし、それが効果的かどうか考えると逡巡が生れた。<たいした事ではないのだ。彼女はただ風邪をひいたか何かで家にいるだけなのだ。間が悪かったのは、俺が彼女に住所とか連絡方法を知らせていなかったことだ>そんなことを考えた。しかしそれでも、何が起っているのかわからないまま日々を過ごすのは辛いことだった。<電話するなら今だろう。明日になると間が抜けそうだ>
彼は奇跡への期待をもって立ち上がる。公衆電話の横に分厚い電話帳が重なっている。彼はその電話帳から日日経済の電話番号を探し出した。
耳の奥で鳴るベルの音を聞きながら、彼は胸が絞めつけられるのを感じていた。見たこともない新聞社の、電話を受付る交換台が幻想のように脳裡を過る。
ふいにベルが止った。
「はい、日日経済です」
若い女の声だった。千津子の声に似ている感じがした。もしかして千津子はいつもこうして電話に出ているのかも知れない。
「もしもし、すみませんが岡谷千津子さんお願いします」
「はい。何部でしょうか?」
「部はわからないのですが…」
「少々お待ちください」
女が言って間があいた。
「総務に岡谷千鶴子がいますが、その方でよろしいでしょうか?」
「ええ」
「すみませんが、どちら様でしようか」
「平崎といいます」
「少しお待ちください」
女が言ってオルゴールの曲が流れた。<千津子が出てくる>彼は身構えた。
「申しわけありません。岡谷は今日休んでおりますが」
女の声が返ってきた。感情の起伏のない平板な口調だった。
「そうですか」
「はい。申しわけありません」
「ではまた後日電話します」
平崎は思はず言って電話を切った。休んでいる理由を聞けばよかったと思ったが後のまつりだった。
体を捕らえていた緊張感が解けた。しかしその回りで、複雑な感情が入り乱れるのを感じながら彼は電話の前を離れた。
<昨日から体調を崩していたかも知れない。そして今日は会社を休んだ。そんなことなのだろう>
平崎は学食のテーブルに戻った。早めの晩飯を食って行こうかと思い付く。そしてお馴染みのカレーライスのチケットを買って食堂の小母さんに渡す。千津子の家に電話することも考えた。電話番号を調べるのは困難ではない。俺はその家の庭に何回も行った。住所もしっかり覚えている。しかし彼女の家族が電話に出る可能性は高いだろう。特に彼女の母親は、小うるさい女のような気がする。いろいろ詮索してくるに違いない。そんな家に電話するのが億劫だった。彼女一人と話しの出来る会社の方がはるかにましだった。<あしたもう一度電話してみよう>。それでも休んでいたら、彼女の家に直接行こう。心配して見舞いに来た、という言い訳も出来るのではないか。
西日を浴びて眩しく光るフロントを抜け、平崎は冷房の効いた場内に入った。冷房空調が有難くなる季節の到来だった。彼は事務室のドアを開けて放送室の横を通った。「こんちは…」と、いつもの通りカーテンの向こうに声を掛けた。いや、いつもの通りではない。やはり聖子のことが気になって、言葉はいつになく硬かった。そして予想通り、いやこれもまた予想通りではない。予想していたのは様々な言葉、あるいは状況。聖子が会社を休んだことで起こったかも知れない流言飛語のようなもの。先週金曜日に休んだ聖子が、その後会社に出たのかどうか、平崎にはわからなかった。だから予想出来るのは、自分にとって針のむしろのような状況とか、それにともなう罵詈雑言ばかりだった。しかもその時、カーテンの向こうからいつも返る返事がなかった。レコードを回しながら顔の手当や指の手当をしているかも知れない。一人コーヒーコップを傾けているかも知れない。事実、カーテンの横を通る時、コーヒーの香りが漂っていた。この時間に放送室に人がいないことは考えられないことだった。スケートリンクで緊急の事故が起こると必ず放送室に知らされる。最後のひと時、蛍の光を流しながら山田が席を外す以外に、そこが空になることはないのだ。
その時の彼にとって沈黙のカーテンが意味するものは大きい。ヒヤリとした。そして体中に針が刺さる感じを受けながら宿直室に上がった。着替えをしながら思いつく。聖子が会社に来たのだ。そして、現実に起こったことを親しい者に話した。たぶん山田もその一人だろう。だから山田が怒っている。それ以外に考えられなかった。そして、しばらくこの状態が続くのだろうかと、居ずらい思いに囚われるのだった。
放送室の沈黙によって、あれやこれやの憶測が走り、刺々しいものを感じながら彼は二階の事務所に宿直の小道具を取りに行った。その時、野田達子が言った言葉がその状況のすべてだった。
「いろいろあったみたいだけど、聖子ちゃんに冷たくしちゃだめよ。あんたが悪いんだから」
「ええ」
彼は思わず答えた。そして複雑な思いで階段を下りた。聖子が会社に出て来ているのだ。しかしそれはそれでむしろ救いかも知れない。聖子が自分ですべてを話せば、それなりに落ち着くというものだろう。<俺が針のむしろに座らせられるとしても…>
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0182:151111〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。