高橋源一郎氏の指摘
- 2015年 11月 25日
- 評論・紹介・意見
- 池田龍夫
高橋源一郎氏が、まことに適切な指摘をしているので、要点を紹介しておく。
これで「主権国家」か
「沖縄の現状とともに、『占領条項』を象徴するのが『横田基地空域』の存在である。一都八県に及ぶ広大な空域が今なお横田基地の管理下にあり、ANAやJALといった日本の飛行機が自由に飛ぶことができない。およそ世界の独立主権国家のなかで首都圏の空を自国の飛行機が自由に飛べない国などどこにあるのだろうか。
天皇の戦争責任
天皇の戦争責任についてザ・タイムズの中村康二記者の問答を思い起こす。
(問い)陛下は戦争責任ついてどうお考えですか。
(天皇)そういう言葉のアヤについては、私は文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
(問い)原爆投下の事実を、陛下はどう受け止めたのでしょうか。
(天皇)原爆投下を遺憾に思って射ますが、戦争中のことでありますから、広島市民には気の毒でありますから、止むを得ないことと私は思います。
作家で医師の藤枝静男は「天皇は生まれて初めての記者会見というテレビ番組を実に形容しようもない、個人の怒りを感じた」と東京新聞1957年11月28日付夕刊・文芸時評に記している。
一億総懺悔
「一億総懺悔」とは敗戦直後の東久邇内閣が唱えたスローガンで、全国民の総懺悔によって敗戦の失態を詫びようという趣旨であった。事実は記者の誤解と正反対なのである。
当時の連合国の対日責任追及は「開戦責任」論に意を強いていたのだ。このことは大きい。
敗戦後70年を経ても、実に大きい。天皇も直接かかわる開戦責任の追及より、天皇に敗戦を詫びること――に心から奪われていたこの心性の延長線上に現れていた。この心性の長線上に戦後のエセ民主主義がある。それは血を流し、戦ってついに勝ち取った民主主義ではなく、他から投げ与えられた、それゆえ主体的〝芯〟を欠く。他人まかせの矮性のゆがんだ〝民主主義〟である。「一億総懺悔」の心情は、東久邇内閣が唱えるも唱えないもない、
ポツダム宣言受諾以前から日本を覆っていた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5790:151125〕
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