サブカルチャーの現在《資本主義の亡霊VS共産主義の亡霊》唾棄すべき現在進行形、生きられない生きさせない社会の下請け工場・下僕屈辱状況について噛みしめている人はどれだけいるのだろうか?
- 2016年 3月 22日
- 交流の広場
- 武田明
「世界規模で考えてみて同じことが言えます。
世界各国は低所得労働者で溢れかえっています。
しかし、彼等にはいてもらわなくてはならない理由があるのです。
何故ならほんの一握りの富裕層を支えているのは他でもない彼らの存在なのです。
弱者がいるからこそ強者は強者でいる事が出来る。
この学園のレベルを高く保つためには必要な存在なのです。
あの3年E組は。」
累計発行部数2000万部突破、フジテレビにてTV放映された「映画 暗殺教室」の冒頭である。
(現在、浦沢直樹の漫勉、さいとうたかを「ゴルゴ13」2億冊、クロスロード浦沢直樹自身、1億2000万部のヒットメーカーと紹介されている)
この数字は、ちきゅう座もまた、ちきゅう座系出版社も見習わねばならない「大衆支持の数値」「民主主義的支持の数値」例でもあるのではないだろうか?
決して、不可能ではないのは、3月18日一日だけ復活した「ちきゅう座」上のちばてつや先生のイラストの様な試みではないかと考えている。
http://revolutio.exblog.jp/22998997/
小特集「敗戦(終戦)から70年-『安保法制化』問題と戦争体験」への投稿のお願い
http://chikyuza.net/archives/55301
この様な募集をしている様に、イラストや絵、漫画を描ける人も募集しながら「わかり易い」展開をホームページ上、更に、そして、雑誌や出版物の中でも定着させる展開に切磋琢磨する事が可能な事のように思える。
白土三平氏とガロの前提もあり、手塚治虫回帰が、今こそ必要なのではないのか?
思想部門、学術部門と同じく、大衆運動であり続ける労働者、技術者連携であるのだから再び、音楽や芸術性との連携を模索すべき時であるが、その「無から有を産みだす」「決して無能な労働者はいない」「全ての人がその能力、技能を生かせる社会主義的段階としての連携と団結の場の展開として」
大企業から独立したる展開は本来、可能であるが、大企業の下僕、思想的下請けである大学の在り方が、長らく続いていた敗北主義が、長らく安保闘争、社会運動の中でも続いてきた様にも思える。
それを一新していく独立とは何か?
それを問題としていきたい。
さて、『暗殺教室』読解に移ろう。
第1部 資本主義の亡霊VS共産主義の亡霊
いよいよ「富裕層」そのものもつかみどころのない亡霊の段階に来ている様だ。
それを、3年E組と言う落ちこぼれ教室、暗殺と言うどぶさらいの仕事を請け負わされる生徒と言うSF的な突飛な設定となっている。
落ちこぼれ教室の設定は、既に、「われら青春」(中村雅俊)「飛び出せ青春」などなどの学園ドラマ、『愛と誠』などなど伝統を持ちながら解決されてこない永遠の資本主義的問題点であり、これについて、社会主義的人間解放を標榜してきた「ちきゅう座」さえ、眼をそらして来て、まさに、大学、研究機関を、大企業、落ちこぼれ機関を助長してきた下請け工場たる位置に甘んじてきている事の問題点をまず指摘されるべきであり、主題的に、打開する社会主義的人間解放としての具体的で、唯物論的言及をしていくべきではないか、この逆説の逆説の様な問題設定が、既にある事を念頭に置いておかねばならないと言う事である。
「暗殺教室」と水木しげる作品は、似ている。
「とらえられない存在」「妖怪」「亡霊」を問題としている観念論=SF=物神性から現実を考察する「思考実験性」があるからだ。
ツイッターでの以下の書き込みが的を射ていると感じている。
9.19を忘れないbot緊急事態条項阻止@remember919 · 3月20日
ピケティ氏は突然日本のメディアから消えてしまいました。どうやら、所得の再分配こそ国家を活性化するという当たり前の事実がメディアと政権にとっては都合が悪いようです。こんな国はあと四半世紀ももちません。
3月11日の『実写版 天才バカボン』にても冒頭の掴みは、ピケティであったが、今回の『暗殺教室』の冒頭も同じく、ピケティの語り変えであり、3年E組と言う「貧困」「情報弱者」としての閉塞空間を問題としている。
また、この設定は、深作欣二監督の『バトルロワイヤル』の系譜でもあり、「殺しあう生徒」からターゲットである打倒すべき存在としての教師へと集中する事と、イスラム国の少年兵の「悪夢」の心情的同情にもつながる悲哀のパロディ、コメディにもつながっている痛々しさを受け取る事でもあるのだが、決して、日本の読者、少年たちは、その部分を読み取っているのではないとしても潜在的なところでは、悲痛なSOSとして、作品のコメディタッチに「救い」を求め、すがっているのではないだろうか?
この様に考え、感じている。
この部分だけでも読んでほしい
http://chikyuza.net/archives/61245
「今の左翼にはネトウヨと「お友達になれる」ほどの度量、庶民の中に入っていける度量が必要だと思います。」
植草ブログにても繰り返し
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/318-a23c.html
「誰かが変えてくれるから私たちが変える」へ
この言葉を引用している。
是非、<中野@貴州>さん自身が、主題的に提案を続けて欲しいと感じている。
ネトウヨとなれ合う、「お友達になれる」までは、望まないが、庶民の中には入らねばならないと感じている。
どうも「ちきゅう座」においてもオレガー、オレガー、その大企業下請け工場としての大学の在り方、文化人の悪癖の中で、自身を打ち破れない状況が、長らく続いて来ている様に感じられてならない。
結局は、それは、現体制、「安倍政治」の下僕に留まっているのであり、一人一人の「独立」そして、全ての社会主義的人間解放事業への着実なる積み重ね、亡霊を現実のものへとしていく事は今からでも明日からでも即座に可能であるのだと言う事に辿り着けないでるもどかしさが、『暗殺教室』的現状としてのコメディ、二度目の喜劇としての現在でもあるのだろう。
今、考えたいとしている事は、
非正規労働者が、4割を占めたと言われながらも、官僚や病院・老人施設グループ、大企業就職者、証券、銀行などなどの下僕労働の中での「知性」「良心」運動の体現者、「アベ政治を許さない」哲理に辿り着いている人々はどの位結集されているのかの分析、統計としての意識と無意識である。
大学に残る事は、モナトリアムを延長する事であり、既に、夏目漱石の「こころ」の映画化、松田優作の作品の中で、述べられている様に、
「学士だ作家だと言っても世捨て人でしかない。社会に出られない、出ていない、戦ってはいない」
その屈辱を自身のものとしているものがどれだけいるのだろうか?
この問いに戻るのである。
その屈辱、「世捨て人」とされている場を、隔離されたる幽閉、3年E組状況は、何処にでもあると言うかつて、ミッシェル・フーコーが、格闘した『監獄の誕生』『狂気の歴史』
または、『アマデウス』のサリエリ的状況に置かれている1億総情報弱者から認知症状況としての「不毛」なる「商品、物象化」に取り込まれているそれを何とするかとの格闘を決意するしかない、ここに到達すべきであるのだ。
まずは、夏の参議院選挙までに何をしなくてはならないかである。
真の「知性運動」「良心運動」を活発化させていこう!
付録
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