那覇を離れる前日、「平和通り」に寄ってみる
- 2016年 7月 27日
- カルチャー
- 内野光子:歌人
那覇市の「国際通り」にあるホテルは2度目ながら、通りと交差する「平和通り」という名の商店街に入ることはなかった。立ち寄りたいと思いながら、いつもゆいレールの「牧志」から足早に通り過ぎるだけだった。
立 ち寄ってみたかったのは、私が、戦後の池袋の「平和通り」という商店街に育ったという単純な理由もあった。全国どこにでもある「平和通り」の一つとして、 那覇のそこにも寄ってみたかったのだ。しかし、何よりも、目取真俊の『平和通りと名付けられた街を歩いて』の「不敬文学」としての強烈な印象があったから である。
池袋の「平和通り」は、戦前は、西山町会と原町会の間にあったので「西原通り」と呼ばれていた。私の父は、1925年(大正14年)にこの通りに借地を求め、薬局を開業している。長兄が生まれる前年でもあった。1945年4月14日未明、東京山の手空襲で焼け野原になったが、1946年の春には、その焼け跡に、同じ地主さんから借地をして、バラックでの薬局を再開している。私が母たちと疎開先から池袋に戻ったのは、その年の夏だった。西口の闇市も邦映座も、東口の人丗坐も巣鴨刑務所も知っているし、中学校は都電の17番で通っていた。私は1970年代の初めに生家を離れていて、いまでは時折、義姉と姪の家族が住む小さなビルを訪ねるだけだが、平和通りは、昔のにぎやかな面影はなく、不動産屋・コンビニ・飲食店と雑居ビルが立ち並ぶ街になってしまった。
那覇の「平和通り」の沿革は、目取真俊の『平和通りと名付けられた街を歩いて』にも詳しいが、目取真は1960年生まれなので、敗戦直後の様相は、聞き書きや記録によるものだろう。
那覇市立歴史博物館資料より
小 説の概略は、以下のように記憶している。夫は戦死し、幼いわが子を避難先のガマで亡くした主人公の女性は、この平和通りで露天商を営み、苦労して子供を育 ててきた。そして、仲間の露天商たちの結束にも大きな力となってきた彼女は、今でいう認知症にかかって、平和通りを徘徊しては、少し悪さをしているとの噂 もありながら、かつての仲間たちや家族には見守られながら暮らしていた。その家に毎日のようにやってくる男がいて、そのお年寄りを施設に入れるか家から出 ないようにと言い含めていく。迷う息子夫婦やその理不尽さを、孫の少年の目を通して描かれる。そして、迎えた皇太子夫妻の沖縄訪問(1983年7月の第19回 献血運動推進全国大会への出席を背景にしている)、その当日、息子は悩んだ末、母親を家の座敷に閉じ込めるため戸板に釘を打つ。しかし、母親は、皇太子夫 妻の車列に飛び出してきて、夫妻が乗る車のフロントガラスに汚物にまみれた手の跡を残したのである。息絶え絶えになっている祖母を見つけた孫の少年が背負 い、バスに乗り、山へと出かける。その背に、冷たくなっていく祖母を感じながら歩き続けるところで小説は終わっていた。このラストには、涙をこらえきれな かったことを思い出す。小説の中の「あの沖縄戦で、あれほどの血を流したのに、まだ、献血せよというのか」との主旨のセリフも記憶に残るものだった。初出 は、1986年12月の『新沖縄文学』だが、私は『目取真俊初期短編集 平和通りと名付けられた街を歩いて』(影書房 2003年)で読んだ。
現在の「平和通り」は、やはり観光客で混んでいた。ほんとうは、奥まで進みたかったが、先が急がれ、途中で引き返した。入り口近くの醤油屋で、塩醤油の小瓶を買った。
醤油屋さんは入って左側
初出:「内野光子のブログ」2016.07.26より許可を得て転載
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