民進党の責任は重大だ―後遺症が残る都知事選
- 2016年 8月 1日
- 時代をみる
- 民進党田畑光永都知事選
暴論陳説メモ(146)
昨日、投開票が行われた東京都知事選挙の結果は大方(と言っても新聞各社の「本社調査」だが)の予想通り、自民党を飛び出して「反自民」の仮装を被った小池百合子氏が都知事の座を射止め、自民・公明両党の欽定候補に担がれた増田寛也氏が次点、反自民・反安倍政治の旗を掲げて、野党4党の推薦を受けた鳥越俊太郎氏は3位に止まるという、われわれの立場からすれば惨憺たるものとなった。
1人の知事を争うのに、自民党が実質2人の候補を出すという、こんな願ってもないチャンスをものにできなかったどころか、票数でも2人の後塵を拝したとあっては、安倍政治の一日も早い終焉を望む人間としては口にする言葉もない。
この結果をどう考えたらいいのか。最大の責任は野党、それも最大野党である民進党にあると私は考える。候補者選びが参院選と重なったため、適切な対応ができなかったというかもしれない。しかし、そんな言い訳は通用しない。私に言わせれば、民進党は今、自分たちが置かれている立場をまったくわきまえていないとしか見えない。
この党の前身である民主党は直近の衆院選に連敗し、それもぼろ負けといっていい負け方で安倍自民党に名をなさしめた。2009年に「自民党政治ノー」の声を民主党政権に託した多くの有権者の思いを霧消させることになった原因はどこにあったのか。行政運営の不慣れに加えて、小沢一郎氏の政治資金問題への対応で党内がごたごた続きであったからだ。首相を務めた鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦の3氏も、その下で閣僚その他政府のしかるべき役職についた人々もほとんど「政治」をしたという実感も味わえないうちに政権から引き離されたのではなかったか。
そして、有権者の胸中に「やっぱり民主党じゃだめだ」「野党に政治は任せられない」という思いを募らせてしまった。それが今なお安倍政権への追い風となっているのだ。
だから民進党にとって一番大事なことは、政党として有権者の信頼を回復することのはずだ。ところがここ数年の民進党(民主党)はなんとか国会での数合わせで、もう一度政権に近づきたいとあがいているだけだ。政策となると、アベノミクスだろうと、安保法制だろうと、党としてきちんと対案をまとめて対峙することができず、その時々に反対論らしきものを急ごしらえして、あとは言葉のやり取りで対決ムードめいたものを演出して形をつけてきただけであった。
先ごろの参院選においても、改憲阻止を錦の御旗として担いでいたが、党内は改憲阻止でまとまっているわけでないことは天下周知のことだ。
そういう民進党にとって、今度の都知事選は偶然とはいえ千載一遇のチャンスであった。東京都はその規模からいって、民進党が知事を獲得すれば、政権を担える党としての信頼を回復する場として十分なものであった。民進党都政が1つでも2つでもこれまでの都政を刷新して、成果を上げれば、民進党の対する国民の見方も変わったであろう。
確かに東京都議会においては、民進党は小会派にすぎず、民進党知事が誕生しても自民・公明の大勢力を向こうに回しての都政運営は容易ではなかったろう。しかし、幸いなことに都議会と都知事はそれぞれ選挙で選ばれるのであるから、与党会派は小さくとも知事は議会と対等の立場で対峙できる。
結論を言えば、このチャンスを逃さずに昼夜兼行で都政ビジョンをまとめ、岡田克也代表が都知事選に立候補すべきであった。岡田氏は次期代表選に出馬しないそうだが、それならなおさらみずから都知事選に出てもよかったではないか。
しかるに民進党には舛添知事辞任が確実になり、選挙近しとなっても、よし東京で決戦!というムードはまったく感じられなかった。それらしき国会議員の名前が挙がっても、とても勝機のある人物とは見えず、いわゆる知名度のある議員はどこかメジャーリーグからマイナーリーグに移るのを忌避するような態度で出馬を拒んだ。
その挙句が、突如、出馬する気になった鳥越氏を「やれありがたや」とばかりに野党4党推薦候補として担ぐという安易な道であった。民進党にしてみれば、これで勝てればもうけもの、負けても試合の形がつけばそれでよし、ということであったろう。そんな腹の内は都民には見え見えだった。そして反自民を標榜する野党は一蓮托生、実態よりもさらに矮小化された姿をさらけ出す結果となった。
鳥越氏にも問題がある。選挙ではどうしてもいわゆる知名度のある人間が有利である。そして現代では知名度はメディアを通じて形成される。偶然、メディアに目を付けられ、露出が増えた人間が有名人となり、あたかも宝くじの当たり札を拾ったように、選挙を通じて各級議員や知事、市長といった役職にそれを両替えする形が普遍化している。
ある選挙で選ばれるべき人間に必要な資質とメディアに重宝される人間の資質は別物であるはずなのに、それが流用されるのはいいことではない。知名度のない人間には大きな不公平が押し付けられる。だとすれば、すくなくともメディアで育った、メディア内部の人間はその流用には慎重さが求められなければならない。
つまり、メディアで得た知名度を選挙に利用するなら、知名度は別にして、自分がいかにその選挙で選ばれるべき資質を備えているかをきちんと有権者に説明することが必要だと私は考える。都知事に選ばれたいのなら、どういう都政を目指すのかを具体的にまとまった形で提示しなければならない。
その意味で、今回の鳥越氏の立候補はあまりに安易であった。氏自身が「突如の決意」と認めているのだから、当然ながら具体的な政策はなにもなかった。選挙公報には大きな活字で「あなたに都政を取り戻す。」と横書きされていたが、その「あなた」は東京には1000万人以上いるのだ。そしてそれぞれが都政に注文を持っているだろう。誰のどんな注文にこたえるのか、その焦点が氏自身にも定まっていないからこういう文章で逃げるしかなくなる。しかし、そんなからくりは誰の目にも見えるものなのだ。これで投票用紙に名前を書いてもらえると思ったとしたら、知名度が生む「驕り」という副作用もまた大きいということになる。
それにしても今回の都知事選の票数は、憲法改正をもくろむ安倍政権にとっては、最後の難関である国民投票にも希望を抱かせはしないだろうか。後遺症を恐れる。
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