紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(3)40年ぶりの法然院へ
- 2016年 12月 27日
- カルチャー
- 内野光子
翌朝は、晴れる予報だったのに、すっきりしない空模様だった。今日は、南禅寺から北へ向かい、法然院を訪ね、小泉苳三の墓参を予定。小泉苳三(1894~1956)は、私が同人になっている短歌結社誌『ポトナム』を1922年に創刊した歌人である。私が入会した1960年には、すでに故人になられていたので、お会いしたことはない。歌人であると同時に、短歌史、短歌関係書誌の研究者でもあった。その収集歌集・歌書は、立命館大学図書館の特別コレクション白楊荘文庫に収蔵されている。私も一度ならず利用させてもらっている。そして、墓地の在る法然院での11月の苳三忌の墓参・歌会には二度ほど参加、1975年の歌碑の除幕式にも参加したが、その後、墓参に来ることもなかったのである。今回はそんな不義理を詫びたい気持ちもあった。
南禅寺から永観堂へ
東西線の蹴上で下車、地上に出てすぐにトンネルがある。矢印に沿ってしばらく歩き、金地院の門を過ぎると、南禅寺の中門にぶつかる。
蹴上のトンネル、上にはインクラインが通る。この入り口には、何やら文字があったのだが、読めないままくぐり抜けた。あとから調べると、「雄観奇想」とあったのである。
「雄観奇想」とは「素晴らしい眺めと思いもよらない考え」ということで、疎水工事を計画した当時の北垣国道京都府知事の揮毫とのこと、反対側には「陽気發處」の言葉が掲げられているとのことだが、私は気づかず通り抜けた
南禅寺の立派な三門への階段をのぼると見えてくるのが法堂である。さらに奥には、庭園で有名な方丈がある。その奥には、圧倒的な存在感を示すアーチ型で支えるレンガ造りの水路閣がある。琵琶湖疎水工事は5年の年月をかけて1890年に完成、工業、農業、防火用水などの確保を目的に、やがては、水力発電の強化と水道用水確保に利用され、現在も上水道として利用されている。当時の府知事と若きエンジニア田辺朔郎による日本の近代的建造物の典型でもあるのではないか。そのわきには、天竜寺、西芳寺の庭園と並んで京都の三名園とも記されている亀山天皇の離宮、南禅院なのだが、残念ながらパス。
法堂の香炉から三門を望む
水路閣はどこから見ても、その偉容に圧倒され、築いた人々の心意気が感じられる
先を急いで永観堂へと向かう鹿ケ谷通は、静かなお屋敷町のようだ。東山中学校・高校があり、バスケットの強豪校らしく、優勝などの垂れ幕が賑やかである。近くには、現在は休館中の野村美術館もある。
左に見えるのが野村美術館、思わず迷い込みたくなるような道
永観堂へは、南門から入って中門まで進んだ。かつて京都のひとり旅にのめり込んでいた頃、「みかえり阿弥陀」の名に魅せられて訪ねたことのある永観堂である。拝観するには、境内も広いし、時間もかかりそうである。迷いながらもここまでとし、総門から出ることに。
永観堂総門
真如堂へ
ふたたび鹿ケ谷通を進むと、「泉屋博古館」という美術館、「せんおく」と読み、住友コレクションの収蔵館らしい。野村と言い、住友と言い、「メセナ」と言えば、格好いいけれど、なんだかな、の思い。この辺りからそろそろ白川通に出て、金戒光明寺に向かいたいと、左折した。宮前橋を渡ったところで、右か左かを迷い、通りがかりの女性に訪ねると、いともあっさりと「真如堂だったら通りを渡ったところを左に入って、道なりに」と言われた。たしかに、前方には大きな森が控えていた。やがて山沿いの細い道を進んでいくと、さらに、細く険しい上り坂になった。苦しい、息苦しくもなって、立ち往生は、夫は心配になって振り返る。「あと20メートル頑張って」などの立て札があったりする。ようやく登り切ると、街が見下ろせる道に出た。両側には、家が立て込み、真如堂というわけではない、と思った矢先に、広い坂の入口があった。汗びっしょりのところ、雨もぽつぽつ落ちてきた。ともかく休憩所のベンチになだれ込む。目の前には立派な三重の塔があるではないか。いったいあの心臓破りの坂はなんだったのだろう。そういえば、あの坂の写真は一枚も写していなかった。地図を眺めると、おそらく、丸太町通の岡崎神社の方から金戒光明寺の境内を通ればこんなことはなかったのだろうと。
法然院へ、ようやく墓参を果たして
ようやく人心地ついたので、白川通からは、バスで銀閣寺道まで出た。お目当ての「おめん」にて昼食をとった。いよいよ、哲学の道に入ろうと思った矢先、小雨ながら降り出したので、帽子を持たない夫は透明傘を購入、「法然院まで行くなら、哲学の道にはたくさん橋があって分かりにくいので、銀閣寺にぶつかったら右に曲がった方がよい」との、店員さんの勧めにしたがった。山沿いの裏道、途中道路工事にもぶつかりながら、ようやくたどり着いた法然院。まず、寺務所に小泉家の墓地の場所を尋ねなければならない。数回訪ねているはずなのに、記憶がない。たしかに40年ぶりなのである。墓地と歌碑の場所を教えていただいた。谷崎潤一郎や西田幾多郎のお墓のある墓地とは違う「新墓地」の方だった。歌碑の前に立って、ようやくかつての除幕式のことがかすかによみがえるのだった。墓参を済ませたころには、雨も上がっていた。これで、ようやく念願果たして京都の旅も終わり、安堵したのだった。
川沿いの哲学の道ではなくでなく、銀閣寺に向かう
新墓地の入り口に、1975年11月建立。「あまつたふ月よみの光流れたりしらしらとして遠き草原 苳三」
あたらしい塔婆は、今年11月20日の苳三忌墓参の折のもの
歳晩の静かな法然院、新年を迎える準備だろうか、落ち葉を集める人影のみだった
1975年11月24日、歌碑除幕式の集合写真、ポトナムの皆さんの若かりし頃
京都駅には、予定より早く着いたので、1時間ほど早い「のぞみ」に変更。新幹線改札の近くにあった「イノダコーヒ」店、寄ってみたかったのだが、つぎの機会に取っておくことに。
初出:「内野光子のブログ」2016.12.26より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/12/40-ca60.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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