ヒロシマを描く―四國五郎とガタロの絵
- 2017年 11月 8日
- カルチャー
- 髭 郁彦
9月の終わり、後期の講義の最初の日だったと思う。「フランス語史」というタイトルの自分にとっても、多分、学生にとっても詰まらない講義を終え、私はとても疲れていた。警備員がいつも歩哨のように見張っている校門を急ぎ足で出て、向かい側の道に素早く渡った。しばらく歩くと、ギャラリー古藤という小さな画廊が目に入った。画廊の前には「四國五郎・ガタロ師弟展」(2017年9月23日 (土) から10月22日 (日) まで開催された) と書かれたフライヤーが貼られている。名前の知らない二人の画家。「ガ + タ + ロ」という音が少しだけ引っ掛かった。疲れているとき、私はよく、ある建物に無意識的に入ってしまう。その時も何故かは判らずに画廊の入り口で入場券を買い、広くはない画廊の中にいつの間にか入っていた。
入り口近くのパネルを読んで、四國五郎 (1924~2014) は峠三吉の『原爆詩集』の初版の表紙の絵を描いた画家であり (この版はガリ版印刷であった)、長年、広島の街を描き続けていたことが判った。ガタロ (1949~) は四國を師と仰ぎ、清掃員をしながらアウトサイダー的存在性を持つオブジェに注目した独特の絵を描いている画家である。小さな画廊に展示された二人の作品で、最初に目についたものは四國が描いた「相生橋」というタイトルの風景画だった (この橋が原爆投下目標であったことも注記しておこう)。向かって右側に本川沿いに広がったバラックの家が立ち並び、その向こうに相生橋が見える絵である。河川沿いにあった街並みが「原爆スラム」と呼ばれていたことは後で知った。次に目を引いたのはガタロが描いたモップや棒ズリなどの清掃具の絵だった。決して緻密でも、構図がいいとも思わないが、迫力があり、強いメッセージ性を感じた。そこに展示されていたガタロの絵で、大きさと迫力で言うならば「途上の牛」の方が遥かに強烈な印象を見手に与えるかもしれないが、私はそれよりも清掃具を描いた何枚かの油絵とスケッチが気になった。もう一つ気になったものがあった。それは絵ではなく、四國がシベリア抑留時代に着ていたというズタ袋で作ったボロボロのコートだ。四國は終戦のとき満州にいて、ソ連軍の捕虜になり、シベリアに送られ、1945年から1948年まで約三年間強制労働をさせられ、帰国した経験があったが、強制労働時代に着ていたコートである。このコートを着て四國は故郷の広島に帰ってきたのだろうか。ボロボロのコートを着た四國が見たものは、何もなくなってしまったグランド・ゼロとしてのヒロシマ。私はそんな想像をした。
このテクストでは今述べた「原爆スラム」と「清掃具の絵」、それに加えて、戦後間もない頃、広島の街角に何枚も貼られていた反体制的なメッセージが書かれていた「辻詩」という三つの問題について書いていこうと思う。なぜなら、これらの問題はどれもが戦争と深く関係するものであるが、いつかはじっくりと考えてみようと思っていながら、私が今までまとまった時間を取って真剣に体系立てて考えたことがなかった問題だからである。もしも今何かを書かなければ、また長い期間これらの問題を考えずに時間だけが流れてしまう。そう思い、私は筆を執った。
原爆スラム
NHKが今年の6月に放送した「「原爆スラム」と呼ばれた街」というドキュメンタリー番組によると、この街は戦後すぐの頃から1978年まで存在していた。四國が描いた「相生橋」の額縁は原爆スラム解体によって生じた廃材で作られている。展覧会場では気づかなかったが、そこには「備忘ノタメ」という言葉が墨で書かれている。このドキュメンタリーの中で四國五郎の息子である光がそう語っていた。本川の河川敷。無許可で、建てられた家は年を追うごとに増えていき、最盛期には千軒以上のバラックの家が立ち並び三千人以上の人が住んでいた。そのすべての人々が被爆者ではなかったが、そこには多くの被爆者とその家族がいたことは確かであり、原爆投下がなければできなかった街であることも厳然とした歴史的事実である。ドキュメンタリーの冒頭、都市計画の下に破壊され、何もなくなった河川敷で、広島市民がかつてそこに街があったことも知らずにバーベキューをする姿が映し出されていた。番組を見ていて私はふと、以前、『過去の物語は誰が作り上げるのか?』というテクストを書くために読んだ、こうの史代の漫画「夕凪の街」の主人公である皆実の家があった場所がこの原爆スラムであったことにその時初めて気づいた。「あの街が原爆スラムだったのだ。」自分がそれとは知らずにすでに知っていた街。そのことに気づいた私は妙な感動を覚えた。ある事柄を理解するために、多くの偶然と時間が必要な場合があるのだ。四國の絵と「夕凪の街」が結び合わされたことによって、私の想起空間は開かれていった。
四國五郎は広島の街を描き続けた画家である。原爆が落とされたヒロシマだけでなく、被爆後の広島を死ぬまで描き続けた。彼は先ほども少し触れたが、広島市に生まれ、1944年に徴兵され、満州に行き、そこでソ連軍の捕虜となり、シベリアで強制労働を行い、1948年に故郷の広島に帰った。しかし、故郷の街は以前の姿ではなかった。原爆による破壊は凄まじく、かつての面影はまったくなかった。それだけではなく、弟の真登が原爆投下の二十二日後に急性放射線障害で死んでいた。四國について詳しく書かれた著書はほとんどない。去年やっと永田浩二が『ヒロシマを伝える:詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』で、ある程度まとまった四國の個人史を書いた。だが、タイトルにあるようにヒロシマの原爆問題に関係する作家や画家たちの紹介に多くのページが割かれ、四國自身に上手くフォーカスが当てられておらず、散漫な著作となっている印象は拭いきれない。それでも彼に関する貴重な情報が書かれている。その中の一つに、ガタロが語った、「四國さんは手で思考するひとだったように思えます。目に映るもの、眼球に映るものを描く」という言葉がある。シベリア抑留時代も、帰国して広島に戻った後も、とにかくそこにある現実を描き続けた四國の人生を的確に示している言葉である。しかし、何故彼は広島を描き続けたのだろうか。
「今ここにあることを残すことが大事なんだ。わかっている人間がやらなきゃならない。そういうことを次の世代に引き渡していくことが大事なんだ」と四國はよく言っていたと永田は書いている。四國が広島を描き続け理由が端的に表されている。今を描くためには立ち止まらずにずっと描き続けなければならない。あの日のヒロシマを描くことも重要であるが、あの日からどうやって広島の人々が立ち上がり、生きてきたかを語るためにはこの街を描き続ける必要があることを彼はよく知っていたのだ。廃墟となり怨嗟に溢れたヒロシマを描くことだけではなく、あの時から今に至るまで続いている広島の生きた姿それを描き続けることの重要性を彼は強く感じていたのだ。四國の描いた「相生橋」の額縁に書かれた「備忘ノタメ」という言葉も、歴史的変遷の中で、人々が生きてきた軌跡を追うという使命を感じた四國の生涯に亘る責務が刻まれているのだ。彼の人生は広島に生まれ、ヒロシマを通過して広島へと展開していったものであった。
清掃具の絵
ガタロとは広島弁で河童のことだそうだ。ガタロは自分の名前としてこの河童を示す方言を長年使っている。広島で生まれ、被爆二世であるガタロ。彼については、2013年にNHKが制作した「ガタロさんが描く町―清掃員画家のヒロシマ―」の中で詳しく語られている。彼は30年以上も広島市基町の高層市営住宅で清掃員をしながら絵を描いている。彼の絵のモチーフで目を引くものはこのテクストの冒頭に書いた清掃具である。画面に強く描き出されたモップ、棒ズリ、雑巾といった清掃具。それは些末的で、注視されることがなく、汚れた醜いモノとして忘れ去られ、消え去っていくだけのモノである。しかしそれと同時にそれは権力に抵抗する土着的な力を宿した鎧のような存在でもあるのではないだろうか。あるいはまた、こうも言えるかもしれない。清掃具はガタロの生きる糧を得るための同士。彼の仕事を支えてくれる仲間。
ガタロは今述べたドキュメンタリーの中で、棒ズリについて、「僕が苛立って、ガ―ッと使うてもね、黙って立ってるでしょ。そのたたずまいに、あの、何も文句言わんわけですよ。最も汚い所を奇麗にする仕事をやっとって、何も文句を言わない」と語っている。棒ズリだけではなく、モップも、箒も、塵取りも、掃除に使う道具は皆文句を言わずに奇麗にするために一生懸命に自分の役割を担っている。その姿に自分を重ねながら、ガタロは清掃具を逞しく純朴に描いている。多くの人は掃除用具に美などを感じはしないだろう。奇麗にするためのものでありながら、汚いとさえ思っているかもしれない。そうであっても毎日、汚れを落とし、奇麗な世界を実現するために、掃除用具はここにある。ガタロはそうした用具が胸を張ってここに存在していると思っている。「奇麗にするためにあるものが醜いわけはない。」そう語るガタロ。
ガタロが何十年にも亘って描き続けているものがもう一つある。それは原爆ドームである。彼は四國と同じく自らが見た広島の日常の様相を描き続けているが、被爆二世のガタロにとっても原爆ドームは特別な意味を持っている。あの日から広島は被爆都市としてヒロシマと書かれるようにもなった。子供の頃から体の弱かったガタロ。それは父の被爆と関係がないとは言えないだろう。ヒロシマの悲劇を伝える原爆ドームの絵をガタロはこれまでに500枚以上、360度すべての角度から描いたという。赤レンガが剥き出しになった箇所について、「ケロイドのようになった」と語るガタロ。被爆ということが日常の中に入り込んでいなければ、こうしたイメージを抱くことは難しい。彼の内奥には多くの被爆者や被爆二世、三世と同様に、あの日に対する強い思いがある。そうした思いを抑圧してきた制度への怒りと権力者への反抗心を、彼の清掃具の絵の逞しさと重ね合わせることもできるのではないだろうか。ガタロも広島に生まれ、広島で生き、ヒロシマを抱えた画家であるのだ。それゆえ、四國を知ったガタロは広島の画家として四國を先生と慕い、四國もガタロを自分の跡を継ぐものと考えたのではないだろうか。
辻詩
画廊の展示作品を一通り見終えて、ご自由にお飲みくださいと書かれていた貼り紙を見て、ポットから紙コップにお茶を入れて、椅子に座ってそれを飲んでいると、二人の初老の婦人が話している声が聞こえた。「私、辻詩というものを初めて見たわ。」「広島の街角に立って、手早く絵を描いて、それを貼ると、見て読んだ人で、それを持っていく人が沢山いたんだって。」二人は私のすぐ後ろで話していた。「だから何百枚も描いても、残ったのは数枚しかなくて、あれがその一枚ですって。」私はその一枚の辻詩を目で探し、すぐに見つけた。「それでもいいんですって。絵を見てもらって、詩を読んでもらえれば、持って行かれてもよかったそうよ。」私は「辻詩」という言葉に興味が沸いた。
2017年1月25日の中国新聞朝刊に載った「「詩のゆくえ」第一部:峠三吉の遺産<中>」には、「辻詩は、社会への批判や反戦のメッセージを込め、詩と絵を一体化させて伝える作品。街辻の壁や電柱に張り出すため、そう呼ばれた」、という説明が書かれている。それゆえ辻詩は被爆問題だけを取り上げたものでも広島特有のものもなく、多くの都市で様々な社会問題を取り上げたものである。とくに朝鮮戦争当時は日本国内で多くの辻詩が街角に貼られていた。この記事の中でインタビューを受けていた丸木美術館学芸員の岡村幸宣の語った言葉は興味深い。岡村は辻詩に「記憶に刻まれる視覚的な力の強さを感じた」と述べ、さらに辻詩によって「絵と言葉を明確に分けることが芸術だとされてきた近代以降の枠組みにとらわれず、表現の本質を見詰め直したかった」と述べている。だが、辻詩は絵画と詩という芸術ジャンルを超えているだけではなく、美術館という近代以降に確立した特殊空間をも超えている。自分たちがそこで語り、働き、暮らしている街の片隅に、絵と詩が提示される。日常性の臭いを湛えた辻詩は、芸術作品という特権性が色濃く反映されたお上品な作品ではない。いつ登場するか予告されず、ゲリラ的に描かれ、権力者を痛烈に批判し、抑圧者や支配機構に激しく抵抗しようとする政治的、社会的メッセージを担ったテクスト。辻詩は上からの芸術ではなく、下からの芸術の可能性を追求した。
四國と峠三吉がこの創作ジャンルに注目したのは必然であったと言うこともできるだろう。なぜなら彼らが辻詩を広島の街角に貼っていた時代、日本はGHQの占領政策の下に統治されており、原爆に関する情報公開は禁止されていたからである。政府もマスコミもGHQに服従し、被爆問題には固く口を閉ざしていた。そうした統制を打ち破り、広島市民に真実を示し、原爆投下の愚行への弾劾、それに続いた悲劇への怒りの表出、犠牲者への鎮魂の思いを示した辻詩。こうした幾重にも複雑に絡み合った感情を抱きながら、四國五郎と峠三吉は彼らの作品を広島のあらゆる街角に貼って行った。ヒロシマを抱えてしまった二人の芸術家は広島の街角にいる市井の人々に向けて筆を執り、詩を語った。詩も絵も広島の人々と共にある。二人は固くそう信じていた。1953年に峠三吉が他界してからも四國はヒロシマのために、広島市民のために、そして、シベリアで死んでいった旧日本軍捕虜たちのために戦争の悪を告発する絵を描き続けた。
ヒロシマの問題はあまりにも重く、過酷なものだ。個人の意志も、願いも、人生も遥かに超えて、歴史に刻まれた悲劇である。広島の原爆投下機であるエノラ・ゲイの先導機ストレート・フラッシュの機長兼パイロットであり、原爆投下命令を行ったクロード・イーザリー少佐は、その命令を行ったことに対する罪の意識を生涯持ち続けた。しかし、核兵器の問題は個人の罪や良心の問題を遥かに凌駕するものだ。イーザリーとドイツの思想家ギュンター・アンデルスの往復書簡集である『ヒロシマわが罪と罰:原爆パイロットの苦悩の手紙』(篠原正瑛訳) の中で、イーザリーは、「(…)今日われわれは急テンポで一つの状況へ向かって突き進んでいるのではないかと、私は思います。すなわち、われわれ各自の思惟や行為に対する責任というものを否応なしに社会的な制度 (たとえば、政党とか、組合とか、教会とか、国家とかいった)に移管させられてしまうような、われわれの生き方について、どうしても再検討しなければならなくなるような状況へ突き進んでいるのではないか、ということです」と述べている。一人の人間の小さな行為が大量殺戮を生む。その罪はその人間が生涯かけても背負い切れるものではなく、また、そうした殺戮が企業、政治団体、宗教団体、国家といった組織の名の下に簡単に正当化されてしまう。
アンデルスは今挙げた書簡集に収められた「原子力時代の道徳綱領」というテクストの中でこうした状況を次のように語っている。「(…) それは、単なる、“行為への機械的な加担„、つまり、行為の結果からは目隠しされた“押しボタンだけの動作„という、行為そのもののもつ性格にもとづくものでもない。そうではなくて、それは、道徳的な理由にもとづいているのである。すなわち、大量殺人ということが今日ではすでに、われわれの想像力と感覚能力をはるかに超越した領域に属する行為となっていて、この領域では、われわれの想像力や感覚能力をよりどころにした制御力など、もはや効力をもってはいないのである。」そうであるからこそ、今ここで目の前にいる人々に大量殺戮の事実を、その後の被害者の苦しみと、加害者になった者の罪の意識を正しく伝え、語り続けていく必要性があるのだ。
日本は2011年にヒロシマ、ナガサキだけではなく、フクシマの原発事故という悲劇も経験した。核兵器だけでなく、原発も悲劇を招くことをこの国の人々は痛感したはずである。しかしながら、現在、この国で進行している事柄をじっと眺めると、忘れてはならないはずの原爆の記憶も、原発事故の記憶も次第に薄まっていき、一つの歴史的出来事として記録が残されるだけのものになろうとしているのではないかという疑問が沸いてくる。大江健三郎は『ヒロシマ・ノート』の中で、「広島はそれ全体がひとつの墓場だ、町のあらゆる隅々に慰霊塔がある (…)」と述べているが、これらの慰霊塔の意味は単なる歴史的な記念物といったものではないはずだ。一つの都市全体が「墓場」であることの重さをここに今生きている人々は真面目に捉えているだろうか。風化された記念碑が街の至る所にあるだけ。そう思ってはいないだろうか。そんな時代精神に抗うようにして存在する四國やガタロの絵を見つめていると、道行く見知らぬ市井の人に語りかけること、傷つきながらも立ち上がった一つの都市を描くこと、見捨てられた掃除具の中に強さと美しさを見出すこと、こういった行為にどれだけ大きな意味があるかということが判ってくる。
ヒロシマのあの日がなければ、二人の絵は生まれなかった。しかし、ヒロシマは広島としてあるだけなのではない。世界のあらゆる都市の中にはヒロシマの悲劇をもたらした悪魔の影が宿っているのだ。峠三吉は『原爆詩集』の中には次のような詩句がある。
声のない炎がつぎつぎと世界に拡がる
ロンドンの中に燃えさかるヒロシマ
ニューヨークの中に爆発するヒロシマ
モスクワの中に透(す)きとおって灼熱(しゃくねつ)するヒロシマ
世界に瀰漫(びまん)する声のない踊り 姿態(したい)の憤怒
ぼくらはもうぼくら自体 景観を焼きつくす炎
森林のように 火(か)泥(でい)のように
地球を蔽(おお)いつくす炎だ 熱だ
そして更に煉られる原子爆殺のたくらみを
圧殺する火(か)塊(かい)だ 狂気だ
ヒロシマの悪夢が世界のどこかで再現される可能性は今も限りなく高い。その可能性を考えずにわれわれは日々生きている。アンデルスはこの時代を“おそれることへの不感症の時代„と呼んでいる。しかしながら、四國の絵を見るとき、ガタロの絵を見るとき、われわれは忘れていた言葉を思い出す。それはイスラエルの諜報機関モサドに爆殺されたパレスチナの作家であるガッサーン・カナファーニが『ハイファに戻って』(奴田原睦郎訳) の中で述べている、「人間というものは、それ自体問題を体現している存在だ」という言葉だ。四國五郎とガタロの絵はその存在自体が問題を孕んでいる人間存在の重さと責務について、確かなはっきりとした声で語っている。私は、強く、そう感じた。
(付記:「四國五郎・ガタロ師弟展」は会場を変え、10月26日から11月26日まで横浜市青葉区にあるスペースナナで開催されている。)
初出:「宇波彰現代哲学研究所」2017.11.07より許可を得て転載
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