水俣公害の真の解決とはー石牟礼道子語録から
- 2018年 2月 13日
- 評論・紹介・意見
- 弁護士澤藤統一郎
石牟礼道子が亡くなって、各紙に追悼記事が満載である。昨日(2月11日)には毎日が、本日(2月12日)は朝日が社説で取り上げた。
毎日の社説は、「石牟礼道子さん死去 問いつづけた真の豊かさ」というもの。
「石牟礼さんの代表作『苦海浄土』は鋭く繊細な文学的感性で水俣病の実相をとらえ、公害がもたらす『人間と共同体の破壊』を告発した。1969年刊行の同書は高度経済成長に浮かれる社会に衝撃を与え、公害行政を進める契機ともなった。」
この解説はそのとおりではあろうが、言葉の足りなさがもどかしい。この社説が「苦海浄土」から引用する下記の一節がすべてを語って余りある。これを引用した社説子に敬意を表したい。
「『苦海浄土』の中で老いた漁師が語る。
『魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい』
天の恵みの魚を要るだけとって日々暮らすような幸福。今は幻想とも思える、そんな充足感をどこかに失ってしまった現代を、石牟礼さんの作品は見つめ続ける。」
この漁師の述懐の中に見えるものは、公害行政への批判とか資本主義経済構造の矛盾の指摘などというものではない。それをそれをはるかに超えた、文明そのものへの批判や人の生き方についての省察である。
朝日は「石牟礼さん 『近代』を問い続けて」というタイトル。
「虐げられた人の声を聞き、記録することが、己の役割と考えた。控えめに、でも患者のかたわらで克明な観察を続けた。
運動を支えるなかで、国を信じて頼りたい気持ちと、その国に裏切られた絶望感とが同居する患者らの心情も、逃さずに文字にした。『東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ』(苦海浄土 第2部)
権力は真相を覆い隠し、民を翻弄(ほんろう)し、都合が悪くなると切り捨てる。そんな構図を、静かな言葉で明らかにした。
…………
「水俣」後、公害対策は進み、企業も環境保全をうたう。だが、効率に走る近代の枠組みは根本において変わっていない。福島の原発事故はその現実を映し出した。石牟礼さんは当時、事故の重大性にふれ、『実験にさらされている、いま日本人は』と語った。明治150年。近代国家の出発が為政者から勇ましく語られる時だからこそ、作家が生涯かけて突きつめた問題の深さと広がりを、改めて考えてみたい。」
こちらは、文明論というよりは国家論となっている。
「東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ」は、沖縄の思いでもあろう。「本土に復帰すりゃあ、祖国の存(あ)るち思うとったが、そんなものはなかったなあ」と。
昨日(2月11日)の毎日社会面に、石牟礼道子語録があり、そのなかに、「水俣だって補償金は勝ち取りましたけれども、(魂の対話)という本質はつぶされていますから」という一節が見える。73年の荒畑寒村との対談中の言葉だというから、「水俣だって」とは、「足尾鉱毒事件ばかりではなく…」という意味だろう。しかし、同じことはあらゆる公害闘争でも、原発被害でも、戦後補償問題でも、冤罪事件でも、言えることだろう。被害者が求めているものは、「(魂の対話)」を通じての、人間としての尊厳の回復である。カネの補償で済む問題ではないのだ。
慰安婦問題をめぐる日韓合意も、石牟礼のいう「(魂の対話)という本質はつぶされている」事態の典型だろう。加害者側が、「最終的かつ不可逆的な合意」などとうそぶいている限り、被害者の人間としての尊厳の回復はあり得ない。いま、この問題解決のゴールは遠のくばかりだ。
(2018年2月12日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.2.12より許可を得て転載
〔記事出典コード〕サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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