「坂の上の雲」のどこが問題なのか?
- 2010年 6月 1日
- 評論・紹介・意見
- NHK醍醐聡
「坂の上の雲」のどこが問題なのか?(1) ~地元9条の会で講演~
今日、地元の9条の会(さくら・志津憲法9条をまもりたい会)からの依頼で標題のようなタイトルの講演をした。会の世話人からの事前の説明では、資料はA4サイズの用紙20枚までなら印刷するということだったので、これまでと比べ、資料調べと原稿の作成に時間をかけた。結局、A4サイズ14枚と年表1枚を準備して会場で配ってもらい、ドラマ「坂の上の雲」に関連した画像と追加資料をスクリーンに映しながら、1時間15分ほど話をした。
主催者によると、参加者は57名とのこと。私の話のあと45分ほど、質問、発言が相次いだ。「こんな(「坂の上の雲」のような)ドラマを制作し放送することの是非についてNHK内部で議論されなかったのか?」、「時の権力者は歴史の真実を伝える記録を残さないのが常だと心得ておく必要がある」、「いや、以前と比べ、最近のNHKは歴史ものについて踏み込んだ調査をし、優れた番組を放送している」、「戦争を始めるときにはいつも、『自衛のため』が大義名分に使われる。なぜ開戦にいたったのかについて私たちは歴史をもっとよく知り、これからに活かす必要がある」・・・・・。
集会のあと、近くのレストランに移動してお茶とケーキで1時間ほど懇親会。参加者は20名ほど。「坂の上の雲」をめぐって活発な議論が続いた。そこでは、学校時代、近現代史を学ぶ機会があまりにも少なかった、だから、明成皇后殺害事件などまったく知らなかったという人が多かった。
日頃、歴史や政治について会話をしたことのないご近所の方も多数参加されたので、いつもより緊張したが、これまでに自分で調べ、考えてきたことを身近な地域の方々に話し、議論を交わす機会を持てたことは大変ありがたかった。以下、3回に分けて、準備した資料を掲載しておきたい。
「坂の上の雲」のどこが問題なのか?~史実の偽造を拡散させるNHKの社会的責任~ 今日は、『坂の上の雲』をドラマ化し、放送することにしたNHKに問われる社会的責任を次の二つに分けてお話したいと思います。一つは、原作『坂の上の雲』に見られる史実――特に日清・日露戦争――の改ざん・黙殺を公共の電波を使って拡散させる責任です。もう一つは、NHKが、生前、原作の映像化を拒み通した司馬遼太郎の遺志に背いてまで原作のドラマ化に執心し、企画を推し進めた責任です。また、こうしたNHKの社会的責任と併せて、学校時代に近現代史を十分に学ぶ機会を得ないまま大人になった私たち自身がこれを機会に日韓関係史の視点から日清戦争以後、日本がどのような侵略戦争の道を歩んできたかを学び合うことができれば幸いです。
1 史実を改ざん・黙殺した原作の誤りを公共の電波で拡散させる責任
◆NHKの企画意図は時代錯誤◆
NHKは原作をスぺシャル・ドラマとして放送することにした企画の意図を次のように説明しています。
『坂の上の雲』は、国民ひとりひとりが少年のような希望をもって国の近代化に取り組み、そして存亡をかけて日露戦争を戦った「少年の国・明治」の物語です。そこには、今の日本と同じように新たな価値観の創造に苦悩・奮闘した明治という時代の精神が生き生きと描かれています。この作品に込められたメッセージは、日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれるに違いありません。(「坂の上の雲」ウエブサイト「企画意図」より)
確かに原作は秋山好古・真之兄弟と正岡子規の生涯を通して「明るい明治」、「少年のような国・明治」を描こうとした歴史小説です。しかし、秋山兄弟が歩んだ「坂道」は平和でのどかな道ではありませんでした。兄・好古は日露戦争において世界に名を馳せたロシアのコサック騎兵隊と対戦した陸軍第一師団騎兵第一大隊長であり、「名誉の最後を戦場に遂ぐるを得ば、男子一生の快事」(原作、第三分冊、文春文庫、289ページ。以下、引用の表記同じ)と書き残した滅私奉公の職業軍人でした。司馬は好古のこの言葉に対し「国家が至上の正義でありロマンティシズムの源泉であった時代のもっともロマンティックな思想」(第三分冊、289ページ)と賛辞を表しています。
しかし、個人が国家のためにあるのではなく、国家が個人のためにあることを宣言した戦後憲法の時代に、個人が国家に仕える滅私奉公に身を呈した職業軍人の足跡を称えた原作を「日本がこれから向かうべき道を考える上で大きなヒントを与えてくれる」と持ちあげて憚らないNHKの制作姿勢は時代錯誤も甚だしいといわなければなりません。
また、弟・真之は日露戦争で東郷平八郎連合艦隊司令長官のもとで作戦参謀を務めた人物であり、「筑紫などという小さなふねにのっているようなことでは、主決戦場にはのぞめない」として大艦に乗って主決戦場に向かうことを志願した職業軍人でした(第二分冊、66~67ページ)。しかし、その真之も被弾した兵士の肉片が船上を飛び交う旅順での激戦を体験して衝撃を受け、出家して自分の作戦で殺された人々を敵味方の別なく弔いたいと言い出した有様です。
「『作戦ほどおそろしいものはない』と真之はつねにいった。この人物は、軍人としてはやや不適格なほどに他人の流血をきらう男で、この日露戦争がおわったあと、『軍人をやめたい』といいだした。僧になって、自分の作戦で殺されたひとびとをとむらいたい、というのである。海軍省はあわてて真之に親しい人々を動員して説得にかかったが、真之はきかず、一時発狂説が出たくらいであった。ともかくしかし海軍省としては真之に坊主になられては迷惑であった。かれのいうことを海軍が道理としてみとめれば、一戦争がおわるたびに大量の坊主ができあがることになる。」(第三分冊、257ページ)。
(注)ドラマでは、この部分は次のようにナレーションでさらりと伝えられただけでした。
「敵の巨弾は『筑紫』の左舷に命中し、爆発しないまま中甲板をつらぬいて右舵側とびだしていった。あたりは肉や骨がとび散り、血だらけになっている。・・・・・このとき、真之が人の死からうけた衝撃は人一倍深刻であった。」(第4回、日清開戦)
このような原作の中身に照らせば、秋山兄弟を「希望にみちた坂道」を「ひたむきに登った」人物と文学的修辞で賛美し、彼らの生き方を美化してよいのでしょうか? 朝鮮民族から見れば、日清・日露戦争は自国の主権を根こそぎ奪った韓国併合に連なる屈辱の歴史であり、そうした戦争における秋山兄弟の武勲を「愛国的栄光の表現」(第八分冊、344ページ)とみなし、両戦争を「民族的共同主観のなかではあきらかに祖国防衛戦争だった」(第八分冊、360ページ)と言って憚らない原作を韓国併合100年を迎えたこの時期に3年間にわたって公共の電波に乗せて放送するNHKの歴史認識の歪みと責任意識の欠落は計り知れません。
以下では、原作『坂の上の雲』が描いた日清・日露戦争の記述にどのような誤り、史実の黙殺があるかを具体的に説明し、NHKがそうした史実の歪み・黙殺をドラマではどのように扱ったかを見ていきたいと思います。
◆日清戦争を「受け身の」「祖国防衛戦争」とみなす史実のねじ曲げ◆
司馬は原作の中で日清戦争の原因は朝鮮に対する宗主権を死守しようとする清国から朝鮮の独立を守るためだとか、沿海州、満州を制圧し、その余勢をかって朝鮮も支配下に置こうとしたロシアのアジア進出が地理的に日本にとって脅威となるのを恐れ、ロシアの南下を阻止しようとして起こった「祖国防衛戦争」とみなし、「清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった」と記しています。また、日露戦争についても「日本側の立場は、ぎりぎりの防衛戦であった」と述べています。
「そろそろ、戦争の原因にふれねばならない。原因は朝鮮にある。といっても韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとすれば朝鮮半島という地理的存在にある。・・・・・清国が宗主権を主張していることは、ベトナムとかわりがないが、これに対しあらたに保護権を主張しているのはロシアと日本であった。・・・・・朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の強国にとられた場合、日本の防衛は成立しないということであった。・・・・・その強烈な被害者意識は当然ながら帝国主義の裏がえしであるにしても、ともかくも、この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。『朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ。』というのが日本の清国そのほか関係諸国に対するいいぶんであり、これを多年、ひとつ念仏のようにいいつづけてきた。」(第二分冊、48~49ページ)
「韓国自身、どうにもならない。李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった。」(第二分冊、50ページ)
「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることにはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったことはまぎれもない。」(第三分冊、182ページ)
ドラマの第1部では「祖国防衛」という言葉こそ使われませんでしたが、第三回「国家鳴動」の中では旅順、大連といった良港がある遼東半島制覇を虎視眈々と狙うロシアの動きをナレーションで語らせ、陸奥宗光、川上操六らの朝鮮派兵論を抑えようとした伊藤博文を場面の主役に据えて、日本がいかに開戦回避に努めたかを印象づける映像を流しました。そして、「日本はこの朝鮮半島を露清両勢力から独立した地帯にすることを国防の主眼に置いていた」というナレーションを挿入しました。また、日清戦争開戦にあたっての日本の宣戦布告は「国際法にてらしてことごとく合法であることがわかった」というナレーションと東郷平八郎の言動を併用して、日本がいかに国際法を遵守してフェアに戦ったかを印象づけようとしました。
しかし、史実はどうかといえば、1894(明治27)年5月31日に大規模な東学農民の蜂起に直面した朝鮮政府が清国軍に出兵を要請したとの情報を受けて6月2日に開かれた閣議で、参謀総長・次長を閣議(総理大臣・伊藤博文)に招いて出兵を決定しました。その時、派兵の大義名分とされたのは1882(明治15)年に朝鮮との間で交わした「済物浦条約」を拠り所にした日本公使館と居留民の警護ということでした。しかし、閣議決定を受けて混成第九旅団が仁川に到着した時には朝鮮政府軍と東学農民軍の間で和解が成立し、農民軍は地方へ撤退を始めていたため上記の大義名分は失われていました。現に、1894(明治27)年6月9日に海兵隊を連れて京城に帰任した公使大鳥圭介は朝鮮国内の状況が思いの外平穏であることを知り、増派を思い止まるよう繰り返し本国政府に打電しました。
「同公使が京城に入るや、既にその本国出発の時に予想せし所と違い、朝鮮国は意外に平穏にして清国派出の軍隊も牙山に滞陣するまでにて、いまだ内地に進行するに至らず。・・・・・同公使は頻りに政府に電報し、当分の内余り多数の軍隊を朝鮮に派出し朝鮮政府および人民に対し特に第三者たる外国人に向かい、謂われなきの疑団を抱かしむるは、外交上得策に非ざる旨を勧告したり。」(陸奥宗光著・中塚明校注『新訂蹇蹇録』1983年、岩波文庫、45~46ページ)
また、日本政府は清の本国政府と汪公使の間の暗号電報を解読して、清は朝鮮政府の要請を受けて撤兵する意図があったことを察知していました。それでも日本は「外交にありては被動者たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せん」(陸奥、前掲書、47ページ)とする方針に従い、「朝鮮の中立化」を標榜して清が一方的に朝鮮から撤退した場合、派遣された日本軍は朝鮮残留の名分を失うことを危惧し、派兵部隊の長期駐留を正当化する口実を作るのに苦慮したのでした。
「密電之趣ニ依レハ、彼(清)ハ〔日本との]衝突ヲ避クルヲ得策トスルノ意充分相見候上ハ、殆ント猶予スヘカラサル之情況ト被察候故、可成速ニ〔清公使と〕御開談相成候而ハ如何。昨日小生ノ〔汪への〕回答ヲ得タル上ノ〔清の〕決意ト察セサルヲ得ス。彼ハ我ト同時ニ撤兵セン●ヲ臨ムト云ト雖、若シ我ニ関セス撤シタルトキハ〔日本軍は〕充分手持無沙汰ノモノニハ無之乎、御考慮可被下候。」(高橋秀直『日清戦争への道』1995年、東京創元社、352ページ)
(1894(明治27)年6月9日付け、伊藤博文が陸奥宗光に送った書簡)
「東学党鎮圧ノ事全ク支那兵ノミノ手ニナリ、我ガ兵ハ一発モ打出サズ帰国候様ニ相成候ヘバ、大体上至極ノ事ト存候ヘ共、邦内ノ議論ハ何トナク不平ヲ起シ種々ノ非難ヲ捏造スベシ。・・・・・何トカシテ朝鮮政府ヨリ援兵請求セシメ候手段有之候ヘバ頗ル妙カト存候。・・・・・然ルニ万一ニモ何モカモ行ハレズ我兵ハ空シク帰国スベキトノ事ニナレバ、此際従来『ベンジンククエーション』ナル日韓交渉事務ヲ一切片ケ候様ニ御談判相成、少シク強ハモテニ御遣リ付被成テハ如何。」(高橋、前掲書、340~341ページ)
そこで、大鳥公使が本国政府に提案したのは、日清両国が共同で朝鮮の「内政改革」に当たるため、当分、派兵部隊を朝鮮に駐留させるという案、すなわち、「東学党鎮定後、此機ニ乗シ朝鮮政府ヲ革新スルノ機必失スヘカラス、此政策素ヨリ清国政府ト計画シテ相与ニスル」という策略でした。しかし、朝鮮の宗主国を自認する清が「日本と共同で」朝鮮の内政改革にあたるという提案を受け入れるはずもありませんでした。
そこで、第2の策として大鳥公使が考案したのは、朝鮮は清国の属邦なのかどうかを清に質すのではなく、朝鮮に質すという策略でした。つまり、1876年に朝鮮政府が日本と結んだ江華条約では朝鮮は「自主の邦」と謳われていました。にもかかわらず、朝鮮が清の属国というのではおかしいではないか、それなら清と手を切れと朝鮮に迫る「強て」の理屈が成り立つというわけです。朝鮮に対する武力行使を躊躇っていた伊藤博文もこうした狡猾な策略に関しては「最妙、・・・・・大鳥強手段一着手ト被察候」(陸奥宛書簡)と賛同しました。
かくして、大鳥公使は1894(明治27)年7月20日に、朝鮮政府に対し、清との宗属関係の破棄を迫るに等しい上記のような詰問書を送り、同月22日までに回答するよう迫ったのです。中塚明氏が発掘した福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の『日清戦史』草案にはこの間の経緯が次のように記されています。
「・・・・本日該政府〔朝鮮政府のこと〕に向かって清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を22日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君〔李是応〕を推して入闋せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山清兵の撃攘を我に嘱託せしむるを得べし、因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。」
(7月20日、大鳥公使の意向を受けて、本野一郎参事官が第五師団混成旅団長大島義昌少将を訪ねて手渡した文書の一節。中塚明『歴史の偽造をただす~戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』~197年、高文研、44ページ)
しかし、2日後を回答期限として、清と手を切れと言われても朝鮮政府にとっては無理難題で、日本政府を満足させる回答がなかったのは当然でした。大鳥公使や日本政府もそれを織り込み済みだったからこそ、本野参事官はその先を見越して王宮占領作戦を立てていたのです。
この王宮(景福宮)占領計画はこれまで日本の公式の外交文書や日清戦史では、「日韓両国軍の偶発的衝突事件」と伝えられてきました。しかし、中塚明氏が発掘し調査した前記の「佐藤文庫」に所蔵された『日清戦史』草案によれば、作戦の実行部隊となった大島旅団長率いる第五師団は事前に「朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画」と題して、歩兵連隊・大隊・中隊という編成の下に進行時間まで定めた作戦計画を立てていました。
1894(明治27)年7月23日に実行された作戦の要点は次のとおりでした。①王宮に進軍して韓国兵を駆逐し、これを占領して、高宗国王の身柄を確保する(第三草案では「国王を擒にし」となっていた)、②それと並行して閔一族の支配を快く思っていなかった大院君を王宮に引導して王位を継がせる、③その上で大院君に、清軍の撃退を日本軍に嘱託させる。
実際には、大院君が王宮へ出向くことを嫌がり邸宅にこもったため、日本軍は②③のシナリオを実行するのに手間取りました。第十一連隊第六中隊が大院君宅に到着したのが午前4時前でしたが、駆け付けた日本公使館・杉村書記官の説得を受けて大院君が第六中隊兵にまわりを固められて王宮に入ったのは午前11時でした。
翌7月24日、大院君の下で発足した新内閣に対し、大鳥公使は清朝中国軍を朝鮮から駆逐する依頼文書を出させようとしましたが、容易にはかどりませんでした。結局、ソウル南方に待機した大島旅団長のもとに、牙山に駐留する清国兵を撃退すべしという朝鮮政府外務省の記名調印付の文書(実際は大鳥公使の親書)が届いたのは7月26日の夜でした。こうして在韓日本軍はとにもかくにも「朝鮮政府ヨリ援兵ノ請求」を手に入れ、対清開戦へと突き進んだのです。しかし、それは朝鮮政府の自発的要請によるものではなく、国王を武力で威嚇するという「強て」の手段によって得た開戦の大義名分にほかならなかったのです。
このような経過を振り返れば、日清戦争は日本にとって「受け身の」防衛戦争どころか、朝鮮の主権を踏みにじり、列強の領土強奪争いに割りこもうとした侵略戦争にほかならなかったことは明らかです。また、日清・日露戦争の時期に日本は「朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ、とひとつ念仏のようにいいつづけてきた」などという司馬の原作の記述がいかに史実とかけ離れたものか、おわかりいただけると思います。
◆NHKドラマは日清開戦をどのように描いたか?◆
では、NHKは以上のような史実あるいは原作をドラマ化するにあたって、どのように描き、脚色したでしょうか? 昨年11月~12月に放送された計5回のドラマ第一部のなかで、日清戦争を題材にしたのは、第3回「国家鳴動」の後半と第4回「日清開戦」でした。
まず、第3回の後半では、東学農民の乱の勃発に驚いた朝鮮政府が反乱軍の鎮圧のため、清国に派兵を要請したこと、それを伝え聞いた日本政府部内での事態への対応をめぐるやりとりが放映されました。そこでは、朝鮮への即時派兵を主張する外務大臣・陸奥宗光と参謀次長・川上操六と派兵に慎重な態度を取った伊藤博文の緊迫した議論の模様を描いた上で、朝鮮が清に救援を申し入れた1894(明治27)年6月1日の翌日に政府が閣議で出兵を決定した経緯を伝えました。しかし、そこでは、この閣議決定は「単に出兵であり、実際に戦うと決めたわけではない」と発言した伊藤博文を場面の主役に据えて、派兵即侵攻ではないかのように印象付ける脚色をしました。
その後、ドラマは陸海軍に出撃命令が下り、好古・真之の秋山兄弟が朝鮮へ出兵していく姿を描き、7月25日に真之が乗り込んだ日本艦隊が豊島沖で清国艦隊と遭遇し、戦闘の火ぶたが切られたと伝えました。
続く第4回は、「明治27年(1894)年7月25日早朝、東郷平八郎率いる巡洋艦「浪速」が英国旗を掲げた一隻の艦船を発見したが、それには多数の清国陸軍の将兵が乗船していた、そこで東郷は船長に対し、ただちに錨を上げて本艦に同行するよう信号で命じたにもかかわらず、清国兵は命令に応じなかった、そこで東郷はマストに危険を知らせる赤旗をかかげ、そのあと撃沈の命令を下した、こうした事件のあと、日本は同年8月1日に清国に対して宣戦布告をした、という筋書きを伝えました。その後、ドラマでは、この事件は英国の朝野を激こうさせたものの、「詳細がわかるにつれて・・・・東郷平八郎のとった処置は国際法にてらしてことごとく合法であることがわかった」というナレーションを流しました。
私は、このような日清開戦の描き方は、番組制作者の作為がいかほどかは別にして、客観的に見れば、史実との大きな乖離、事実の歪んだ取捨選択があると思います。
第1に、開戦に至るに日時を追っていえば、なぜ6月2日(閣議で派兵を決定した日)から7月25日に飛ぶのかということです。これでは、この間に、「邦人保護」を名目に行われた朝鮮派兵がなぜ、全編的な日清開戦に至ったのか、その動機と経過を探る上で重要ないくつかの事件が起こったにもかかわらず、それらが全く伝えられないからです。
6月10日 帰任した大鳥公使が現地の平穏な状況を目の当たりにして派兵を停止するよう本国政府に繰り返し進言
6月16日 派兵軍の駐留の大義名分を得るため、陸奥外相、清国に共同で朝鮮の内政改革にあたることを提案するも清国、これを拒否
7月20日 大鳥公使、22日を回答期限として朝鮮政府に清との宗属関係の清算を迫るも朝鮮政府、これに応じず
7月23日 日本軍、京城の朝鮮王宮を占領
7月25日 大院君に、清国を牙山からの撤退させる行動を要請
こうした経過が飛ばされた結果、
①日本軍の朝鮮派兵は初期の時点でその法的大義名分(在韓邦邦人の保護)を失っていたこと。
②にもかかわらず、日本政府と在韓公使は派兵部隊の長期駐留の口実を作るため、種々の策を考案する必要に迫られたこと。
③最終的には、武力的威嚇を背景に王宮を占拠し、清露的とされた高宗国王を退位させ、新たに王位に就かせた大院君に迫って清国軍の掃討を要請させたこと。これが日清開戦の引き金となったこと、
が全く伝えられず、<戦地での宣戦布告の手順>という局面だけをズームアップし、そこに至るまでに日本政府が行った武力的威嚇、朝鮮の主権(独立国としての外交上の自己決定権)を露骨に侵害するという不法行為を黙殺したのです。
「坂の上の雲」のどこが問題なのか?(2) ~地元9条の会で講演~
◆日露戦争はロシアの脅威に備えた防衛戦争だったのか?◆
では、日露戦争はどうだったのでしょうか? この戦争は原作が描いたようなロシアの南進を食い止め、日本の「利益線」を死守するための「祖国防衛戦争」だったのでしょうか?
開戦直前の1904(明治37)年2月10日、日本はロシアに宣戦布告をし、日露戦争は始まりました。しかし、その年の1月23日、朝鮮政府は日露間の「厳正中立」を宣言していました。にもかかわらず、日本は2月8日に臨時派遣隊を仁川に派兵し首都ソウルに進駐させました。こうした日本の軍事行動は朝鮮政府の名目的な「要請」に基づくものでさえなく、事前の承認を得たものでもありませんでした。また、ロシアが先に朝鮮に侵入したという事実もありませんでした。それどころか、陸奥宗光外相ら日本政府首脳はロシア公使からの情報により、当時のロシアは三国干渉を以て朝鮮半島での列強の勢力安定を望みこそすれ、南下の意図はなかったことを承知していました。
「露京発西公使の電報に曰く、『露国外務省亜細亜局長の談話を聞くに,・・・・・露国政府の意向は別に異変せし所あるを見ず。もし我が割地の要求にして台湾および金州半島の外に出でざれば、露国はこれに対し敢えて異議を提出せざるべしと信ず。要するに露国の熱望する所は、目下の談判を以て速やかに平和を恢復して戦争の終結を見んとするにあり』とあり。」(陸奥光、『新訂蹇蹇録』338~339ページ)
結局、日本による朝鮮出兵の目的は朝鮮の独立の保護でなければ、ロシアの南下を食い止める防衛目的のものでもありませんでした。むしろ、朝鮮半島や遼東半島における日本自身の権益を確保し拡張することでした。
そもそも、近隣国の要請もないのに一方的に自国の「主権線」や「利益線」のコンパスを他国の領土にまで延ばし、「自国防衛」、「近隣国の軍事的脅威への抑止力」を大義名分にして他国への派兵や軍備拡張を正当化しようとする論法こそ帝国主義的侵略の常套句であり、こうした論法こそが国家間の軍事的緊張を高め、戦争の原因を生みだすという現実が今日まで連綿と続いているーーこのような歴史の教訓をしっかりと伝えることがNHKに求められる社会的責任であると痛感させられます。
NHKドラマ「坂の上の雲」で日露戦争が題材になるのは今年の12月に放送される予定の第8回「日露戦争」と第9回「広瀬、死す」です。そこで、原作に制約されながらも、日露戦争がどのように描かれ、伝えられるのか、注視したいと思います。
◆伊藤博文を非戦の平和主義者と描く歴史の歪曲◆
上で紹介したようにNHKのドラマでは、日清戦争開戦のきっかけになった日本による朝鮮派兵の経過を描く場面で、派兵論の急先鋒だった参謀次長・川上操六、外務大臣・陸奥宗光と対比する形で伊藤博文を熱心な非戦論者、平和主義者であったかのように伝えました。原作にもこのような記述があることは確かです。確かに、川上・陸奥と伊藤の間で朝鮮出兵の大義名分・タイミング・規模をめぐって意見の違いがありました。しかし、最終的に出兵の断を下したのは上記のとおり時の首相・伊藤博文でした。しかも、朝鮮の植民地化に果たした伊藤博文の役割はこれで終わりではありませんでした。
日露戦争の終結を受けて日本は、日露講和条約で謳われた、日本が韓国を被保護国化することを韓国が合意した証を立てる条約を締結することが必要でした。そこで、日本政府は1905(明治38)年10月、特派大使として韓国に出向き、この条約(第二次日韓協約)締結の交渉にあたったのが伊藤博文でした。日本側が示した条約案の骨子は韓国の外交権行使を韓国政府から「委任を受けた」日本政府が行うというものでした。これに韓国皇帝や内閣大臣らが独立国としての尊厳をかけて抵抗したのは当然でした。しかし、伊藤は内謁した皇帝高宗に向かって、「本案は帝国政府が種々考慮を重ね、最早、寸毫も変通の余地なき確定案にして断じて動かす能わざる帝国政府の確定議」と威圧し、調印を迫りました。また、自分の宿泊先に招いた韓圭萵参政(首相に相当)以下6人の大臣に向かって、「貴国政府が之を承諾せられずとて其の儘黙止するものにあらざることを記憶せられよ」と脅迫的な言い渡しをしました。
同11月17日、王宮に大臣を呼び集めて開かれた御前会議は調印に向けた日韓最後の交渉の場となりました。しかし、「交渉」とはいっても王宮内には日本軍憲兵や領事館警察官、韓国政府に傭聘された日本人巡査が配置され、戒厳体制を敷いていました。その御前会議ですが、伊藤は妥協を促した皇帝の意向にも逆らって抵抗する韓圭萵参政を室外に連れ出させ、自ら大臣一人一人に協約案に対する賛否を質したのでした。それによると、反対を明言しなかった者2名を含め5名の大臣の賛成があったとして伊藤は多数決で可決されたものとみなし、皇帝の裁可も得たとして第二次日韓協約(韓国では「乙巳条約」と呼ばれている)の成立を宣言しました。
第二次日韓協約
第2条 日本国政府は韓国と他国との間に現存する条約の実行を全ふするの任に当り韓国政府は今後日本国政府の仲介に由らすして国際的性質を有する何等の条約若は約束をなささることを約す
第3条 日本国政府は其代表者として韓国皇帝陛下の闕下(けっか)に一名の統監(レヂデントゼネラル)を置く 統監は専ら外交に関する事項を管理する為め京城に駐在し親しく韓国皇帝陛下に内謁するの権利を有す 日本国政府は又韓国の各開港場及其他日本国政府の必要と認むる地に理事官(レヂデント)を置くの権利を有す 理事官は統監の指揮の下に従来在韓国日本領事に属したる一切の職権を執行し并に本条約の条款を完全に実行する為め必要とすへき一切の事務を掌理すへし
第5条 日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証する
この報が伝わるや韓国内は抗議の声で騒然となり、高宗皇帝は、①強制された調印は無効、②皇帝の承認の欠如、を理由に挙げてオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送り、条約の無効を訴えました。また、協約案に賛成した5人の大臣は以来、韓国民衆の間で民族の主権を日本に売り渡した「乙巳五賊」と罵倒されました。こうした中、皇帝の侍従武官長・閔泳煥(日本軍に虐殺された明成皇后〈閔妃〉の甥)は抗議の自決をしたのです。また、元老・趙秉世もアヘンを飲んで自殺し、ハーグへ密使として送られた3人のうちの李儁も協約無効の訴えがままならなかったことに憤り、抗議の自殺をしました。
伊藤博文が満州旅行の途中で立ち寄ったハルビンで安重根に射殺されたのはそれから4年後の1909(明治42)年10月26日でした。安はわが国では「テロリスト」と称されていますが、韓国の国定中学校国史教科書では彼のことを「わが国と大陸への日本の侵略をくいとめ、わが国の独立を維持することとともに、東アジアに平和をもたらす遠大な意志をもっていた」義兵将と称えられています(石渡延男監訳者・三橋広夫共訳者『入門韓国の歴史〔新装版〕――国定韓国中学校国史教科書』2001年、明石書店、318~319ページ)。このような史実をひも解けば、伊藤博文を「韓国の独立・保護に腐心した」非戦論者とか平和主義者と描くことがいかに現実のねつ造であるか、わかると思います。
◆日本は国際法を守ってフェアに戦ったと描く歴史のねつ造◆
先に触れたように、原作もNHKのドラマも東郷平八郎の一言一句を取り上げて、日本は国際法を遵守した戦いをしたかのように描いています。また、作家の関口夏央氏は日本放送協会出版協会が刊行した『NHKスぺシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲第1部』(2009年)に収録された談話のなかで、19世紀の戦争は二国間の限定戦争で、他国は当事国と軍事条約がないかぎり中立を守ったという意味で「フェアな」戦争だったと語っています。
しかし、日露戦争において日本が日露間の「厳正中立」を宣言していた朝鮮政府の承認も「要請」も得ないまま臨時派遣隊を朝鮮に派兵して首都ソウルに進駐させたことはまぎれもない事実です。もっとも、日本は朝鮮へ出兵をしたり、当地での権益を拡大したり外交権を掌握したりする際には武力を背景にした威圧によって韓国皇帝や政府に非自発的「要請」という形をとらせるのが常套手段でしたから、国際法の手続きを形式的に踏まえたからといって無法な侵略行為を正当化するのは荒唐無稽な議論です。
しかも、日本は日清・日露戦争において、人道的な意味でも「文明国らしい」フェアな戦いとは対極的な残虐行為を繰り返しています。ここではその典型例として、1895(明治28)年10月8日に起こった朝鮮王妃(明成皇后)殺害事件と日清戦争の終末時に起こった旅順虐殺事件を紹介しておきたいと思います。
(1)明成皇后殺害事件
1985(明治28)年4月に下関条約が締結され日清戦争は終結しました。しかし、戦勝国のはずの日本は三国干渉により清国への遼東半島の返還を余儀なくされ、これを機に朝鮮では日本の影響力が後退し、朝鮮政府内ではロシアへの接近を強めようとした閔一族が勢力を拡張しつつありました。その閔一族の中で、日本政府が権力の中枢にいると見たのが王妃・閔妃(明成皇后)でした。
同年9月に在韓公使に着任した三浦梧楼は陸軍中将上がりで行政手腕は全く劣っていましたが、陸軍で気脈を通じていた本国の川上操六と頻繁に電信連絡を取り合い、閔妃一族の排除、親日的政権の樹立を画策しました。同年10月8日未明、大院君を担ぎ出して王宮に侵入し、宮内の警備隊や王妃の身辺を世話した女官らを次々と殺害したあと、王妃の寝室に乱入して殺害し、死体を庭に引き出して焼き殺し、殺害の痕跡を消したのです。当初は閔一族の支配を快く思っていなかった大院君率いる朝鮮兵に王妃殺害を仕向ける計画でしたが、大院君がこれを渋る中、日本兵が直接王妃殺害を実行したとされています。この間、国王・高宗は王宮近くのロシア公館に逃げ込みました。
事件が海外の新聞で報道されたため、日本政府は黙過し通すことができなくなり、関係者を召喚して裁判にかけましたが、全員証拠不十分で無罪放免されました。
では、一国の王妃の寝室に刀を振りかざした日本兵が乱入し、問答無用で切り殺すというこの事件について、NHKのドラマはどのように伝えたでしょうか? この事件に触れたのは第5回「留学生」でしたが、この回は日清戦争が終わり、従軍から伊予松山に戻った正岡子規、軍艦「筑紫」に乗って呉に戻ってきた真之、陸軍乗馬学校の校長に任ぜられた好古の消息を、それぞれ描写する場面でした。番組では、これらの場面の合間に唐突に、また、こともなげに、「このころ、朝鮮で大事件が起きた。王妃閔妃(明成皇后)が朝鮮公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである」というナレーションが流されただけでした。しかも、その直後には「この難局を突破するにはロシアに対応できる軍備の拡張しかありません」と主張する陸奥宗光に対し、「いまでさえ国民は重税にあえいでいる」といって反論する伊藤博文の姿をクローズアップしました。これで、残忍な明成皇后殺害事件は「平和主義者」かのごとく振る舞う伊藤博文の姿によってかき消された感がありました。
この事件について、もう1つ、触れておかなくてはならない点があります。それはNHK出版が刊行した『NHKスペシャルドラマ 歴史ハンドブック 坂の上の雲』(2009年)に収められた「ひとくちMemo」の中で、この事件について次のように解説されている点です。
「閔妃とは李氏朝鮮26代皇帝高宗の后であり、明成皇后と呼ばれる。大院君の追放後、近代化に眼を向けたのだが、旧式軍隊と大院君とのクーデターにより清国に助力を頼み、日清戦争後は、ロシアに接近していく。閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年、大院君を中心とした開化派武装組織によって景福宮にて暗殺され、その遺体は武装組織により焼却された。悲しい運命に翻弄された一人でもある。」(17ページ)
私はこのような一文が、NHKの子会社が出版する書物に書かれているのを知った時、驚きあきれました。閔妃と大院君が確執しあっていたことは確かですが、大院君は閔妃殺害はおろか、日本が仕組んだ閔妃追い落とし工作に加担することさえ拒んだのが事実でした。また、事件当日、王宮内に武装した開化勢力がいたという事実は日本軍からも報告されていません。
それどころか、まるで武勲かのように自分がやったと名乗る日本兵が幾人かいるのが実態です。福岡の櫛田神社には皇后の寝室に乱入した3人のうちの一人、藤勝頼が寄贈した肥前刀が保管されています。この備前刀は江戸時代の16世紀に忠吉という職人が殺傷用に製造した刀といわれていますが、その白木の鞘には「一瞬電光刺老狐」と刻まれています。「狐」というのは事件の首謀者・三浦梧楼が閔妃を「女狐」と呼び、暗殺計画に「狐狩り」という暗号を付けていたことに由来するとみられています。また、鞘に記名された「夢庵」は勝頼の号で、彼の第二刀が王妃を絶命させたといわれています(高大勝『伊藤博文と朝鮮』2001年、社会評論社、118ページ)。
韓国では「日帝の七奪(罪)という言葉があるそうです。七奪とは、王母、民族、土地、食糧、自由、名前、人命を奪ったという意味です。ここでいう一番に挙げられている「国母」とは王妃・閔妃です。なお、安重根が伊藤博文を暗殺する時に挙げた15条の理由の第1が閔妃殺害でした。
(2)旅順虐殺事件
原作は「日清戦争」の項の中で、「旅順というのは、戦いというものの思想的善悪はともかく、二度にわたって日本人の血を大量に吸った」(第二分冊、107ページ)と記しています。そして、NHKのドラマでも原作にならって、旅順攻略にあたって好古が砲台を攻略する作戦に関する意見書を提出したこと、それを第二軍司令官・大山巌が絶賛したことを時間を割いて紹介しました。もっとも、当の好古が率いた騎兵第一中隊は目標地に向けて進軍する途中で予想外に大規模な清国軍と遭遇し、退却を余儀なくされますが、ここでもNHKは原作に忠実に、好古が自ら酒をぐいと飲みながら、危険な最後尾で敢然と指揮を執り、敵の追撃を食い止めた剛毅な名将ぶりを印象づけました。
しかし、事実はどうだったのでしょうか? 第二軍の旅順攻撃が功を奏して市内に入った日本軍部隊が1894(明治27)年11月21日以降の4日~5日間にわたって、抗戦の意志がほとんどなかった清国兵士のみならず、逃げまどう民間人も無差別に殺戮するという事件が起こったのです。その時の「地獄に等しき惨状を目撃し」、本国に伝えた外国新聞記者の手記等を収集した井上晴樹『旅順虐殺事件』(1995年、筑摩書房)によれば、市内に突入した第二軍兵士が、その3日前の戦闘で生け捕りにされた日本兵の生首が道路わきの柳の木に吊るされていたのを目撃して激情し、復讐心を募らせたのが引き金になったとのことです。それはともかく、日本兵は民家の隅で道路わきでおののきながら命乞いをする住民や小売商人を捕虜にするのではなく、サーベルや銃で次々と殺戮していったのです。虐殺された人数については諸説ありますが、中国が建立した旅順の万忠墓には「1万8百余名」と刻まれています。
このような史実を知れば、「旅順というのは、・・・・・日本人の血を大量に吸った」とのみ記し、被侵略国の相手軍の多数の兵士・民間人が日本兵によって虐殺された事実を伝えず、「受け身の戦争だった」などと解説することがいかに史実を歪めるものか明らかです。
なお、『NHKスペシャルドラマ・ガイド 坂の上の雲 第1部』(2009年、NHK出版)は「従軍記者が見た日清戦争」というコラムを挿入し、その末尾で日清「戦後に起こった旅順での民間人殺害事件は、こうした外国人記者の報道によって明るみに出たのである」(133ぺージ)と記しています。しかし、これでは、どのような殺害事件だったのか、まったく伝わりません。
また、ドラマの第4回では、日清戦争末期に自ら志願して戦地に赴いた正岡子規が陣中日記に書き留めた「なき人の むくろを隠せ 春の草」という句を子規と面会した森林太郎(鴎外)が詠みあげ、「正岡君らしい写実の句だね。簡潔だ。だからこそ胸を打つ。」「戦争の本質から目をそらして、やたらと戦意をあおるだけの新聞は罪深い。正岡君が書く従軍記事なら、写実でなくては困るよ」と語りかける場面を挿入しています。これと前後しますが、旅順虐殺事件の翌年、1895(明治28)年4月15日の陣中日記の中で子規は、「○○湾に碇を投ずれば乞食にも劣りたる支那のあやしき小舟を漕ぎつけて船を仰ぎ物を乞ふ。飯の残り莚の切れ迄投げやる程の者は皆かい集めて嬉しげに笑ひたる亡国の恨は知らぬ様なり」と記し、それから数日後の日記には「條約交換も今日に迫りて復た休戦の噂など漏れ聞ゆ。心安からぬ事多かり」と記しています。このような子規の遺した戦場体験の記録をみても、子規が歩んだ道もまた「明るい明治の青春の坂道」と形容するには程遠かったことが分かるでしょう。
「坂の上の雲」のどこが問題なのか?(3) ~地元9条の会で講演~
2 司馬遼太郎の遺志に背いてまで原作のドラマ化を推進した責任
NHKに問われるもう一つの責任は、NHKが原作の映像化を固く拒んだ司馬遼太郎の遺志に背いてまでドラマ化に執心し、企画を推し進めた責任です。生前、司馬が「この作品はなるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品でもあります。うかつに翻訳されると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね」(司馬遼太郎『「昭和」という国家』1998年、日本放送協会出版、34ぺージ)と述べ、各方面から寄せられた原作の映像化の申し出を断り通したことは今日ではよく知られています。それでも、著作権承継者である遺族の了解を得たから問題はないというのがNHKの公式見解です。この点では、著作権承継者である福田みどりさんに道義的な意味での説明責任があるといえます。しかし、だからといって、原作のドラマ化を企画し、遺族に著作権使用許諾の申し出をしたNHKの企画責任が消え失せるわけではありません。NHKからの申し出がなければ、許諾するもしないもなかったからです。
しかし、ここで、注意する必要があるのは、生前、司馬がドラマ化を拒んだという事実だけではありません。それ以上に注目すべきなのは原作に表された司馬の朝鮮観がその後、大きく揺らいでいたという点です。その揺らぎは朝鮮観にとどまらず、日清・日露戦争を「祖国防衛戦争」と規定した司馬の根幹的な歴史観にも及んでいます。
司馬は1998年に日本放送協会出版から刊行した上記の書物の中で韓国併合について次のように語っています。
「われわれはいまだに朝鮮半島の友人たちと話をしていて、常に引け目を感じますね。これは堂々たる数千年の文化を持った、そして数千年も独立してきた国をですね、平然と併合してしまった。併合という形で、相手の国家を奪ってしまった。こういう愚劣なことが日露戦争の後で起こるわけであります。
むろん朝鮮半島を手に入れることによって、ロシアの南下を防ぐという防衛的な意味はありました。しかし、日露戦争で勝った以上、もうロシアはいったんは引っ込んだのですから、それ以上の防衛は過剰意識だと思うのです。おそらく朝鮮半島の人びとは、あと何千年続いてもこのことは忘れないでしょう。」(37ページ)
朝鮮民族のことを「堂々たる数千年の文化を持った、独立してきた国」と語る司馬の後年の朝鮮観と、「韓国自身、どうにもならない。李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった」(第二分冊、50ページ)という朝鮮観はどのような後知恵を以てしても一貫しません。このような後年における朝鮮観の転換が『坂の上の雲』のドラマ化を拒んだ司馬の意思の根底にあったのかも知れませんが、それについて司馬は何も語っていません。
また、司馬は同じ書物の中で自分の意識を相対化し、他人または他国の痛みを感受する自己解剖の勇気について次のように語っています。
「私は、青少年期にさしかかるころから自分を訓練してきたことがひとつあります。中国のことを考えるときは、自分が中国人だったらと、心からそういうようなつもりになることです。そのためには中国のことを少し勉強しなければいけませんが、とにかく中国に生まれたつもりになる。
朝鮮のことを考えるときには、自分が朝鮮人だったらと、あるいは自分が在日朝鮮人だったらと思う。沖縄問題がありますと、自分が那覇に生まれたらとか、宮古島に生まれたらというように考える。そういう具合に自分に対して訓練をしてきました。」(167ページ)
「これから世界の人間としてわれわれがつき合ってもらえるようになっていくには、まず真心ですね。真心は日本人が大好きな言葉ですが、その真心を世界の人間に対して持たなければいけない。そして自分自身に対して持たなければいけない。
相手の国の文化なり、歴史なりをよく知って、相手の痛みをその国で生まれたかのごとくに感じることが大事ですね。」(182ページ)
このような司馬の言葉を知るにつけ、もし、司馬が他人に向かって言う前に、自分自身が言葉どおりに、他国民の尊厳と痛みに思いをはせる感受性を『坂の上の雲』を執筆した当時から持っていたなら、旅順虐殺事件を黙過して日本兵のみが大量の血を吸われたなどと言うことはなかったでしょう。また、このように他国民の被る苦難に思いを致す気持ちが司馬にあったなら、三笠艦上で閉塞作戦をめぐって作戦会議が開かれた時、途中で敵艦隊に見つけられ猛射を受けた時は引き上げるべしと進言した真之のことを「じつに弱いことをいっている」(第三分冊、258ページ)と突き放すこともなかったでしょう。また、真之が僧になって自分の作戦で殺された人々を交戦国の別なく弔いたいと言い出したのを「海軍省としては真之に坊主になられては迷惑であった。かれのいうことを海軍が道理としてみとめれば、一戦争がおわるたびに大量に坊主ができあがることになる」(第三分冊、257ページ)と冷淡に突き放した記述をすることもなかったはずです。
さらにいえば、戦争が人間にもたらす過酷な災禍に国籍の違いはないはずですから、旅順の激戦に投入された日本軍兵士を「持ち駒」と呼び(第四分冊、310ページ)、それを補充するための内地の予備隊を「新鮮な血」((第四分冊、312ページ)などと、兵士を虫けら同然の言い方をすることはなかったはずです。
いずれにしても、司馬の朝鮮観がこれほど変化し、本人もそれが理由かどうか明言していないとしても原作のドラマ化を固く拒んでいたことを承知しながら、NHKが原作のドラマ化を遺族に執拗に迫ったことは、司馬の朝鮮観の揺らぎが史実と人道に適っているだけに、道義的責任は大変重いといわなければなりません。
もっとも、後年における司馬の朝鮮観の揺らぎを手放しに評価するわけにはゆきません。なぜなら、司馬は日露戦争を機に日本の軍国主義は健全なナショナリズムから愚劣なナショナリズムに変質したとみる歴史観に最後まで固執しました。しかし、こうした歴史観は朝鮮の主権を根こそぎ奪った韓国併合が日清・日露戦争の歴史的帰結であることを無視した根拠のない主観です。昭和における日本帝国主義の暴走は、司馬のいうような日露戦争の勝利に酔った軍部の慢心のみに帰すべきものではなく、自国の権益の維持・拡張を「利益線」「主権線」の名のもとに当事国の主権に優越させる帝国主義の本性に宿ったものでした。この点にまで踏み込んだ歴史観の転換なしには司馬は歪んだ朝鮮観を完全に清算することはできなかったのです。
『坂の上の雲』の放送開始に先立つ2009年11月26日、歴史学者、メディア研究者、各地の市民団体が結集して結成された『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク(呼びかけ人:奈良女子大学名誉教授・中塚明氏、メディア研究者/元立命館大学教授・松田浩氏、歴史研究者/立命館大学名誉教授・岩井忠熊氏ほか5名)は、NHK福地会長宛に、
①「ドラマ化」にあたって、明らかに事実に反する原作の記述について十分な検討を加え、必要とあれば著作権に一定の配慮を払った上で「訂正または補足」の措置を講じるなり、視聴者に「事実との違い」を何らかの形できちんと伝える、それが困難であれば、『坂の上の雲』が放送される期間に別途、日清・日露戦争の経緯を検証する番組の放送を企画すること、
②生前、数々の映画、テレビドラマへの「映像化」要請を拒み続けた司馬の思いを深く尊重すること、
を申し入れました。また、これに先立って、愛媛、京都、兵庫、東京を中心とする市民団体も、原作に即した、より詳細な申し入れ書、質問書を福地会長宛に提出しました。
これらに対し、番組のエグゼクティブプロデューサー・西村与志木氏名で届いた回答文書は、司馬は原作を戦争賛美の姿勢で書いたものではない、番組では近代国家の第一歩を記した明治のエネルギーと苦悩をこれまでにないスケールのドラマとして描き、現代の日本人に勇気と示唆を与えるものとしたいという、申し入れ・質問の中身に一切立ち入らない、そっけないものでした。
今年の12月から来年にかけてドラマ『坂の上の雲』の第二部、第三部が放送されるにあたり、私たちは番組をしっかりウオッチするとともに、日清・日露戦争期の日朝・日中関係をはじめとする現代史を私たち自身が学び直す機会とすることを皆さんに訴えたいと思います。そのことが憲法9条を生みだした日本の歴史的背景を、侵略戦争の犠牲者であるとともに、アジアの近隣諸国に過酷な災禍をもたらした侵略国の有権者として平和運動に取り組む自覚を育む力になるものと思います。
以 上
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion001:100601〕
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