周回遅れの読書報告(その47) 怠慢の意義、重要性
- 2018年 2月 18日
- 評論・紹介・意見
- ちきゅう座会員脇野町善造
大昔、ある人物と話をしていて、「忙しくないか」と尋ねられたことがある。そのときは、まだ毎月給与を受け取る現役の職員だったが、これといって決まった業務は何もなかった。なかったというよりは、窓際に追いやられていた。それで「月給泥棒そのものです」としか言いようがなかった。そうしたら「飼い殺しか」と聞かれた。「月給泥棒です」と答えれば、誰でもそう考える。この人物も心配してそう言ったのだと思う。「いや、殺されているわけはなく、まあ適当に楽しんでいますから、心配には及びません」。そんな話しをしてきた。しかし、形の上では「現役」でありながら、なすべきことがないもない。そういう意味では「飼い殺し」に近い状態である。どうしたものかと、家に帰ってから少し考えたが、いい具合に(偶然に)いい本が見つかった。
1920年代から30年代にかけて活躍したチェコの作家、カレル・チャペック(「ロボット」という言葉を産み出した人物でもある)のエッセーを編集した『いろいろな人たち』という小さな本がある。この中にこういう一文がある。
「[ヨーロッパでは]人間の精神の最大の活動も、時間の気づかれぬ浪費の後でのみ発展してきたのです。ヨーロッパは何千年も時間を無駄にしました。そこにヨーロッパの無限の豊かさと生産性があります。……大いなる精神の怠慢について、それがヨーロッパにその最高の価値のいくつかを達成させたということができるでしょう。人生の完全な評価のためには、一定の怠慢が必要なのです。ひたすら急ぐ人間は、たしかに目標に到達するでしょうが、ただその代償として、その道筋を通りすぎたあまたのものを見逃してしまうのです」
無論、「時間の浪費と精神の怠慢」は「精神的活動の発展」のための十分条件ではないが、チャペックに従えば、少なくともその必要条件だということになる。「精神的活動の発展」のためには「時間の浪費と精神の怠慢」がいるのだと思うと、気分は随分と楽になる。「飼い殺し」を楽しむ余裕が出来た。この本はしばらく座右に置くこととしよう。この時はそう思った。そして実際、かなり頻繁に休養と称して怠慢に耽りながら、自分の好きなことをやった。やったことにどのような価値があったかは、まったく自信はないが、それでも「これはやった」というものが一つ、二つ残った。その意味では「時間の浪費と精神の怠慢」の重要性を教えてくれたチャペックに感謝したい。
その時分から随分と時がたち、老化は進んだ。疲れやすくもなった。今やっているのは、「時間の浪費と精神の怠慢」そのものである。残された時間があまり多くもない私に「精神的活動の発展」が可能かどうかを考えると、「時間の浪費と精神の怠慢」は何のためかと思ってしまう。たぶん、このまま「時間の浪費と精神の怠慢」をダラダラと続けていくことになるのであろう。
しかし、まだこれから様々なことが出来る可能性がある読者には、「精神的活動の発展」のためには、どうしても「時間の浪費と精神の怠慢」がいるのだと確認してほしい。時として、何もしないこと、漫然と過ごすこと、それ否定的にしか考えないことはやめにして欲しい。チャペックはもうひどく古い時代の作家になってしまったが、その作品には、今もなお読者を勇気づけてくれるものがあるように思う。精神に疲れを感じたら、一読してみてはどうだろう。「時間の浪費」にしかならないということはないであろう。そんな気がする。
カレル・チャペック『いろいろな人たち』(平凡社、1995年)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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