私立大学の体育会権力
- 2018年 5月 28日
- 評論・紹介・意見
- 体育会大学盛田常夫
教授会と体育会
大手の私立大学はどこも体育推薦入学制度を保持しており、大学の知名度を上げる手段となっている。人気がある野球やサッカー、あるいはラグビー、それから箱根駅伝などメディアへの露出度が高いスポーツは、推薦枠も大きい。人気スポーツの1年間の推薦入学枠は1チームを形成できるレギュラー人数を超えるのがふつうで、レギュラーになれない多数の体育推薦入学者が洗濯や炊事、球拾いの雑務要員として合宿生活を支えている。
私立大学の運営は教育や研究事項に責任を持つ教授会や学部長会議と、大学経営に責任をもつ理事会(事務組織の統括)の二つの系列に分かれている。体育推薦枠の扱いは理事会マターであり、教授会や学部長会議などが関与できることはほとんどない。学部長会議は、理事会あるいは体育部関係者が集まる会議で決定された各部の推薦枠を承認するという形式的な機能を受け持たされるだけで、教授会にいたってはその報告を受けるだけである。
一応、各体育会加盟部の部長には教員が名を連ねているが、たんなる名誉職で、OB会や祝賀会で挨拶する程度の役割しか負っていない。体育会各部の監督やOB会がすべてを取り仕切っている。体育推薦で入学を決める権限も各部の監督やOBが握っており、ここに教授会が関与することはない。学部長会議で形だけ承認された体育推薦の総枠が、各専門学部に配分され、教授会はその枠を承認し、その枠内で推薦された学生の入学を承認するだけである。
体育推薦で入学した学生が、各体育会の所属部とどのような約束を交わしているか、教授会は何も知らない。ほとんどが、体育会を辞める場合には自主退学することを入部(入学)の際の誓約書にしているようだが、そのような書類は教授会に提出されない。すべて体育会の各部で内部的に処理され、公になることはない。
このように、私立大学における体育会は一つの独立した世界であり、各部の運営は推薦入学利権をもつ権力組織になっている。
体育会グループが事務組織を支配
大学の先生はお世辞にも経営能力があるとは言えない。予算や事務人事にかかわることに何の力も発揮できない。だから、私立大学の経営は理事会を頂点とする事務組織が担っている。体育推薦制度が強固な大学では、この事務組織を担っているのが、体育会出身者である。
私立大学にとって、体育会出身者が事務組織を担うことには多くの利点がある。一つは大学への忠誠心(大学ナショナリズム)である。有能でも他大学出身の職員は大学への忠誠心が希薄だから、なるべく多くの生え抜きの職員をとる傾向が顕著である。さらに、体育会出身者は上下関係の命令で動かすことができるから、「無駄な」議論を省くことができる。
他方、この利点は欠点に転化する。事務能力より上下関係による親分子分の関係を職員組織に持ち込めば、革新的な大学経営の障害になる。軍隊的な関係が支配するところに、創造的な大学経営を展開する力はない。
もちろん、大学によって、体育会出身者を優遇することなく、能力本位で自大学出身者を採用しているところもある。教授会と理事会の力関係によっても、大学経営のあり方が大きく異なる。
たとえば、法政大学のように教授会組織が強い大学では、学長が理事長を兼務し、さらに教員が主要な常務理事を担当して、事務組織が独立権力を形成するのを防いでいる。しかし、民主的な運営を維持している法政大学でも、体育推薦入学制度は教授会が介入することができない聖域であり続けている。事務組織における体育会出身者が一つの利益集団を形成している以上、それと妥協しながら大学を運営する必要があるからだ。
これが日本大学のように、事務組織に比べて教授会の力が弱く、体育会出身者で占められる理事会が圧倒的な力をもっている大学の場合には、まったく違った組織になる。創立者が経営を掌握している地方の大学では、教員採用に当たっても、理事会が口出しして、教授会の自治や権限が骨抜きにされている大学もある。
体育推薦の弊害
体育推薦で入学した学生のほとんどは授業に出席せず、合宿所で1日の生活を送っている。これで授業の単位を修得することはできない。だから、体育会からプロスポーツに進んだ選手のかなりの部分は、卒業単位を取得することなく、4年で退学している。しかし、これも大学によってかなり様相が異なる。
理事会が強いところでは、教授会に暗黙の(あるいは明示的な)圧力がかかり、体育会所属学生に合格点を与え卒業させている。他方、教授会が強いところではそのような介入は奏功せず、単位を修得することなく卒業することになる。体育会系学生の答案用紙はほとんどが白紙で、所属の体育会名が書いてある。試験が近づくと、担当教員に贈答品が届くこともある。また、顧問の教員に泣きつき、顧問が同僚教員に懇願することもある。定期試験に替え玉を出す事例も後を絶たない。
スポーツが強すぎるのは大学教員としては困る。優秀な学生がそのような大学を避けるからだ。法政大学に勤務していた時など、「飯田橋体育大学」と揶揄されることもあった。古株の教員は大方体育会の制度に好意的だったが、若手教員は体育推薦制度に批判的だった。どうしたら体育推薦枠を減らすことができるか、その制度に風穴を開けることができるかを議論していた。そうすれば、優秀な学生を増やすことができると考えていた。体育推薦入学者に面接試験を導入したり、入学試験の点数を提出させたりして、教授会が入学審査に関われるような改善提案もした。しかし、何十年と続いてきた制度を変えるのは至難の業であった。
友人が勤務していた立教大学の経済学部では、1980年前後に体育推薦枠を廃止した。もともと、体育会の権力が強くないところに、良識的な教授陣が断固とした決意を示したのだ。学力が不足する附属高校からの入学者についても、教授会は厳しい態度を打ち出した。
学校スポーツが盛んな日本
私立大学で体育会が一つの権力を形成している実態を変えることは、ほとんど不可能に近い。これは日本における学校スポーツのあり方と密接に関係している。
欧州では大学を含め、学校で部活動が行われることはほとんどない。自主的なサークル活動が小規模に行われることはあっても、学校組織が関与している部活動は基本的に存在しない。大学を含む学校は勉学の場であり、スポーツをやりたい人や他の趣味に精を出したい人は、それぞれ学校外のクラブでやれば良いと考えられているからである。素人の先生が他人の趣味やスポーツ活動に関与する必要はない。専門のスポーツクラブには専門のコーチがいる。そこで専門的な指導を受ければ良い。
ところが、日本では中学校から部活動が盛んで、否応なしに部活動への参加が義務づけられ、専門でもない先生が私的な時間を削って部活動に献身している。それが高じて部活動が生きがいになる先生もいるようだ。こういう本末転倒な部活動の延長線上に、大学の体育会が存在すると考えれば、不合理な大学体育会が厳然として日本に存在することも理解できる。
だから、私立大学の体育推薦入学制度の改革は簡単でない。
それにしても、内田元監督の弁解が、安倍晋三の弁解に似ているのに驚いた。「私はそのような指示を出していないが、責任者である以上、率直に謝ります」と言いながら、何の責任もとらない。言葉で謝ればそれで批判をかわせると誤解しているようだ。「自分は直接見ていないし、指示を下したこともない」と自らの関与を否定して、自分の言葉や指示を伝達したコーチや学生に責任転嫁するのも安倍晋三と同じである。だから、いくら謝っても、誠意や真意が伝わらないのは当然である。
理事会No.2の人事担当常務理事という権力に到達した人物と安倍晋三に共通するのは、今の権力を手放したくないという卑しい魂胆だ。言葉の謝罪はいくらでもするが、それ以上の責任は取らない、取りたくないという態度が見え見えなのだ。何とも潔くないことだ。
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