1970年代に社会主義への道を批判した市井人(2)
- 2019年 7月 11日
- 評論・紹介・意見
- レーニン社会主義阿部治平
――八ヶ岳山麓から(286)――
前回に続き、中村隆承(1934~83)の遺稿から彼のレーニン論を紹介したい。
(前回同様、中村隆承はL、( )内は注、——以下は阿部のメモ)
日本では、80年代になっても「レーニン主義とは、帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義である」というのが通説であった。いや東欧・ソ連の社会主義体制が解体してからも、既存社会主義の否定的側面は「レーニン主義からの逸脱である」と説きつづけるマルクス主義者もいる。
Lはすでに70年代に、これを事物の表面しか見ない根拠のない見解だとしたうえで、「ソ連社会の基本構造はレーニンの理論と政策によって方向づけられたもので、スターリンは粗野な手段によってそれを肉付けしたのである」と結論づけていた。
レーニンについて、Lはこうメモしている。
「レーニンは民主主義の重要性について認識しており、プロレタリア革命も社会主義建設もブルジョア民主主義を徹底させることを基本課題としていることを認めていた」
ではなぜレーニンはメンシェヴィキやエスエルなどの政治的反対派、クロンシュタートの水兵や農民反乱、さらにはロシア正教の聖職者などに対して大量の銃殺をふくむ苛烈な弾圧を断行し、一党独裁へロシアを導いたのか。
Lはこう答える。それはレーニンが根っからの革命家であり、革命の事業が危機に瀕するたびに、理論にこだわらず、革命の現実的必要を基準として政策を変えたからである。しかもレーニンは、ロシアの後進的な専制政治の風土の影響を受け、潜在的な政治信条として民主主義の有効性に対する不信感を持っていた。革命を成功させるには、民主主義に対する不信感は強みとして働いたということができる。
レーニンにとって革命こそが正義であり、そのためには革命に反対し、あるいは態度を留保するものは悪であった。
反革命・政治的反対派に対する容赦ない弾圧に関連して、Lはレーニンの法理念をこう考えていた。
レーニンは革命後の法理念と司法体系に「プロレタリア独裁の強化」という明確な目標を与えた。具体的には反革命と反対派を取締まることであった。そのために全ロシア非常委員会ヴェ・チェ・カに公開裁判抜きの銃殺権を与えた。
レーニンは、(社会革命党(エスエル)の裁判をおこなうための刑法起草者の)クルスキーへ「銃殺刑あるいは国外追放の適用範囲をメンシェヴィキ・エスエル党員のあらゆる種類の活動に対して広げねばならないと思う」さらに「法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞だ」という手紙を書いた。
Lは、これが1926年の刑法典の第58条へと育ち、スターリンの血の粛清の法的武器となったと主張する。すでに1921年1月、レーニンは、「我々は数千人を銃殺するのをためらわなかった。今後もためらわないなら、この国を救うだろうと語り、トロツキーが前線で死刑を広く、断固として適用していることを称賛した」
レーニンがテロを強調したのは、テロをプロレタリア独裁の重要手段とみなしていたからである。レーニンの「革命的な正義の観念」と「革命的良心」は、キリスト教的伝統の下における「正義」とか「良心」とはかなり次元が違っていた。
Lは、これをレーニンがプロレタリア独裁至上主義に陥っていたためだという。この結果、法律の条文を「より広く適用」して被告人を無理やり有罪にすることや、告発側の証人のみで被告側の証人は認めないなどの被告人の人権を無視した裁判慣行が、レーニンの時代にすでに広がっていたのである。審理や裁判自体がプロレタリア独裁の勝利のために行われるのであるから、被告人となったものは進んで陳述し告発側に協力すべきものとされた。被告の人権を考慮するような考えはブルジョア思想とされた。かくして夫や父を告発する密告が奨励されたのである。
Lは、レーニンの法理念は革命を擁護するために、民主主義からかけ離れたものになったという。プロレタリア独裁の実態は、内戦が終結したのちの1921年以降は、党内反対派や非協力者たちに対する監視と弾圧となり、とても人間精神を高揚させるしろものではなかった。Lは「ここにイデオロギー過剰と倫理的虚無感の入り混じったソ連独特の道徳的状況を解くカギがある。レーニンはこれらすべてのことに責任があるといわなければならない」と明言した。
――従来赤色テロは、レーニンの名誉にかかわるため秘密とされてきた。テロの犠牲者数について、LはM.ラツイスによる1918年から1年半の犠牲者数8300をあげている。ソ連解体後の新資料による数値は、たとえば稲子恒夫著『ロシアの20世紀』(東洋書店 2007年、p180)を参照されたい。
Lは、レーニンの「党の指導性」というテーゼを重視して、次のようにその正負両面を分析している。
「レーニンは、1902年の『何をなすべきか』において『党の指導性』についての理論の骨格をきずいた。前衛政党なしにプロレタリア革命は達成できないという見解は、当時の情勢からすれば(革命を起こすうえで)非常な卓見というべきである」
だが、それは1917年10月革命後も共産党が一切を指導するという一党独裁の理論に変わった。1920年から21年の労働組合論争は、経済の運営管理に労働者大衆の参加と統制を大幅に認めようとするシュリアブニコフ、コロンタイらの「労働者反対派」と、経済運営は厳格な党の指導性の下に置かれるべきであるとするレーニンとの争いであった。
レーニンは「労働者反対派」に対してアナルコ・サンジカリズムとして攻撃し、将来にわたって大衆民主主義が党内に持込まれないようにするために、「分派活動の禁止」を大会で決議させた(1921年ソ連共産党第10回大会の結語――クロンシュタートの反乱の年)。
レーニンはトロツキーを批判するという形で、労働組合は労働者が『社会主義社会の運営方法を学ぶ共産主義の学校』であるというテーゼを打ち出して、『学ぶべき労働者』という概念を定着させ、一方で、『党の指導性』なしに共産主義社会の実現は不可能」として、「党の指導性」を至上の高みに持ち上げたのである。
レーニンは革命後においても、指導する前衛党と教育されるべき労農大衆という二極化された社会構造を不可欠なものと考えたから、共産主義に至る過渡期に必要な民主化された社会を将来展望として示すことができなかった。
Lは、M.レヴィン『レーニン最後の闘争』(1969年)から引用して、「それはすべての意見の不一致に分派的であるという焼き印を押すことによって一切の真の討論を窒息させるのに成功した」といい、また「『党の指導性』はスターリン時代にその対象領域を際限なく拡大し、政治・経済管理から教育・文化などに広がった。プロレタリア独裁はローザ・ルクセンブルグの懸念通り、党が代行したのである」として、この方面でもレーニンの歴史的責任は免れないと判断した。(続く)
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