今や運動の主流は東京から地方へ移動しているのか(大分での活動状況の一斑)
- 2019年 11月 26日
- 評論・紹介・意見
- 合澤 清
先日、田舎(大分)に用事があり一時帰郷した。
その折、大分大学名誉教授の安岡正義さんとお会いし、色々とこちら(大分)での活動状況について伺うことが出来た。
今、東京ではちょっとした集会、研究会でもなかなか人集めが大変で、主宰者はそのためにいろいろ苦慮している。特に若者たちの関心を引くためにどうすべきか、様々に工夫しているのだが、いまだにこれという策がない.
「全共闘」の時代に、たやすく5000人程度の若者たち(労働者、学生)の集会をやってきた世代に生きた我身には、なんとも「うすら寒い」思いである。
誰が考えても、今日の日本社会が「安心、安全」で未来に向かって開かれているとは到底思えない。特に若い人たちにとっては、将来は暗澹たるものにしか感じられないのではないだろうか。だからこそ、近未来(例えば憲法改悪)にすら目をつぶり、考えることをやめて目先の利得勘定のみに生きようとしているのかもしれないが、そういうことではいったん想定外の出来事が起きた時になってうろたえるばかりで、自滅の道を歩むばかりになりかねない。
福島原発事故の後始末(政府も、東電も「時効」待ちを狙い、犠牲者は「運が悪かった」だけだとして切り捨てられる)や、つい最近の台風災害対策(根本対策はやらないままに、口先だけの補償の空約束ですませようとする)などを少し注意して考えてみれば、政治の空洞化、官庁の堕落、司法の腐敗、メディアの自己保身、などがいやでも目につくのではないだろうか。
「日本社会の腐敗・没落」などと口で言うのはやさしい。しかし、今日、いやでも応でも「国家」がわれわれ個々人の実存に入り込んで来ている現状を考えるとき、こんな状況に目を閉ざしているわけにはいかないのではないだろうか。
国内の情勢、あるいは世界と日本の置かれた状況に刮目する必要が大いにあるだろうと思う。
個々人で巨大な権力に立ち向かうのは怖いし、簡単につぶされる恐れがある。だからこそ、こちら側も団結し、圧倒的な数の力を示す必要がある。
そのためには、身近な小さな集会や研究会などを地道に積み重ねる以外に道はないのかもしれないが、それにしても今日のこの若者たちの「アパシー(無関心)」はいかがなものであろうか?彼らこそ、敏感に世情をキャッチし、もっと大きく目を見開くべきはずであるのに・・・。
こういう思いを胸に、安岡先生と話をしていた。
これまでも、安岡先生からは、既にいくつかの情報を教えて頂いていた。
例えば、定期的に大分駅前で「憲法改悪反対」や「伊方原発再稼働反対」などの情宣活動をやられているということもお聞きしていた。さらに先ごろは、ちきゅう座に投稿された記事(http://chikyuza.net/archives/97896)の中で、「九州電力への川内・玄海原発廃炉要求」の訴えを3000日以上にわたってスタンディングで継続されている方々がいることも知らされた。
そして今回、安岡さんからお聞きした大分での集会の様子にまたまたびっくり仰天させられたのである。ある集会(ハンセン病訴訟で全国的にも著名な徳田靖之氏の弁護士生活50周年記念講演会)では1200名収容の会場が満席になったという。また別の集会(東京新聞の望月衣塑子記者の講演会)では、400人収容の部屋が満席で、立ち見の参加者が150人、人員オーバーで主催者が消防法違反で始末書を書かされたとか(それでも50人位の方は入りきれずにかえってもらったようだ)。
今や東京と地方は逆転しているのではないだろうか。かつては全てが東京から発信して、やがて地方に届く頃には東京では衰退期に差し掛かるというサークルだったように思う。
インターネットが全世界を瞬時に駆け巡る時代が来ているからであろうか、東京(中央)と地方の差異は確実になくなって来ている。今や、東京は中央ではなくなって、東京地方にすぎないのである。
ある地方から、東京地方への発信、こういう新たなベクトルが形成されてきたと言えるのではないだろうか。
各地から東京地方へと、今後も引き続き大いなる刺激を送り続けてくれるよう、心から願っている。
*この記事は正確を期するために安岡教授に一読して頂き、詳細部をお教えいただいた。お礼を申し上げたい。またその際、次のような添え書きを頂いているので、ご紹介したい。
「主催者側の集客力(?)のせいではなく、大分には普段から関心の強い住民が多い、ということでしょうか?」
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9212:191126〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。