立教大学の周辺
- 2020年 1月 1日
- 交流の広場
- 山端伸英
最近、十数年ぶりに池袋駅から立教大学を歩くことがあった。そのとき断続的に脳裏に浮かんだことを書き留めておく。
1.以前、シールズSEALDSという学生たちの運動のプロセスで、立教大学が大会会場に予定されたが、大学側(吉岡知哉総長)はそれを拒否したという報道を見た。こちらは地球の反対側で、生きるために生きるのに必死であまり注意を払うことがなかった。しかし、その運動は2015年9月の安保法案強行採決で山場を迎えて下り坂になり、有名人を輩出はしたけれど、今では個々人の胸に収まっているかのようだ。そうではない、という運動が出てきてほしい。
2.立教学院は森永の勢力が強く、戦後のいくつかの森永製菓や森永乳業に関連する事件や隠れた事件に揺れている。学内には「松崎奨学金」という給付奨学金制度がある。松崎家は安倍首相の細君の家である。安倍昭惠は立教大学の修士課程を出ている。おそらくは安倍首相に推薦されただろう立教大学初の最高裁判事木澤克行氏は立教学院生え抜きの学生だった。現在、彼は立教学院の理事でもある。
3.高校を出て2年間の放浪は、日大闘争(岸信介の僚友だった古田会頭体制:38億円使途不明金)や佐藤政権の日米軍事同盟阻止に向けた羽田以後の街頭闘争の後で、個人的に厳しい執着と迷いと錯乱の日々であった。二年目には中央大学と立教がまだ授業料で手に届くところにあった。家業の写真屋はポラロイドなどの前兆に父を狂わせていた。既に彼は戦後を酔いつぶして生き、私たちはそこに育った。夜中に酔って帰る父と印画の暗室で怒鳴りあい、また話し合うのだが家は泥沼に向かい、母の日常感覚だけで私たちは生を保っていた。ウェイターや結婚式場仕入課のアルバイトで渡す金を父は何度か私の前で破いて捨てた。大学に入って「自由について」というエッセイを立教の「学生部通信」に書いている。
4.2019年の11月に15年ぶりに立教の周辺を歩く機会があった。それ以前には気を付けて歩くことはなかったが、もう、池袋の公園わきにあった餃子会館や旭屋書店はないようであった。立教の通りに入るところにある交番は健全であったが、周辺は変わっていた。古い家屋を見るといちいち止まって眺めた。
1992年ごろ、高畠通敏を訪ねた際、すでに立教に腰を据えていた吉岡知哉が何か話をしていた。吉岡は立教内の行政に興味を示していた。大学構想の季節だったのかもしれない。既に北岡伸一は小沢一郎と普通の国論議をふるい、御厨貴などの面々も立教をバネにしていた。高畠は三谷太一郎氏への深い敬意を持っていた。吉岡の話を聞きながら、「一号館は残さないとね」と蔦のからまる校舎の肩を持つ茶々を入れると「あんな空間を無駄にしている建物はないですよ」と高畠のほうを見たまま吐き捨てていた。一瞬、高畠はいくぶん咎めるような目でこちらに視線を投げたが黙ってこの「東京大学法学部」から来た「植民地総督」気取りの話を聞いていた。その場には社会学の栗原彬もいた。高畠は立教大学法学部は東大の植民地であるということを冗談を交えて言うこともあったが、それは彼の痛切な経験にも依っている。
60年代に佐藤誠三郎が立教に就職したとき、何か月かして佐藤が東京大学教養学部の教師を兼任していたことが分かった。当時の立教の法学部の設計者であった尾形典男は「二股をかけているとは何事か」と東大法学部の学術委員をしていた丸山眞男を呼ぶと同時に、政治思想史を担当していた神島二郎にどういうことなのか事情を調べろと依頼した。神島が自分の研究室に佐藤を呼んで「調査」している現場を高畠は目撃し、その場から出てきた丸山眞男とかち合わせになったということを、彼は、死の寸前に立教の同窓会で作った高畠ゼミのブログに書いたことがある。その文章は何らかの圧力で消されてしまったが、高畠も東大法学部教授への機会を狙っていた一人であった。私に「岡義達氏はよく法学部教授の職を獲得できたものだ」とつぶやいたこともある。鶴見俊輔は高畠の亡くなった後、「口惜しい知性」という講演を同窓会の主催で行なっている。
立教の蔦のからまる校舎は、現在何と呼ばれているのか知らないが、古いまま健在である。「植民地総督」が総長を務めた期間、どのような力学が働いてその不経済な建物が保存されているのかは、これも寡聞にして知らないままである。北岡伸一氏は東大法学部教授からJAICAの理事長を勤めており、世代が逆であったならば、高畠に「出世主義」の本質を知らしめる良い材料になっていただろう。そして、吉岡知哉には「春琴抄」におけるジャン・ジャック・ルソー的な面があり、それが彼を立教に留まらせたのであろう。
7.立教にも大学闘争期の生き残りがのさばっていた。久野収氏のところにも顔を出しに行っていた二人組がいて、勉強もせんで、のさばっているという点では久野氏も高畠も同じ評価を下していた。高畠がメキシコにいる間に彼らの一人で万年大学院生をやっていた秋野晃司が法学部十年史を作るとかいうことになり、その際、自主講座を続けていた私はひどい侮辱を受けた。既に時事通信で記者をしていた安達功に「自主講座のことなど全く触れられていない」とコメントしたが彼には世代の異なった次元の挿話に過ぎないようであった。高畠が帰国した時点で、彼らのやっている嘘八百は既に印刷に付されていた。 高畠は一瞥するなり権幕を張って、そのいかさま十年史を反古にしてくれた。秋野は最近まで生活学学会の会長をしていた。日本の生活は嘘八百になっているだろう。
8.一年間、小説「黒の福音」の舞台となった会社で働き、いろいろアルバイトをしながら別の大学の大学院に通ったが、とにかく初めから借金で動いていた。院生の仲間にいろいろ助けてもらったことは忘れられない。しかし、指導教官に執拗なパワハラを受けてエレベーターの中で彼を殴った。小さいころから多様なリンチに会い続けていたので反撃できたことはうれしかった。高畠には別荘番に使ってくれたり、朝日新聞の新刊抄欄に世話をしてくれたり、心配をかけた。最後には、彼に無理を言ってメキシコに渡航した。
高畠と初対面の頃、高校時代に書いたものの一部を街頭闘争の合間に書いたと言って読んでもらった。由比忠之進の死を「無駄死」のように書いてある場所を激しく批判された。その際に、私の中学時代のリンチ体験などを話したが、容赦されなかった。由比忠之進の死から51年が経っていることを、今も肝に銘じている。
9.在学中のある日、中学の同級生のお兄さんで東京外国語大学にいた人と立教通り近くの喫茶店で話をしたことがある。「おまえは、突っ込めと言えば突っ込んでいったからな。こんな平和なところにいて気が狂わないか?」「いや、今は女に気がくるっているよ。」
そんなことなどを思い出しながら、在学証明を事務にお願いした。応対してくれた女性は冷静で適切で確実な仕事をしてくれるタイプであった。大学という空間にあるあらゆる事象が、なぜかタイムカプセルのように感じられたのだが、それは私の大学解体論・日本の出世主義イデオロギーへのアンチテーゼと共存できる「保守」空間のように思われた。
10.プリウスで親子を轢いた事件の見分でもしようと思って池袋東口に出たが、少し歩いて完全に迷ってしまった。文芸座は、まだあるのだろうか?人に訊くことさえ、ためらわれた。山の手線は、脱毛や英会話、渡辺直美のコマーシャルに埋もれていた。もう私には、今の今からの日本の論評はできなくなっている。出来ることは、過去を振り返り、過去の時代のコンテキストに過去のいくつかの事象のコンテキストを探り続けることだろう。少なくとも、私には日本の元号は存在していないのだから。
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