中村哲・伊藤淳さんを偲ぶ会(渡部富哉報告)
- 2020年 1月 26日
- 評論・紹介・意見
- 中村哲伊藤淳渡部富哉高世仁
2020年1月24日
三鷹市駅前・「魚民」にて
髙世仁(TBS)・渡部富哉 報告
【問題提起】
国境なき医師団の活動家─実践家として著名な中村哲さんが先日内戦に巻き込まれて亡くなりました。彼のこれまでの活動を知る者にとって、彼の死を惜しむ声と驚きは極めて大きなものがありました。安部晋三内閣も「内閣総理大臣感謝状」をおくりました。新聞、テレピも大きく採り上げました。TBSの報道特集の案内で日頃いろいろと連絡を取り合っていた髙世仁さんから突然、中村哲さんの遭難死の連絡と「彼の活動を見るとき単なるヒューマニズムではとてもあそこまで徹底的にアフガンの内戦に苦しむ民衆に寄り添った献身的な奉仕は出来ない。彼はただ者とは思われない。火野葦平は彼の母方の伯父であり、彼の著作「花と竜」を読むと、その主人公は彼の祖父の玉井金五郎だ。彼の父親の中村勉も共産党の活動家で戦前に検挙歴もある。だから思想に裏付けられたものがあると思うが、それが一体何であるか知らないか」という問い合わせがありました。自分のブログで中村哲を書いて発信したことがあるという私の友人によると、「中村哲は反共だよ、彼はカトリックだ」という返事が帰って来た。私は即座に「それは違う。反共の人物にあんな仕事は出来ない。反共と反日共とは違うんだ。俺もこれまで伊藤律の除名処分は間違いだ、日本共産党の名誉顧問・沖縄の真栄田(松本)三益は当局のスパイだと追及している。(石堂清倫と中野重治の委託による)ことは御存知の通りだ。そして髙世さんに回答したことと同じことを彼に話した。
【火野葦平について】
「社会運動史人名大事典」掲載の「火野葦平」をご覧ください。そこには火野葦平の経歴の最も重要なことが記載されていない。執筆者は知っての上で、意識的にその点を隠蔽したと思われる。知らなかったでは済まされない。火野葦平が自殺に追い込まれた直接の原因になったことだからだ。もし知らなかったとすればこの紹介文は落第である。火野葦平は「戦争協力者であったのか」、「彼は戦犯か」、それは一体誰が決めたのか、「文筆家追放令を受け」と書かれているが、それはどんな組織、または団体が火野葦平を「戦犯追放」に決めたのか、という事は書いてない。その人名事典には「兵隊3部作」と書いてある。あたかもそれが戦争協力者の証であるかの如くだ。それは「土と兵隊」、「麦と兵隊」などのことである。「糞尿譚」が芥川賞を取ったとき、当時、宮本顕治は獄中にいた。彼はこの火野葦平の3部作についてどのように思ったか。その心うちは私には分からないが、椎野悦朗(50年当時日本共産党臨時中央指導部議長)によると、彼はこう私に語ってくれた。
【「戦犯追及人民大会」の開催 】
敗戦の年の1945年12月8日に日比谷公会堂で日本共産党主催の『戦犯追及人民大会が開かれた。そのとき私は全国オルグとして九州で炭鉱の組織作りで忙しかったから、その大会のことは知らなかった。しかし後でその大会で天皇と皇后に並んで、火野葦平が戦犯に挙げられていることを知って大変驚いたし、大いに怒った。一体誰が火野葦平を戦犯リストに入れたのか。それは当時、知識人対策は宮本顕治の担当だから、当然、彼がやった仕事だ。これは宮本たち、国際派の人たちは戦後、徳田球一に対して「徳田は人民戦線を知らない」と批判しているが、敵味方の線引をどこにするかという重要な問題だ。これは彼らが獄中にいて知らなかったでは済まされない問題だ。
【火野葦平と九州の「全協」の活動】
俺たちが戦前に九州で活動していたとき、俺たちはどれだけ彼とそのグループに世話になったか分からない。俺のアジトも彼が作ってくれたんだ。俺が中村の父親の勉たちと一緒に、1932年に福岡で全協の組織活動をし、闘争したとき、君(渡部)が持っている「改造」1931年の「筑豊炭田のゼネスト」に紹介されているような闘争がしょっちゅう起きたんだ。その記事に出てくる「モグラ戦術」というのは俺たちがやった闘争戦術だった。闘争と弾圧はいたちごっこで、しょっちゅうやられた。俺は未成年のときは捕まっても留置所程度で済んだが、二十歳をこえるとそうは行かなくなった。とうとう筑豊にはいられなくなって山口県の宇部炭鉱に逃げた。手配書が廻ってきて山口も危なくなった。 そのとき山口の原田長司(戦後日本共産党山口県委員長)が国鉄に勤めていて、俺に国鉄の切符をもってきて貨車に隠れて山口を脱出し、それで再び筑豊に帰って活動したんだ。そのときに俺を匿ってくれたのは火野葦平の文学グループだった。そんなこと宮本顕治などは全く知らないし、調べもしないで「俺たちが獄中にいたときに軍部に協力して“兵隊文学”で芥川賞を取ったことは許されない。彼は戦犯だ」と決めつけて戦犯リストに載せて追及したんだ。
【紫村一重のこと】
山中村勉がやられたとき、俺は5年の実刑をくらって広島刑務所から出所した。そのときに、紫村一重という火野葦平の書生をやっていた人が、出迎えに来てくれた。その紫村一重は中村や俺たちが弾圧されて、中村は確か2年(猶予5年)、俺は広島刑務所に下獄した。西田信春と真栄田三益が党中央から派遣されて、弾圧で壊滅した九州の党組織(全協)の再建のために九州にやってきたのはその翌年のことだ。そのとき紫村一重は西田信春によって入党したんだ。俺は広島刑務所から出獄したとき、紫村は既に出所していて更正会(思想犯の更正施設)の仕事をしていたが、俺を出迎えに来てくれた。そんな彼もやがて日本にはいられなくなって、戦争末期には満州に渡り、そこでまた満州合作社事件に巻き込まれて逮捕され、日本の敗戦まで投獄されていた。彼の事件はゾルゲ事件の後に関東憲兵隊が、尾崎秀実が満鉄調査部だったから、その残党がいるはずだとして合作社事件をでっちあげて検挙したという事件だ。
【火野葦平の自殺】
宮本顕治は何も調べていないんだ。多分、やっかみだと思う。火野葦平がどれほどそれを悩んだことか、そして遂に彼は自殺してしまったんだ。あの「軍隊3部作」というのは、読めばわかるが、戦争讃美どころか、どれほど戦争によって兵隊が苦しんでいるかをリアルに書いたものだ。火野葦平の作品は戦時下であそこまで一般の兵隊の苦しい状況を書いたものは他にはないのではないか。──椎野はこう言って怒り、絶句した。──私はいまそのことを思い出す。
【火野葦平の戦犯という汚名は撤回すべきだ】
宮本顕治などにはこんな闘争体験はないし、これは共産党が訂正すべき誤りだ。椎野はこう語った。その人名事典に書かれている「文筆家追放令」とはどんな組織なのか、何故それを書かないのか。おかしいではないか。火野葦平を自殺に追い込んだのは日本共産党の宮本顕治です。それは共産党の責任とも言える。本日配布した「社会運動史人物大事典」の末尾に、参考文献として「火野葦平論 五月書房」と書いてある。五月書房の先代の社長は火野葦平の文学グループで、戦前から九州で書店を経営していた。後1985年に『徳田球一全集』も椎野の関係でそこから出版した。筆者の『偽りの烙印』も五月書房からの出版であり、本日参加している合沢清さん(ちきゅうき座)も当時五月書房の編集者だった。
【椎野は予防拘禁所で入党した】
私が予防拘禁所に拘禁されていたとき、女房は生活が出来なくなり、一家の生活のために若松港でささやかな食料品などを商いするというので、俺が予防拘禁所で中村所長に面会して、「俺は刑期も終わって、何んの罪も犯していないのに拘禁された。それは不当であるが、さらに女房、子供には罪がない。いま生活に困っている。これは当然国家が面倒を見るべきだ」と「家族が若松港でささやかな露天商やるという。それには当局の鑑札がないと出来ない。その鑑札と露天の販売台を官費で支給してくれ」という要求で所長に再三面会して交渉した。拘禁所の中村所長は処理に困ってしまった。徳田球一は椎野悦朗がしばしば拘禁所長に呼ばれて話し込んでいることを知って、「一体椎野は何を署長と話し込んでいるのか」と不安に思って、或るとき直接椎野に問い合わせた。その話を聞いた徳田は「これまで何年も俺たちは要求を出して獄中闘争をやってきたが、それは凡て自分達の待遇改善の要求だった。君のように家族の生活を政府が保障しろ、という要求はこれまで聞いたことがなかった。この闘争は最も労働者的な要求であり、我々も支援するからどんどん交渉しろ」と椎野を励ました。こうして椎野の要求はとおった。そのとき徳田は椎野に「君はいつごろ共産党に入党したのか」と聞いた。椎野は「当時、筑豊の闘争現場には共産党の組織がなかったから、俺はまだ入党していない」と答えた。すると徳田は、党員でもない者が、「たかが労働運動で懲役5年の実刑」ということに戦中の社会情勢のきびしさを実感したという。
【中村哲の思想形成】
中村哲は1946年に生まれたという。火野葦平の没年は「事典」によると、60年1月とある。となると中村哲が14歳のときだ。火野葦平が自殺した原因も当然知っていただろう。反日共が真実かどうかは知らないが、それは当然の事ではないか。それは中村哲にどれほどの衝撃を与えたことだろうか。それは伊藤律の息子淳さんにもあてはまる。伊藤律の帰国後も伊藤律の身辺にはもっとも悲惨な事が次々に起こったのだ。それを知る者は誰もいない。日本共産党の誤りは直ちに訂正すべきだとして筆者ら本日ここに参加している井沢、井上、村井さんたちも一緒に伊藤律の名誉回復のために活動してきた。
【中村哲とゾルゲ事件にどんな関係があるのか】
ところで火野葦平や中村哲の父親の活動した年代とは全く異なる1941年のゾルゲ事件と、中村哲の思想形成に一体どんな関係があるのか、ゾルゲ事件の端緒は伊藤律の供述によるものとする、共産党の伊藤律の除名処分の声明は拙著『偽りの烙印』によって崩壊し、松本清張の「革命を売る男─伊藤律」は文藝春秋がその誤りを認めて遺族に謝罪し、誤りを訂正する適切な処置をとった。後に加藤哲郎教授研究の米軍資料(ウイロビー資料)によって伊藤律スパイ説を吹聴し、尾崎秀樹に盛んにたきつけてきた川合貞吉こそ、米軍情報部ウイロビーの手先で、共産党の情報とひきかえに月額2万圓の報酬を得ていた米軍のスパイであったことが判明した。この最も卑劣で悪質なスパイは「尾崎秀実を当局に売った伊藤律の破滅のために闘う」などと称して尾崎秀樹を抱き込んで、ウイロビーの極秘の活動を展開してきた。これは加藤哲郎教授(「ゾルゲ事件─覆された神話」平凡社新書 2014年)によって完膚なきまでに暴かれた。
【青柳喜久代とどんな関係があるのか】
『偽りの烙印』第三章「伊藤律端緒説の謎を追う」は「伊藤律の検挙の前からすでに北林トモは監視されていた!」(65頁)、第五章「青柳喜久代というひと」が掲載されている。伊藤律のゾルゲ事件端緒説はこれによって完全に崩壊した。今回公開された太田資料によって、さらにこれが裏付けられた。 青柳喜久代の兄喜兵衛は火野葦平著「花と竜」に実名で登場している。彼は火野葦平が主筆だった「九州文学」の挿絵を担当していた画家だった。彼は1938年8月に38歳の若さで亡くなった。葬儀は九州文学社葬として営まれ、「九州文学」9月号は「青柳喜兵衛追悼特集号」になっている。伊藤律のゾルゲ事件端緒説は川合貞吉によれば、尾崎秀実を売り渡した伊藤律に対する復讐だったという。しかしこれは彼だけの専売特許ではなく尾崎秀樹著「生きているユダ」もそれに同調した作品であるが、さらに大きな影響を与えたものは何と言っても松本清張『日本の黒い霧』所収「革命を売る男・伊藤律」だろう。その松本清張も火野葦平のグループだった。彼の場合は遺族がその誤りを認めて訂正の意思を表明し、出版社がその処置を取った。 伊藤律のゾルゲ事件端緒説は今日まで、日本共産党はそれが誤りであることを認めていない。先週、日本共産党の大会が開かれた。伊藤淳はこの機会に伊藤律のスパイの汚名を晴らしたいとして食道ガンに侵され、病床のなかで、共産党の大会に向けてその要請文の執筆に取り組んでいた。私が新しく公開されたゾルゲ事件に関する太田耐造資料その他の資料を持って見舞いに行ったとき、既に淳さんの病状は急変し、とても無理だと見極めて引き揚げてきた。淳さんの死去はその1ヶ月ほど後のことだった。さぞや無念のことだったろう。冤罪事件は大逆事件をはじめこれまでも限りなくあったし、今後もあり続けるだろうが、日本共産党は伊藤律スパイ端緒説を撤回しない限り冤罪事件に発言権はない。
今回、私が急に中村哲を偲ぶ会をやろうと思い立ったのは、中村哲と伊藤淳、この二人の死去が昨年続いてあったことと、さらに昨年は石堂清倫・中野重治の連名による委託に答えて、西田信春を当局に売り渡した男、真栄田(松本)三益は当局のスパイである。という講演を行った。西田信春と一緒に九州の中村勉(椎野悦朗)たちが弾圧され、組織が壊滅した後の九州地方の組織の再建のために九州に派遣され、共産党九州地方委員会の再建を果たしたときに、西田信春は検挙され、その日のうちに当局の拷問により虐殺された。その事件の詳細と真栄田(松本)三益は当局側のスパイであるという事実を昨年私の最後の講演会で報告した。それは日本共産党不破哲三元委員長と志井和夫現委員長、共産党資料室宛てに送った上で明治大学で講演したのだ。それは共産党の自浄努力を期待しての事だったが「ないものねだり」というものであったのだろうか。それにしてもこれまで『偽りの烙印』、『白鳥事件』「解明されたゾルゲ事件の端緒」(真栄田三益スパイ論)などを書いてきた筆者に日本共産党から何一つ抗議も反論も来なかった。黙殺したままだ。党大会が3年ぶりに開催された。果たして期待していた真栄田(松本)三益の日本共産党名誉顧問の称号に何か変化があったのか。勿論、伊藤律の名誉回復もない。伊藤淳さんの墓参と偲ぶ会は本年3月の彼岸前後に墓参を企画し、グループで開催する予定だが、急に中村哲の遭難により因縁めいたものを感じ、またTBSの髙世仁さんからの問い合わせにより、中村哲さんの思想的なルーツに関連して、知られざる一面を紹介し、こうした小集会がもっと沢山開かれることを祈念して、ささやかながら偲ぶ会を計画した次第です。 福岡のペシャワールの会からも資料が届くことになっています。ご多忙の折りご参加に感謝します。
【付録】 中村哲さんが九州大学医学部卒だとすると、中村哲さんの思想形成にもう一つのルーツがあると思われる。それはやはり椎野悦朗の筑豊のオルグのときと重なるエピソードであるが、時間に余裕があれば報告することにしてひとまず報告を終えて献杯する。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://chikyuza.net/
〔opinion9390:200126〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。