今深く考えることと行動することは同じである
- 2011年 5月 28日
- 評論・紹介・意見
- 9条改憲阻止の会
■ 東伊豆にミカン狩りに出掛けた。「9条改憲阻止の会」の会員でもある藤井さんの紹介で甘夏を頂きに行ったのである。藤井さん夫婦にも手伝ってもらって50数個の箱詰めができた。これは第八次の救援活動に野菜とともに持参するものである。ミカン狩りなんて子供の時以来のことだが楽しかった。たわわになる手いっぱいの甘夏を木に登りもぎ取りながらこうした収穫の楽しさの奪われる福島第一原発の周辺農民のことをあれこれ想像した。これがどのような意味を持つことか、政治家や官僚、あるいは実業家たちは考えたことがあるのだろうか。僕らの大震災救援活動は支援物資を届けるという最初の段階から次のステージに移りつつある。収拾の見通しの立たない原発震害の周辺の人々の支援活動を中心に多様な活動が構想されはじめている。活動は長期になるが、放射能被害から防衛、損害賠償などの支援、地域住民の復興支援などが模索されている。第一原発の周辺に拠点場所を設置した具体的な活動が必要であり準備に入っている。
■ 世界は動いている。「原発についての安全神話」が長く続いてきたがこれは今や崩壊し、その事態は世界を動かしている。原発利権や利害に群がってきた面々は嵐が過ぎるのを待っている。これは彼らが考えるほど容易ではないしまた短期に終わることでもない。何故なら「原子エネルギーの制御可能」という理念(科学的知識)の根源が疑われているからであり、これはある意味で何百年に一度という大事件なのだ。近代科学がその根本で問われている事態が生まれているのだ。新しエネルギーの発見とその社会化によって開かれてきた近代社会が転換の場面に立っているのだ。どれほど深く考えても考え過ぎることのない事態にある。脱原発への道には時間が要するにしても、以前のような「安全神話」が流通することはないのだ。人々の脱原発や反原発という声は静かであるが現在という時代の革命を意味しているのであり、もはや後戻りすることはない。いつの時代も権力やその周辺の人間は革命的事態に保守的である。現実という名の現状の維持に拘束されているからだ。それを変えるのは国民、市民、地域住民の有形無形の声である。6月11日(土)は脱原発100万人行動であるが街に出よう。街に出て脱原発の声を溢れさせよ。
■ 5月29日(日)には「世界の原発廃棄に向けて」という講演・討論会がある。時間は午後1時からで場所は明治大学リバティパワー6F《1063教室》。共催;たんぽぽ舎、9条改憲阻止の会、ルネサンス研究会。週末は各種の脱原発集会がある是非とも参加を。(文責 三上治)
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