明治維新の近代・18 「天皇の本質的意義に変わりはない」―和辻哲郎『国民統合の象徴』を読む
- 2020年 2月 20日
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- 子安宣邦
「国民の全体意志に主権があり、そうしてその国民の統一を天皇が象徴するとすれば、主権を象徴するものもほかならぬ天皇ではなかろうか。国民の統一をほかにして国民の全体意志は存しないであろう。かく考えれば「日本国民なるものが統治権または統治権総攬の権を有するものであって、天皇が有せられるのではない」という博士の断定は、まことに不可解のものとならざるをえない。」
和辻哲郎『国民統合の象徴』
1 「国体は変更する」
「大日本帝国憲法改正案」は昭和21年(1946)6月20日に新しく構成された第90回帝国議会の衆議院に提出された。衆議院は若干の修正を加えたのちに圧倒的多数をもってこれを可決した。改正案は貴族院に送付され、貴族院も若干の修正を施して10月6日にこれも圧倒的多数で可決した。改正案は枢密院の審議を経て11月3日に「日本国憲法」として公布された。その施行は翌昭和22年(1947)5月3日である。いま私がここに「帝国憲法改正案」としての「日本国憲法」の時日的成立過程を記すのは、「国体」をめぐる和辻・佐々木論争は「日本国憲法」のこの成立過程に深く関わるからである。
貴族院議員でもあった法学者佐々木惣一は10月5日の貴族院本会議で「改正案」について「今日帝国憲法を改正することを考える其のことは、私も政府と全く同じ考でありまするが、唯、今回提案の如くに改正することは、私の賛成せざる所であります」と反対意見をのべた。その際佐々木は十項目に及ぶ反対理由を挙げている。後の議論にも関わる反対理由の要点をここに挙げておこう。第一、万世一系の天皇が国家の統治権を総攬するというのがわが国の政治的基本性格であり、また国体の事実であった。伝統的国民感情を顧みず国体を安易に変更してはならない。第二、統治権の総攬者である天皇を廃するのではなく、内閣など協力機関の徹底的な改革を行い、施政に正しく民意が反映されるようにすべきである。第三、内閣など協力機関が行き詰まり機能しない国内外の政治的危機にあって天皇のご判断を仰がねばならぬ事態が生じる。「已むを得ざる場合に天皇の御判断のみに依って決定せられても国内は収まるのであります。是は国民の心理作用でありまして、単なる法的の作用及び実力の作用ではありませぬ。」天皇には「特殊の重大な御職分」というものがあるのであって、これを改正案は考えていない。第八、政治的基本性格としての国体を変更することは精神的・倫理的方面より見た国体の変更にも影響を与えざるをえない。国体の変更とは国家がその個性を失うことである。[1]
これらの理由をもって「帝国憲法改正案」に反対した佐々木は、その「改正案」すなわち「日本国憲法」がまさに成立しようとするその時期に、この成立とはわが国体が変更される重大な事態であることをいうのである。佐々木は『世界文化』の昭和21年(1946)11,12月合併号に「国体は変更する」を発表するのである。この論文から「国体」概念をめぐる和辻・佐々木論争が展開されていくのだが、その論争に入る前に佐々木によって何がいい出されたかを確認しておこう。それはこの論文のタイトルが示す通り「国体は変更する」ということである。佐々木はこういっている。
「従来、国体の概念に該当する事実としては、万世一系の天皇が、万世一系であるということを根柢として統治権の総攬者である、ということがあった。其の事実が日本国憲法においては変更する。即ち、天皇が統治権を総攬せられる、ということが全くなくなるのである。」「主権の存する日本国民ということは、明に、統治権の総攬者が天皇でない、ということを示すものである。」「日本国憲法によれば、天皇が統治権総攬者である、という事実は全くなくなる。之を称して、国体が変更する、というのである。」[2]
佐々木はここで天皇が「統治権の総攬者」であることを「国体の概念に該当する事実」だといっている。佐々木のこの論文を含む著書『天皇の国家的象徴性』(有斐閣、1957)の「序」で彼はこの「国体の変更」という事態をこういっている。「日本国憲法が帝国憲法の改正として制定施行せられて、天皇は、統治権総攬者ではなく、国家的象徴である、ということとなり、そして、国民が統治権総攬者である、ということとなった。即ち、天皇の本質が変更し、従て、わが国家の政治的基本性格たる国体は変更した。」[3]天皇中心的な日本国家のあり方が「国体」概念を構成してきたのであり、それからすれば天皇から国民への国家主権の移行は、「天皇の本質が変更し、従て、わが国家の政治的基本性格たる国体は変更した」といわざるをえない危機的事態だということになる。敗戦後日本の国家的事態は「国体」概念の変更どころか、むしろその消滅をいわざるをえないような危機的事態であったのであろう。1946年の「国体は変更する」という佐々木の言葉に、天皇主権的国家の体質的変更に国民は果たして応えうるのかという重い問いかけを私は聞く。だが和辻は佐々木のこの言葉に国民への重大な問いかけなどを聞くことはなかった。彼は「国体は変更する」という佐々木の言葉自体の誤りを追及したのである。
2 和辻・佐々木論争の意味
佐々木の「国体は変更する」を読んだ和辻は直ちに「国体変更論について佐々木博士の教えを乞う」を雑誌『世界』(1947年1月号)に書いて佐々木の論を批判した。両者の議論は論争の形をとって展開されたが、その論争の過程をここで追うことはしない。問題は「国体は変更する」という佐々木の説の誤りをいうことによって、和辻は何を己れの言説上に成立させていったかである。
佐々木は前に引いたように「国体の概念に該当する事実としては、万世一系の天皇が、万世一系であるということを根柢として統治権の総攬者である、ということがあった。其の事実が日本国憲法においては変更する」といっていた。天皇が統治権の総攬者であるところに佐々木は日本の「国体」の事実を見るのである。佐々木が「事実」というのは、日本という国家の法的存立の根本が天皇主権に具現化されているということであろうか。佐々木は和辻への反論の中で、「憲法論における国体は政治の様式に着眼して見た国家の形体である」といいながら、国家存立の基本は何人が国家統治権の総攬者であるかにあるという。
「国家という政治生活体として最も基本的と考えられるものに着眼しなくてはならぬ。それは、何人が、国家の包括的の意思力たる統治権(日本国憲法の用語では国権である)を総攬する者(日本国憲法の用語では、主権を有する者)即ち統治権の総攬者(日本国憲法の用語によれば主権者)として定められているか、ということでなくてはならぬ。これが定められなくては、国家として存立し得ないのである。」[4]
佐々木は何人が国家統治権の総攬者(主権者)であるかによって「国体」を規定しようとするのである。この「国体」の規定自体は天皇主権の帝国憲法から国民主権の日本国憲法への移行にあたって大きな意味をもっている。まさしくこの移行を佐々木は「国体の変更」として重大視しているのである。和辻はこの佐々木の「国体」概念、すなわち変更されようとするこの「国体」の概念に異議をとなえるのである。和辻は「何人が国家統治権の総攬者であるか、という面より見た国柄は、久しく「政体」という概念によって示されて来た」といい、なにゆえわざわざ「国体」概念をもちだし、「政治の様式より見た国体」と「精神的観念より見た国体」の区別をしたりしながら佐々木が「国体の変更」をいったりすることは理解できないというのである。さらに和辻は佐々木が「万世一系の天皇が、万世一系であるということを根柢として統治権の総攬者である」ことを「国体の概念に該当する事実」としていることについてこういう。
「それは千年以前の日本において存し、その後漸次実質を失って、短期間の例外をほかは約七百年間あとを絶ち、明治維新において復興され、帝国憲法によって明らかに表現された事実にほかならない。すなわち日本の歴史を貫いて存する事実ではなく、千年前の事実であり、また明治以後に復興された事実なのである。千年前の事実はすでに千年間も埋没していたのであるから、それが今なくなるということは問題ではない。問題になるのは、明治以後、特に帝国憲法において確立された事態が、今変更する、ということである。」[5]
天皇が国家的「統治権の総攬者」であることをその「事実」とするような「国体」の概念は、「明治維新において復興され、帝国憲法によって明らかに表現された」ものだと和辻はいうのである。佐々木はこの和辻の批判に反論するが、その反論に成功しているわけではない。天皇が「統治権の総攬者」であることによって構成される「国体」の概念は明治維新と明治国家の産物であることに間違いはない。佐々木の「国体」は文字通り「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(「帝国憲法」第1章第4条)に従って構成されたものである。だから佐々木が「国体は変更する」というのも「明治以後、特に帝国憲法において確立された事態が、今変更する、ということ」に過ぎないのではないかと和辻はいうのである。和辻の口調は皮肉ぽくあざ笑うかのごとくである。
「とすると、佐々木博士が「国体は変更する」として強く主張しようとせられることは、長期にわたる歴史的存在としての日本国に何か重大な変更が起こるということではなく、明治以後に日本に建てられた政体が、過去の日本にとって別に珍しくもない状態の方へ、一歩近づいたような変更をうける、ということに過ぎないのではなかろうか。それを博士が非常に重大な問題のように主張せられるのが、わたしにはどうにもわからないのである。」
この和辻による佐々木の「国体」概念の誤用に対する皮肉めいた批判の言は、この論争の、あるいは和辻の批判の本当の意味を明らかにしている。
3 何が変わり、何が変わらないのか
天皇がわが国家の統治権の総攬者であることを、わが「国体」の重大な事実だとする佐々木において、統治権の総攬者を国民とする「日本国憲法」は「国体を変更する」ものであった。それは日本の国家的存立原理の重大な変更であった。これに対して和辻は統治権の総攬者としての天皇とは明治に始まる近代国家日本の構成であって、日本の歴史を通貫するような「国体」の事実ではないとするのである。和辻からすれば「日本国憲法」で変更されるのは「政体」であって「国体」ではない。では敗戦とその帰結としての帝国憲法の改正を通じても変更されないという「国体」とは何か。敗戦をはさんでなお連続する「国体」などありうるのか。われわれはここに至って初めて本論の主題というべき問題に直面したことになる。だがこの問題に正面する前に佐々木に向けられた和辻の皮肉まじりの軽妙な文章を見ておきたい。
「佐々木博士は、日本国憲法によれば天皇が統治権総攬者であるという事実は全くなくなる、ということを非常に熱心に主張せられた。それに対してわたくしは、明治以前七百年間天皇は統治権総攬者ではなかった。それだのに博士はなぜ珍しそうにその「なくなる」ということを力説せられるのであろうか、という疑問を提出した。しかし考えてみると、前にそういう状態があったからといって、今そうなることがよいとはいえない。前の状態が好ましくない状態であったとすれば、今そうなることも好ましくないに相違ない。そこで問題は、統治権総攬者であるということが天皇の意義にとってそれほど中枢的なものであろうかという点に移る。もしそれが中枢的なものであるならば、この七百年あるいは千年にわたる日本の歴史において天皇はその中枢的な意義を失っていたことになる。もしそうでないならば、統治権総攬者でないにもかかわらず、七百年あるいは千年にわたって尊皇の伝統を持続したところに、天皇の中枢的意義が存すると見なくてはならぬ。」
和辻はここで佐々木の「国体は変更する」という大事をいう重い言説を実に軽妙な言葉で批判解体し、天皇が統治権総攬者でないにもかかわらず、天皇の中枢的意義は失われることなく日本の長い歴史過程に存在してきたといってしまっている。私は和辻の文章を写しながら、事の大事をいう文章の軽さが気になった。それは批判的文章がとる修辞なのか、文化論的文章の軽さなのか。和辻の批判に答える佐々木の事柄の大事を重くいう文章を読みながら、和辻の文章の軽さをいっそう思うのである。佐々木はいう。「併し、今日、わが国の政治体制が国民主権か君主主権かということは、極めて重大な根本問題であって、最も明確な観念を持っていなくてはならぬ。そのいずれであっても、大して差異はない、というような観念は、私の考によればこれを棄てなくてはならぬ。」[6]
だが和辻は軽々と「天皇が日本国民の統一の象徴であるということは、日本の歴史を貫いて存する事実である」というのである。そしてそれは敗戦によっても変わることのない「事実」だというのである。
4 天皇は「国民統合の象徴」
「天皇」は「すめらみこと」と訓まれるが、「すめら」は「すべる」「統一する」の意であり、「みこと」は敬語であるから、「すめらみこと」とはすべられるということを尊んでいった言葉である。今風にいえば統一の働きを人格化したものといえるといったのちに和辻は、「とすれば「すめらみこと」とは本来国民統合の象徴であったのである」という。さらに和辻は日本の原始宗教的地盤からの天皇の発生をいっていく。「原始宗教の地盤から天皇が発生したということは、原始集団の人々が集団の生きた全体性を天皇において意識したということを意味する。原始人は集団の全体意志というごときものを考えたり認めたりすることはできなかったが、しかし祭祀を通じて全体意志は形成され、祭祀によってそれは発動した。その際にこの全体意志を表現する地位に立ったのが天皇なのである。だから天皇は初めから集団の統一の象徴であったということができる。」
日本古代の祭祀的=政治的共同体が生み出した「全体意志の表現者」という天皇の本質規定はその後の長い歴史を通じて、統治権が朝廷から離れた時代においても維持されてきたと和辻はいう。室町時代の民衆的な物語や謡曲に依りながら和辻は「いかに有力な大名もかかる統一の象徴とはなり得なかった。ただ天皇のみが、何の権力もなく何の富力もなかったにかかわらず、日本国民の統一を示し得たのである」というのである。和辻のこういう語り口を見ると、この「天皇」もまた和辻の語りの産物だと思われてくるが、それは後の問題として和辻は日本の歴史を貫いて存在するこの「天皇」を見出してこういうのである。
「かく考えれば天皇は日本国民の統一の象徴であるということは、日本の歴史を貫いて存する事実である。天皇は原始集団の生ける全体性の表現者であり、また政治的には無数の国に分裂していた日本のピープルの「一全体としての統一」の表現者であった。」
これは佐々木の国体論への反論という域をはるかに超えた天皇論である。敗戦の結果というべき「象徴天皇」を「日本の歴史を貫いて存する事実」として積極的に容認しようとするのである。和辻がここで「日本のピープル」というのは、「日本国の政府の窮極の形体は、ポツダム宣言に合致して、自由に表明されたジャパニーズ・ピープルの意志により樹立さるべきである」という連合軍の立場を周到に読み入れたものである。彼は歴史的にジャパニーズ・ピープルの全体的意志の表現者として天皇があったといっているのである。これは恐ろしい天皇をめぐる歴史解釈の言辞である。それは十五年戦争の惨苦と犠牲の結果というべき日本国民の主権性を再び天皇に取り戻してしまうのである。
5 天皇の本質的意義に変わりはない
佐々木は「国体は変更する」といった。それは統治権総攬者(主権者)が天皇から国民に移ることを意味した。佐々木はこのことを、「主権の存する日本国民ということは、明らかに、統治権の総攬者が天皇でないことを示すものである」という言葉でいった。この言葉を受けながら和辻はいうのである。天皇から国民への主権の移行を雲散霧消させてしまうことがどのような言語でなされるか、よくよく見るべきだろう。
「しかしこの規定(注:主権の存する日本国民)において主権の存するのは「国民の全体性」であって国民を形成する個々人ではない。英訳に用いられるpeopleの語は集団としての国民をさしていると思われる。従ってこの個所は「日本国民の主権的総意に基づく」というのと同じ意味に解してよいであろう。しからば主権を持つのは日本国民の全体意志であって、個々の国民ではないのである。もちろん個々の国民も全体意志の形成に参与している。しかし個別意志と全体意志とは次序の異なったものである。国民の全体意志に主権があり、そうしてその国民の統一を天皇が象徴するとすれば、主権を象徴するものもほかならぬ天皇ではなかろうか。国民の統一をほかにして国民の全体意志は存しないであろう。かく考えれば「日本国民たるものが統治権または統治権総攬の権を有するものであって、天皇が有せられるのではない」という博士の断定は、まことに不可解のものとならざるを得ない。」
かくて和辻は戦後の象徴天皇の成立に「天皇の本質的意義」におけるいかなる変更も認めることはないのである。「「日本国民統合の象徴」としての天皇が日本国民の主権的意志の表現者にほかならぬとすれば、天皇の本質的意義に変わりがないのみならずさらに統治権総攬という事態においても根本的な変更はないといわなくてはならない。」
これは恐ろしい言葉である。1946年の憲法改正を通じて成立する「象徴天皇」と「その地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(第一章・第一条)という条文に天皇の本質的意義における変更を読まないという和辻の理解とその理解を導く知性を私は恐ろしいというのである。和辻についての恐ろしさを私はすでにいった。「全体的意志の表現者」たる天皇の原型的成立を神話や古代資料によって明らかにした『尊皇思想と伝統』(論文:昭和15、単行本:昭和18)の記述がそのまま戦後の『日本倫理思想史』上巻(昭和26)の序章をなしていることを私は恐ろしいことだといった[7]。日本の天皇の原型的把握は昭和の戦争と敗戦によっても揺るぐことは全くなかったのである。〈天皇の原型的把握〉は和辻において〈天皇の本質理解〉としていっそう確信の度を強めていったように思われる。昭和の戦争というアジアと日本に大きな惨禍をもたらした事実は彼の〈天皇の本質理解〉を揺るがすことは全くなかったのである。これは恐ろしいことだ。だが何が恐ろしいのか。私は和辻の知性といった。だが本当に恐ろしいのは和辻の知性が国家的危機の度に見出し、国民に保証していく〈天皇という存在とその本質〉ではないのか。
和辻が『尊皇思想とその伝統』を公表した昭和15年(1940)とは行き詰まる大陸における戦争が世界戦争というより大きな戦争への参入に出口を求めようとしている国家的危機の時である。その時に和辻は「全体的意志の表現者」たる天皇とその天皇との自覚的一体化を求める「尊皇心」とを説いていったのである。そしてその敗戦という現実の国家的国民的な分裂の危機にあって和辻は「国民の全体意志に主権があり、そうしてその国民の統一を天皇が象徴するとすれば、主権を象徴するものもほかならぬ天皇ではなかろうか」と「象徴天皇」による国民の統合を説いていくのである。
「天皇の中枢的意義が国民の全体性の表現というところにあり、そうしてその国民の全体性が統治権の源泉であるならば、その天皇を統治権の総攬者と定めることと、国民を統治権の総攬者と定めることとの間には、憲法の条文が表に示しているほど大きい区別は実質的にはないことになるのである。」[8]
われわれは和辻のこうした言辞の恐ろしさとともに、こうした言辞を導く「天皇」という存在の恐ろしさを知るのである。それは日本の国家的危機にあたって、あるいは日本社会の分裂の危機にあたって常に救済符のごとく求められる存在である。だが救済符は危機や分裂の真因を欺き、それへの依拠心を人々に増大させるだけである。敗戦から75年のいま、明治維新から150年のいまふたたび天皇が救済符として求められている。かつて和辻は救済符としての天皇を原初の祭祀的共同世界に求めた。だが壊頽する現代日本の国家社会に直面する21世紀の日本知識人は象徴天皇に太古の名残りの救済符を求めるしかない。
「かつてレヴィ=ストロースは人間にとって真に重要な社会制度はその起源が「闇」の中に消えていて、たどることはできないと書いていました。親族や言語や交換は「人間がそれなしでは生きてゆけない制度」ですけれども、その起源は知られていない。天皇制もまた日本人にとっては「その起源が闇の中に消えている」ほどに太古的な制度だと思います。/けれども、二十一世紀まで生き残り、現にこうして順調に機能して、社会的安定の基盤になっている。いずれ天皇制をめぐる議論で国論が二分されて、社会不安が醸成されるリスクを予想した人はかつておりましたが、天皇制が健全に機能して、政治の暴走を抑止する働きをするなんて、五十年前には誰一人予測していなかった。そのことに現代日本人はもっと「驚いて」いいんじゃないですか。」[9]
われわれが驚くべきなのは、われわれの主権を象徴天皇に譲り渡しているあり方がここにまでいたっていることである。
[1]「帝国憲法改正案に対する佐々木惣一による反対意見」貴族院議事速記録第39号、官報号外、明治21年10月6日。十項目に及ぶ長文の反対意見の一部を私の要約によってここに引いた。佐々木の反対意見は独立して論じるべき内容をもっている。
[2]佐々木惣一「国体は変更する」、和辻哲郎『新編国民統合の象徴』所収、中公クラシックス、2019。
[3]佐々木惣一「『天皇の国家的象徴性』序」上掲『新編国民統合の象徴』所収。
[4]佐々木惣一「国体の問題の諸論点—和辻教授に答う」『新編国民統合の象徴』所収。
[5]和辻「国体変更論について佐々木博士の教えを乞う」『新編国民統合の象徴』所収。
[6]佐々木惣一「和辻博士再論読後の感」『新編国民統合の象徴』所収。
[7]前回「明治維新の近代」17回「祀る神は祀られる神であるー和辻哲郎『日本倫理思想史』を読む」。
[8]和辻「佐々木博士の教示について」『新編国民統合の象徴』所収。
[9]内田樹「私が天皇主義者になったわけ」『私の天皇論』『月刊日本』一月号増刊、2018年12月。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2020.02.18より許可を得て転載
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〔study1103:200220〕
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