9年目の3月11日に、新型インフル特措法の改正に反対する。
- 2020年 3月 12日
- 評論・紹介・意見
- 安倍政権明文改憲.澤藤統一郎
昨日が3月10日、東京大空襲によって無辜の非戦闘員10万人が虐殺された日。戦争被害だからとして到底甘受しえない、あまりに巨大で悲惨な体験。それまで多くの国民にとって、戦争とは外地で行われるものであり、危険は出征した男たちが引き受けるはずのものであった。1945年のこの日は、戦争とはすべての国民に否応のない深刻極まる惨禍をもたらすものと思い知らされた日でもある。
戦争は天災ではなく人災である。起こした人がおり責任者がいる。その戦争責任の追及が求められる。中国に対しても米英に対しても、戦争を仕掛けたのは日本の側なのだから、虐殺された10万人の怨みは、戦争をたくらんだ日本の為政者・天皇制政府にも向けられなければならない。最高責任者天皇の責任を追及しなかったことが、歴史的禍根である。
そして、本日が3月11日。2011年の東日本大震災の記憶は生々しい。東北3県の2万余の人が津波でかけがえのない命を失った。天災の被害者には、哀悼の意を捧げるしかない。しかし3・11には、天災にとどまらず戦争と本質を同じくする人災がそれに続いた。福島第1原発の事故による放射線被害である。地震大国日本において原発を国策とし、しかも津波対策を怠った者の責任を不問に付してはならない。今、民事・刑事の訴訟を通じて、この大事故の責任追及が行われている。なお、当時の私の思いは、下記のブログに書き尽くしている。
http://article9.jp/wordpress/?p=4563
あの日から9年経った今、世はコロナウィルス禍に萎縮した事態にある。これも、一面は天災であり、またもう一面は人災でもある。安倍政権のコロナ対策は、納得しうる根拠に欠け、無為無策のうちに感染被害を拡大した。そして、無為無策を非難されるや、一転して根拠を示すことなく、根拠に欠けた過剰な対策をとるようになった。
その理由の一つは桜疑惑に代表される自らの不祥事の糊塗であるが、それにとどまらない。コロナ禍の蔓延を奇貨とした、改憲への国民の誘導を考えているのだ。
泥棒とは、不名誉な人物であり、あるいは行為である。火事場泥棒という言葉の語感は、単なる泥棒の比ではない。なんという忌まわしく、汚い、怪しからん、奴というイメージがある。安倍晋三がやろうとしているのは、その類である。
「火事場」とは、新型コロナウィルスの蔓延の事態をいう。国民が戦々恐々としているというだけではない。現実に多くの人の就業や営業に差し支えが生じて苦しんでいるときに、その事態を自己の野望の実現に利用しようというのだ。
「泥棒」とは、新型インフルエンザ特措法の改正をいう。盗まれようとしているのは、立憲主義にほかならない。憲法は、国民の人権を擁護するために為政者の権力行使を制約する体系として作られている。ところが、国家の緊急事態を口実に、為政者にフリーハンドを与えるという危険極まりない例外の設定が、「緊急事態」。この特措法はその危険を内包している。
安倍晋三は、「緊急事態宣言」をやってみたいのだ。その実績が、次には憲法改正につながるとのではないか魂胆あればこそ。しかし、緊急事態条項は、憲法レベルでも、法律レベルでも、危険極まりない。国政を私物化し、嘘とごまかし、公文書の隠匿改竄を日常とする安倍政権にこんな危険なオモチャを与えてはならない。
(2020年3月11日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.3.11より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=14469
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9536:200312〕
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