「ヘーゲル弁証法」がレーニンをパラダイム変換した!? 書評:『ヘーゲル弁証法とレーニンの哲学的両義性』ケヴィン・アンダーソン著 小原耕一・竹下睿騏・高屋正一訳(社会評論社2020.1月刊)
- 2020年 3月 12日
- 評論・紹介・意見
- 合澤 清
この本から受けた最初の印象は、こういう奇抜なアイデア(着想)は、アメリカ人学者に特有なものではなかろうか、という多少の訝しさであった。
しかし、著者の引用から察すると、既にアンリ・ルフェーブルやスラヴォイ・ジジェク、ラーヤ・ドゥナイェフスカヤなどがこの種の先鞭をつけていることがわかる。とすれば、「ヘーゲル・マルクス・レーニン」の思想的連関への新たな脱構築の試みとみなすことが出来るのかもしれない。
レーニンの『哲学ノート』のことはよく知られている。学生の頃、岩波文庫版(2冊)で通読したことがある。大部分がヘーゲルの『大論理学』からの書き抜きで、欄外にレーニン特有な(かなり手前味噌な)書き込みが乱雑に挿入されていた。
それらの書き込みから、このノートは、ヘーゲルの観念論哲学を唯物論的に逆転させ、自分流の唯物論哲学に資するため、また今後の論争に利用するために苦労して作ったものであろうとするのが当時のわれわれ一般の読み方であった。
プレハーノフやボグダーノフといった、レーニン時代のロシアの哲学者との論争(1908年には『唯物論と経験批判論』によって彼らへの一定の批判を加えていたが)を多分に意識したものとも言われていた。
当時広まっていた俗流の「機械的唯物論」を批判して、レーニン流の「弁証法的唯物論」(科学的唯物論)の確立が意図されていたというわけである。
しかし、ケヴィン・アンダーソンによれば、このノート(彼は『哲学ノート』を「ヘーゲル・ノート」と呼び換えている)の作成は、まだまだそんな生易しいレベルのものではないというのである。レーニンの「起死回生」のためにどうしても必要不可欠なものだったというのである。
ここまで強調されるというなら、これは従来のレーニン読解にとって(あるいは、マルクスやヘーゲルの読解にとっても)ゆゆしき問題と言わねばならない。
しかしここでは、あくまで書評という評者に与えられた任務を守って、この書の紹介と講評のみに徹したいと思う。
この本の眼目は次の点にある。「レーニンの『ヘーゲル・ノート』は、1915‐17年に彼のよりよく知られた帝国主義と民族解放および国家と革命に関する著述の哲学的基礎を形成した。」(p.029 新しい序言)
そこでまず上記との関係で、このノートが作成された時期(1914‐15)のレーニンを、その周辺状況との関係で簡単に素描してみたい。
第一次世界大戦勃発とスイス亡命中のレーニン
和田春樹によれば、レーニンが第一次世界大戦を「帝国主義戦争」と位置付けえたのは、やっと1915年の段階においてであるという。「ゴーリキーは、1915年4月、『パールス』出版社を立ち上げ、ポクロフスキーの編修で『戦前戦中のヨーロッパ』という叢書の出版を企画している。その総論の執筆を国外のレーニンに依頼…それが『帝国主義論』(1917年刊)となった。」(和田著『ロシア革命-ペトログラード1917年2月』p.217作品社2018)
この当時のボリシェヴィキの運動状況を和田は次のように描く。少々長くなるが後論に関連して非常に興味深いので引用しておく。
「レーニンら党中央はオーストリア帝位継承者暗殺に始まった世界戦争の危機を認識し得ず、バクーで始まった労働者の長期ストを放置し、党大会の準備に注意を集中させていた。首都の党組織は独自に活動し、合法日刊紙での宣伝、ボリシェヴィキ議員の工作など、持てる力を十分に使って、労働者を闘争に立ちあがらせた。ところが労働者は、三日間のゼネスト、最終日のデモというボリシェヴィキの方針を越えて激烈な闘争に突入した。レーニンのもとから戻った新中央委員キセリョーフは『(党の力量不足から)はじまった闘争は当然、火花の如く急速に消える』という認識の下、権力側が大虐殺を準備しているという噂を信じ、警戒することを主張した。…結局、ペテルブルク市委員会は運動のピーク時に適切な指導ができず、7日目になって、地方の支持、運動の組織性、自衛手段などが不足しており、決戦の時ではないとして、闘争終結を呼びかけている。これに対し青年党員グループが、武装蜂起へ進むべきだとして、この呼びかけに反対することを決め、『左翼多数派代表者委員会』と称してビラを出したが、直ちに逮捕されている。ボリシェヴィキは闘争の期間中、ついに世界戦争勃発の危機と結びつけて、闘争の意義を明らかにすることができなかった。しかし、ようやく開戦直前の17~18日になって、戦争勃発の危機を警告し、『戦争反対、戦争には戦争を』というスローガンを掲げたビラを発行した。」(同書p.193)
「開戦は7月闘争の過程で打撃を受けていたボリシェヴィキ党組織に、壊滅的な一撃を与えた。レーニン逮捕、その後スイスへ。首都では戒厳令が敷かれ、労働組合・労働者教育協会が解散させられ、残っていた合法機関誌もすべて発行停止処分となる。翌年2月上旬、中央委員会代表のカーメネフと5人の国会議員が逮捕され、党は完全に地下活動に追い込まれた。」 (同書p.194)
これに続き和田は、当時のボリシェヴィキの「反戦」スローガンが、必ずしも「帝国主義戦争反対」に結びついたものではなかった点を指摘している。
メンシェヴィキ主流派の考えは、「ロシアにおいて戦争反対の活動はしない」というものだったが、ボリシェヴィキ(カーメネフ、ソコロフら)は「ドイツの半封建的軍国主義」と「ロシア絶対主義」の二つの敵に反対するとの立場だが、「英仏帝国主義と自国ブルジョアジーを批判しない点で違いはなかった。」(同書p.194)
レーニンはどうだったか? 8月24日、スイスのベルンで彼が書いたテーゼ「ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義派の任務」によれば、「世界をまきこむこのヨーロッパ戦争は、ブルジョア的、帝国主義的、王朝的戦争というはっきりした性格をもっている。」(『レーニン全集』第21巻p.3大月書店)と、これまた非常にあいまいな規定をしている。
レーニンがヘーゲル弁証法から学んだこととは?
ケヴィン・アンダーソンは次の二点を指摘している。第一は、レーニンはそれまで自身も陥っていた過ち、即ち、機械的で反映論的(今日的には「模写論」的)な唯物論の立場を自己批判し、あらたに「弁証法的唯物論」(科学的唯物論)の確立を目指そうとした。その際、彼が着目したのがヘーゲル弁証法であり、特にその観念論の新たな見直しである。つまり、第二に、「レーニンは『ヘーゲル・ノート』において新たな仕方で観念論に信用を寄せ、理念的なものと現実的なものは弁証法的思考において相互関係にあることを示唆している。」(p.011新しい序言)
この指摘は確かにわれわれの興味を引く。特に第二番目の指摘は、突き詰めていけば「レーニンは単純な唯物論者を脱して、ついには関係論者になった」とも読み取れる節があるからだ。実際に著者は、マルクス自身は明らかな「関係論者」であったことを、『フォイエルバッハに関するテーゼ』の第一テーゼにそって明言している。ただし、レーニンの当時、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』の付録でしかこのテーゼに触れ得なかった事情のもとでは、これを「関係性」の展開と読むことは困難であったという。(pp.17-8)
そしてレーニンはヘーゲルによってはじめてこのレベルに急接近するのである。
レーニンに即しながら、もう少し詳しくこの辺について検討してみる。
「…レーニンは、明らかに1914年の8月から11月初めにかけて、ロシアの百科事典用に執筆する論文『カール・マルクス』のために、彼の仕事の1部としてヘーゲル弁証法を調べ始めた。」(p.30)
そしていかにもレーニン的なのだが、彼はこの論文を書き終えて出版社に送った後で、「弁証法に関する部分をいっそう展開するために」原稿の差し戻しを要求しているという。
ヘーゲル弁証法の何が、レーニンをしてこれほどの興味をかきたてる起因になったのであろうか?
端的にいえば、「否定の否定」と「対立物への転化」という、いずれも存在に関わる概念である。レーニンはこれを「弁証法」として自家薬籠中のものにしようとしている。
「否定の否定」とは、他者との関係の内に埋没しそうな自体的存在の自己回復(自己関係的否定性)の場面で登場する「生」の運動のことである。「対立物への転化」という言い方は、いわば「アンティノミー」を介して真理に到るということ(ある規定=テーゼに対してそれに対立する規定=アンチ・テーゼの定立を考え、それを介して新たな段階の真理へと展開する仕方)であり、いずれもヘーゲルにとっての極めて重要な概念と考えられている。
しかし、ここではヘーゲルの側からレーニンを再検討することはせず、あくまで、レーニンにそってヘーゲルを読むことに徹したいので、このことに関しては次の個所を紹介するにとどめたい。
「今ではもうレーニンは、客観性と主観性(主体性)との間にあまりにも鋭い区別を設けることは間違っていると論じながら、ヘーゲルの観念論に直接専念し始める。レーニンは、ヘーゲルに関する彼の論評において、次の諸点を長方形で囲い、それの一部をゴシック体で書き表している。すなわち、『ここでヘーゲルが言おうとすることは、仮象のうちにも客観的世界の諸側面の1つが存在するから、仮象もまた客観的であるということではないだろうか。Wesen(本質)だけでなく、Schein(仮象)もまた客観的である。主観的なものと客観的なものとの区別はある、しかしこの区別もまたその限界を持っている』(『全集』第38巻)(p.50)
さてそれで、このような概念を使ってレーニンは現実とどう対峙したのか?またその際、「ヘーゲルの弁証法」はレーニンの世界観をどのようにパラダイム変換したというのか?
著者は、本書の第2部(第5章、第6章)でこの点について論じている。第5章は、『帝国主義論』との関連で、第6章は『国家と革命』との関連においてであるが、正直なところ第6章の内容にはいささか強引で、不消化な感じを受ける。既成の国家機構の廃棄、下からの運動としての「ソヴィエト運動」の提起、革命後の官僚制への批判、等々。レーニンの早すぎる死を考慮に入れるにしても、このテーマとヘーゲル「弁証法」の結合にはかなり無理があるように思う。
これらをヘーゲルと結びつけようとするのなら、『論理学』ではなくて『法哲学』こそが好個のテキストになるのではないだろうか。
序に触れるなら、ヘーゲル哲学といえばただちに弁証法とイメージされがちかもしれないが、ヘーゲル自身が弁証法に関して語っている個所は意外なほど少ない(加藤尚武氏の最近の研究)のである。もちろん、ヘーゲルは弁証法をそれだけで取り出して(哲学体系とは別個に)扱うようなことはしていない。この点で、レーニンのヘーゲル理解は決定的に「不消化」だったのではないだろうか。
ともあれ、ヘーゲル「弁証法」の応用例として著者が挙げている次の個所をご紹介してひとまず本稿の筆を擱きたいと思う。
「『対立物への転化』のこの概念は、レーニンの1914年以後のすべての立論の中心となっていくであろう、と私は主張したい。それこそ、レーニンが、第2インタナショナルの崩壊と第一次大戦についてのその分析において、また、大部分の彼の他の理論的著述において、あまり時間をおかずに、しばしば使用するようになる概念である。それはまた、マルクスがなくなって以来の資本主義の構造における諸々の変化についての彼の後年の概念的説明の基礎となっている。競争資本主義から独占資本主義への転化についてのレーニンの理論化、彼の帝国主義理論の決定的な特徴はヘーゲルから抽出されたこの概念と繋がっていたのである。」(p.56)
この件に関する更に詳細な議論は、本書p.192の個所をご参照願いたい。
2020.3.10 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9537:200312〕
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