追悼―蔵田計成:持続する「憤激」-60年安保闘争とは何だったのか
- 2020年 4月 14日
- 評論・紹介・意見
- 古賀暹
情況の菅原秀宣さんからの電話で蔵田計成さんが亡くられたという知らせを受けたのは、死後一カ月近くたっていた二十四日のことだ。私は驚きは感じなかった。すでに、彼の死は予期されていたからだ。
一月の末、入院していた病院に電話をすると、「もう駄目だ、手当の見込みはない、後は、静かに死を待つことだけだ」と彼は極めて落ち着いて私に告げた。それから、10日ほどしてから、私から電話を入れると、彼の声が前とは全く異なり、しわがれていて聞き取れなかった。何回も聞き返して、「中核派とブントが内ゲバをやっている。よっちゃんと仏さんと私が一緒にいた。過去に中核とブントが暴力的にぶつかったというのは本当か?これは、俺の幻覚なのか」という問いであったようだと、やっと、分かった。
もちろん、そのような事実はない。蔵田さんの幻覚であることは確かだが、私は二重のショックを受けた。蔵田さんという人はすでに死の世界に入ってしまったと同時にその世界の中でも、ブントのことを心の底から心配しているのだ。
蔵田さんは、一次ブンドの主要な活動家であり、二次ブンドの初期に属する私たちとは一世代上の世代に属する。だが、彼とは、そうした世代の差は全く感じられない。知り合ったのは、一次ブント崩壊後だから50年前のことだが、特に、親しくなったのは、30年ほど前からである。その長い間の付き合いの中で、ついこの間まで、二、三歳上だとばかり思っていた。ところが、実は、6歳も上なのである。
若く見えたのは、分け隔てない彼の性格ばかりではない。一次ブンド当時の「憤激」の精神の終始一貫した持続である。起点は、60年安保闘争の敗北と学生運動の崩壊、なぜ、全学連の執行部がマル学同に乗っ取られなければならなかったのかであった。そして、それは、その後の諸セクトの対立の中で生まれた内ゲバの問題へと受け継がれていく。すなわち、組織がなければ運動は生まれない、しかし組織はその内部、外部との対立を生む――このジレンマを解決するのはどうするか? 第三点は、一次ブンドが米帝打倒闘争を呼びかけなかったことへの反省だ。ハガチー来日阻止闘争のことだ。この文脈で、彼は、アメリカが建国以来、「戦争国家」であったと糾弾する長い論文を書いている。過去一年半ごとに1回は戦争をし続けていたという。だが、「戦争国家」への弾劾は、アメリカのみに終わりはしない。日本もまたアイヌ、沖縄、朝鮮、中国に対する「戦争」によって生まれたものであることを返す刀で弾劾する。
こう見てくると、彼の一次ブンド論は、60年安保と一次ブンドの思想圏から次第に第二次ブンド、全共闘―差別反対闘争に至る領域へと進みつつあったことが了解できる。いや、それのみではない。3・11の災害に見舞われた日本の原発批判として現在に至るのだ。しかしながら、この時期に至ると、70を過ぎた蔵田は闘争の前線に立つことが出来なかった。そのことを恥じながら「文字による批判も闘争の一つの形態ではないか」と語りつつ、アメリカの科学者ゴフマンの研究にとりかかる。蔵田によると、ゴフマンは被爆線量を被爆者の年齢ごとに問題とし、低年齢者ほど罹病率が高いことを述べている。このことを根拠に日本の政府の低線量被ばく問題の扱いが如何に御用主義的であるかを展開する。
私は20年前から、東京を離れ、瀬戸内の孤島に住んでいて、その間4回ほどしか彼には会っていない。だが、こうした彼の活動は、電話とネットによって知ることが出来た。彼は、論文が出来るたびに、送付してきて私の意見を聞くのである。いや、聞くというより、私を啓蒙しているか、叱っていたのかもしれない。電話は30分を超えることはあたりまえのこと。それが、一週間に二、三度になるのだからたまらない。電話の呼び出し音にギクッとすることなど日常茶飯事だ。
ああ、呼び出しの音が、また、今も聞こえるてくる。蔵田さんが世界に憤激し僕に呼び掛けているのだろうか。こうした音を耳にしつ、コンピューターを叩いている。
初出:『情況』(2020 春) より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9645:200414〕
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