リハビリ日記Ⅳ 25 26
- 2020年 5月 22日
- カルチャー
- 八木秋子平林英子日記阿部浪子
25 八木秋子の後日譚
さちこさんちの庭は、いま春たけなわである。色とりどりの花たちが咲ききそっている。赤いバラに白いバラ。コントラストがひときわ鮮やかだ。その傍らに、つつましやかなシャクヤクの花。立てばシャクヤク 座ればボタン 歩く姿はユリの花。ふと、脳裏をよぎる。中学の国語教師、山田先生から教わったことわざだ。美しい女性の姿とその立ち居ふるまいを形容したものだという。ひさしく忘れていた。
S病院へ定期受診に行く。スタータクシーの運転手が話した。かれはいつもの、定年退職後に就職した運転手たちとはちがう。わかい。正社員のようだ。〈コロナ禍でアクトシティが休館していて、ここんとこ、このへんを回っているんです〉。さびしげな表情だ。外出自粛の影響はこのような所にも。ここは浜松南部の田園地帯である。すでに、社内から高齢運転手が辞めていったという。かれは補償金を申請すると。深刻だ。アクトシティは、浜松中心部にある、コンサート会場、イベント会場などの複合施設だ。
S病院内の外来患者は、2か月前の受診日よりもおおい。みなの人がマスクをかけている。黙りこくっている。なんとも不気味だ。言葉が消えてしまった。
〈マスクをかけてないと、診療をうけつけないところもありますよ。マスクは、あなた1人のことではない〉。主治医は当病院の院長だ。アベノマスクか。診察拒否か。おお怖い。〈くすりをだしときますね〉。主治医はぶっきらぼうにいった。
受診後は、友人のたまえさんとフィーカ112でランチをとる予定だが、はたして営業しているか。
その前にリハビリ室による。雰囲気は前回とおなじだ。ものものしい。入室するのがはばかられる。わたしは理学療法士、T先生にぜひとも、芥川賞作家、中村文則さんの『逃亡者』(幻冬舎)について知らせたかった。4月発行の新刊書だ。T先生は、中村文学のファンなのだ。中村さんは担当編集者の有馬大樹さんに、書店へのメッセージを渡している。
先日、インターネットで検索していたら目に飛びこんできた。「ウイルスは人と人とを断絶させようとするものですが、言葉は人と人とを再び結びつけるものでもあると思います」。この中村文則のメッセージもT先生に伝えたかったけれど、きょうは残念だ。
フィーカ112は、テークアウトのみ営業していた。
*
八木秋子が生きていたら、現在のコロナ騒動について何と発言するだろう。老人ホームの1室で独りじっと社会の動きを見つめる。彼女の発言が聴きたい。八木秋子は昭和初期にアナーキストとして、晩年は作家として活躍した。拙著『書くこと恋することー危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)のなかに登場する。
作家の有賀喜代子がいつだか、わたしにこんなことを話した。〈八木さんがね、あたしに、どうしてあいさつにこないのかと、いってるんだって〉。有賀が自宅から病院に入院すると、老人ホームから移ってきた患者が告げたという。老人ホームと病院とは隣接していた。自由人の八木秋子がそんなことをいうものか。わたしは信じられなかった。しかし、八木秋子はそういったかもしれない。ものかきとして先輩ぶりたかったのだと思う。
わたしは、八木秋子を老人ホームに何度もたずねて話を聴いている。すぐさま文章に書けるほど整然とした話し方をする人だった。おもしろかった。
〈あんたは口はおもいけど、話をひきだすのが上手ね。つい、しゃべりそうになる〉。八木秋子は、アナーキスト時代の恥ずかしい時間についてしゃべりたくなかったのである。作家として評価されたかったのだ。彼女には文学的素質がある。作家への精進のプロセスもある。『八木秋子著作集』(JCA出版)全3巻を読めば、彼女の思索力も想像力も浮上する。
コロナ騒動だけではない。河井案里や森雅子などのおんな政治家の生き方についても、八木秋子が生きていれば、何と発言しただろうか。
26 平林英子の後日譚
わたしは発症してから4年が経過した。毎週1回、デイサービスYAMADAで心身のリハビリをうけている。体操はたのしい。
数年前、志木駅東口のスタジオでヨガを習っていた。指導者は下村友二先生。有能な指導者だったと思う。その実体験がいまに役立っている。いっしょに受講した本吉さん、山田さん、加藤さん、小久保さんは、どうしているだろう。みな15年以上の練習をつんでいた。すきのポーズもみごとにやってのけた。
デイサービスYAMADAは、3月末、柔道整復師で、リハビリの先生が3人退職した。継続しているのは桝田先生。体格のがっしりとした、気持ちのやさしい先生だ。さらに、鍼灸師の資格もとろうとしている。両親から〈おまえの好きな道にすすみなさい〉と激励されているという。桝田先生は3歳のころから、人のからだをマッサージすることによろこびを感じていた。将来、開業をめざしているようだ。
クルミを2個、両手にもつ。擦りあわせる。クルミは快い音色をかなでる。次は、お手玉を手のこうに載せたり手のひらに移したりする。むずかしい。根気がいる。しかし、挑戦するのはたのしい。手のトレーニングも、3時間授業の1つである。
5月9日のこと。ネット上で前日夕方の静岡テレビのニュースをみた。特別定額給付金について報じていた。浜松市長は、市民とともに「トップの自分も身を切る」思いで、5月6月・2か月の給与と夏のボーナスとを半額カットするというのだ。
市長の鈴木康友さんの姿は、すずかけセントラル病院で見かけた。小柄な人だ。おとなしそうな印象をうけた。知人の見舞いにきたのか。
市長の言動は、とりたてて賞賛すべきことでもない。わたしは浜松市民になって4年だが、せんだって、何回も推敲した手紙を市役所にだした。反応はなかった。市職員の対応はよろしくないと思う。
浜松市長といえば、作家の鈴木光司さんのことが思いうかぶ。2人の鈴木さんは、浜松北高校時代の同級生である。
鈴木光司さんは「リング」「らせん」などで知られる、ユニークな作家だ。2作とも角川ホラー文庫で読める。いつぞや、「信濃毎日新聞」に書評を発表した。その掲載紙をおくったら、鈴木さんから礼状がとどいた。心のこもったもので、わたしは感動した。
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作家の平林英子(えいこ)は、おしゃべり好きな人だった。入れ歯をカチャカチャさせてこしかたを回想する。その一生懸命さが気持ちよかった。夫は作家の中谷孝雄だ。〈主人はねぇ、あたしが帰るまで、暗い部屋のなかで何も食べないで待ってるの〉。夫はものぐさで、つれあいの女性作家はさぞかしたいへんだったろうと、わたしは思った。
拙著『書くこと恋することー危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)を刊行した後、元新座市市議会議員の大矢みち子からこんな話を聴いた。〈平林さんとこは、娘さんが女中さんのようにこき使われてましたよ〉。意外な思いで、わたしは大矢さんの話に耳をかたむけたのだった。そうか、女性作家は夫に抑圧されたぶん、娘を自由に使いたがるのか。
作家の若林つやが話した。〈英子さんに、あなたが結婚すれば対等につきあってやる、といわれた。英子さんは中谷さんのハンドバッグだ、とやりかえしたわ〉。夫、中谷孝雄がいて平林文学は成り立っていたのかもしれない。平林英子は中谷の地位を有効活用した。中谷も表向き、妻の作家的立場を盛りあげた。
中谷は、梶井基次郎などと雑誌「青空」を創刊する。平林英子は自分の眼で同人たちを細かく観察していた。後年『青空の人たち』(皆美社)を著している。中谷はさらに、亀井勝一郎などと雑誌「日本浪曼派」を創刊する。取材した女性研究者の前で、中谷は〈日本浪曼派の女性作家のなかで、平林英子がいちばん活躍してる〉と、自慢したそうな。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0911:200522〕
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