内田義彦から何を学ぶか― 山田鋭夫『内田義彦の学問』(藤原書店、2020)を読む ―
- 2020年 6月 1日
- 評論・紹介・意見
- 内田弘内田義彦山田鋭夫
[通夜で泣き叫ぶ] 1989年、内田義彦が死去して、東京目黒区の祐天寺で通夜が開かれた。そこに集まった者たちはほとんど、沈痛な思いで頭を垂れ、黙している。そのとき、ただひとり、大声をあげて泣きながら、廊下や部屋のあちこちを徘徊する者がいた。それが山田鋭夫である。天衣無縫のその姿は、山田の内田義彦への全面的な傾倒を如実に体現していたけれども、その泣き叫ぶ姿は、通夜にふさわしくはなかった。参集者のひとりが「山田さん、座ったらどうですか」と声を掛けたので、山田はそれに従った。やっと通夜らしくなった。
[内田義彦への無条件の傾倒] 山田鋭夫のこの近著『内田義彦の学問』を手にして思い出したのが、上記のエピソードである。山田のあの通夜の内田へ傾倒してやまない姿は、この本にも見事に貫徹している。それは麗しい師弟関係の姿である。「したがって」というべきか、この本には山田の内田への批判は一切無い。あるのは、内田への無条件の傾倒、肯定のみである。ただひたすら、内田の学問とは何かを問い、内田のテキストからその答えを見つけ、受容し、それを読者に紹介する。山田は内田に徹底的に内在し、内田の学問論を肯定し、広く社会に普及しようとする。
[本書の構成] 本書は、つぎのような4部構成である。
第Ⅰ部 内田義彦の学問 (1河上肇論 2内田思想の原型 3市民社会論 補 内田義彦はどう受け継がれたか)
第Ⅱ部 (探る 問う 読む)
第Ⅲ部 内田義彦への招待 (1 内田義彦主要作品案内 2 内田義彦名言集 結びにかえて)
第Ⅳ部 内田義彦論 文献案内
あとがき 初出一覧
[本書の内容] まず第Ⅰ部は、河上肇(1879-1946)という経世家にして農業経済学者・マルクス経済学者であり晩年には枯淡な漢詩を詠んだ人物を、内田義彦がなぜ持続して探求したのかという問題、つまり内田市民社会論の源流の研究から始まる。その河上に沈潜する内田から彼の思想的原型を探り、あわせてその思想を表現する内田の「名言」の数々を紹介する。
[内田義彦のキーワードへの注目] 第Ⅱ部では、内田の学問を探求する精神を如実にしめす三語「探る・問う・読む」を紹介する。第Ⅲ部は、内田の名著『経済学の生誕』(1953年)、『資本論の世界』(1966年)、『作品としての社会科学』(1981年)などを中心に、内田の学問的歩みをたどり、あわせて内田の考え方を特徴づけるキーワード「科学」「言葉」「分業」を紹介する。読者が、先の「三語」とこの「三つのキーワード」を丁寧に読み、自分自身の考え方を省みれば、内田の思想的特徴がよく分かると思われる。内田義彦のこれらの言葉への注目に、山田のセンスが生きている。
[内田義彦研究の最高到達] 著者・山田鋭夫は「まあ、よくもここまで」と賛嘆したくなるほど、内田の著作を全面的にかつ詳細に読み込み、しかも内田が把握した問題群の相互連関を明確に解明している。内田義彦論は山田のこの労作で頂点に達したと思われる。本書は、内田義彦を知りたいと思えば、その問いに答えてくれる好著である。
[山田鋭夫の研究歴] 本書の著者・山田鋭夫は、若くして経済学研究を志し、内田義彦の著作に出会い、魅了され、生涯の研究主題にしてきた。その問題視野から、マルクスの草稿『経済学批判要綱』の研究、ついてフランス・レギュラシオン学派の日本への紹介に努めてきた。あわせて、内田義彦の著作をテーマ別に編集した『内田義彦セレクション』(全4巻)を刊行している。
[専門的職能とその普及] 本書で山田鋭夫が、内田義彦から学んだエッセンスとして、繰り返し力説するのは、専門家がその研究成果を素人に分かるように伝達することである。その伝達のためには、日常生活における分業労働への綿密な観察が不可欠である。その事例として、山田が本書で紹介しているように、内田義彦は深夜の遠くからのサイレンの音にも注目する。見知らぬ人たちが見知らぬ人を救うために駆けつけようとしている。その姿に、人間が分業労働を通じて普遍的価値に専念する姿を直観する。もっとも、現代日本に多く存在する非正規労働者は、専門的職能を身につけたくても、そのような立場も機会もない。専門職を通じて社会に貢献できる者は、自己の達成を喜ぶとともに、その機会がない者に如何に相対するのかという課題が控えていることに気づかなければならない。
[押しかけ弟子・山田鋭夫] 内田義彦も山田鋭夫のような弟子をもって幸せであろう。内田義彦は生前、「私は弟子を取らない」と何回となく周囲の者に明言していたけれども、「押しかけ女房」ならぬ「押しかけ弟子」山田鋭夫ができて、苦笑交じりに内心、「まぁいいか」と思っているかもしれない。
[弟子は師匠の鏡] 弟子は師匠に学ぼうとして懸命に模倣する。だから、弟子は師匠の美点だけを凝視することになる。師匠がそっと隠していることは、弟子はそれとは知らずに、通過する。内田義彦は戦前から日本の社会の非市民社会的なあり方を、痛覚をもって経験し、その課題として、「日本における市民社会の形成」を掲げていた。内田義彦の学問的生涯はこの一点にある、といって過言ではないであろう。
[内田義彦の細やかさ] 内田義彦は、治安維持法下の政治活動でひどい目にあったことがある。党生活も経験したであろう。内田には、人間関係をめぐって極めて木目の細かな配慮があった。内田は本心を必ずしも率直で明確に吐露したとは言えない。韜晦の面もあった。
職場が一緒の本稿筆者だけに突然、学界のある人物の批判を始めたことがある。「人間、牙をもたないとね」といったこともある。大塚久雄が文化勲章をもらったとき、「大塚先生がねぇ」と繰り返し慨嘆した。『内田義彦著作集』の編集会議があるたびに、内田義彦は数日後、本稿筆者に電話してきて、その編集の進捗状況を詳細に説明した。「内田義彦さん、結構ですよ」と辞退したけれど、その報告は続いた。
[天皇制・帝国主義・アジア] 山田鋭夫氏のこの近著は「市民社会・分業・専門家・素人」などがキーワードになっている。では、内田義彦はもっぱら市民社会のみを考え、語り、書いたのであろうか。丸山眞男・加藤周一・竹内好を学友にもった内田義彦が、「天皇制・帝国主義・アジア」を主題にしていなかったのであろうか。内田は戦中、東亜研究所に所属した。
[天動説的な地動説の導入] 『社会認識の歩み』で内田義彦は、明治天皇の権威によって天動説的な宇宙観をもって太陽暦が導入された経緯を批判する(28頁)。徳冨蘆花が「大逆事件」を批判した演説「謀反論」への言及もある(62頁)。
1910年から1945年までの日本帝国主義の朝鮮植民地支配史において、1919年の「三一運動」が「朝鮮の近代史の始まり」であるように、同年の「五四運動」は、魯迅が明言するように、「中国近代の始まり」である。市民革命期のイギリスのアイルランド支配、革命期のフランスのスペイン侵略=ナポレオン戦争と同種のことを極東で繰り返すように、明治維新は台湾出兵・江華島侵略から始まる。山田鋭夫には、アジアへの視座が欠如していないだろうか。
[内田義彦が積極的に論じなかった空白] つまり、市民革命は帝国主義侵略とセットになっているのである。日本の市民社会の歪んだ形成(大逆事件・一連の治安維持法違反事件)とアジア侵略とは切り離しがたい両面である。日本帝国主義を論じない日本市民社会論は空論ではないか。山田鋭夫の誠実な内田義彦学びは、その空白に無意識・無自覚ではなかろうか。戦後日本人にはアジア諸国民への戦争犯罪について自己批判が欠如していることが、アジア諸国民への歪んだ姿勢となっている。恥ずかしいことではないか。
《なぜ、内田義彦は市民社会の裏面である帝国主義を積極的に論じなかったのか》。これこそ、山田鋭夫が内田義彦に発すべき根源的問いではなかろうか。「弟子は師を乗り越えることによって、師に近づく」(ゲーテ)。因みに、内田義彦の無言の示唆に応えるべく、本稿筆者は、このネット「ちきゅう座」で「繁茂する《草の根・天皇制》」という文章を投稿したことがある。「阿Qとは誰か」など2回、魯迅論を投稿したこともある。無論、これらの課題は私にとって未完である。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9803:200601〕
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