リハビリ日記Ⅳ 27 28
- 2020年 6月 11日
- カルチャー
- 八木秋子日記阿部浪子
27 八木秋子の母子福祉
古井戸の周りにドクダミの花が咲いている。わが家の昔からの変わらぬ風景だ。ドクダミの白い花には、ナツミカンの白い花のような可憐さはない。粗野な感じがする。ドクダミは、生育の盛んな薬草でもある。草全体に独特の香りがする。
葉をよくみれば、心臓のかたちをしている。この葉たちを乾燥させて化粧水をつくるのだと、作家の難波田節子さんからメールがとどいた。
難波田さんの作品はよく、同人誌「全作家」の「文芸評論」のなかで、文芸評論家、横尾和博さんがとりあげている。難波田節子は、感銘ふかい短編小説を書く作家なのだ。わ
たしも、難波田さんの短編集『雨のオクターブ・サンデー』(鳥影社)の書評を「信濃毎日
新聞」に発表している。なによりも、文章がわかわかしい。淡々とした筆づかいで描かれているが、場面、場面の印象はとても鮮明なのだ。難波田さんは、同人誌「季刊遠近」の責任者でもある。文学を信じ、愛している人だと、わたしはいつも思っている。
辺りはしーんとしている。訪う人もない。電話のベルも鳴らない。独りぽつんと日中の時をすごした。夕方、パソコンをひらく。思いがけない、川田正美さんからのメール。川田さんは、法政大学時代の同級生だ。出版社に勤めていた。現在、美空ひばり学会の代表をしているという。著書に『宇野功芳―人と批評』(青弓社)がある。著者名は、想田正。宇野功芳とは、指揮者で音楽評論家だ。宇野の父は、漫談家の牧野周一である。
川田さんのメールは、〈あなたの場合は、よき療法士にめぐりあえたのと、前向きの姿勢ですね。書けるようになったのは本当に良かったですね〉と、書かれていた。拙文「リハビリ日記」(ちきゅう座)への感想が、なによりもうれしい。
わたしはS病院で理学療法士、T先生と出会っている。患者は先生を選べない。小・中学時代の同級生、みさこさんが〈あなたの日ごろの心がけがいいから、優秀な先生がついたのよ〉といった。T先生は、技術面の優秀さのみならず、患者の気持ちもよく読んでいたと思う。わたしの姿勢をいつも前向きにもっていってくれたのだった。
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社会福祉の方面に理想を燃やしたとき、いきいきした。こう語るのは、作家の八木秋子である。秋子は昭和初期、アナーキストとして革命運動に挺身する。戦後、満州から引き揚げてからは、母子福祉にたずさわる。社会という視点から離れられなかった。その間、作家をめざしたことはなかったという。最晩年に、秋子は自分を作家として認めたのだ。
作家の雫石とみがいう。「寮母の長老格は、八木老先生だった。」「心のひだの豊かな人だった。常に収容者の味方だった」と。雫石は、『荒野に叫ぶ声―女収容列島』(社会評論社)のなかで述懐している。
秋子は10年余り、母子寮(現、母子生活支援施設)に勤務している。戦後のこと、戦災者・引き揚げ者・孤児を収容する施設が、母子寮を建設した。「どんなに絶望しても、生きたいの。生きぬいて、しなければならないことがいっぱいあるんです。」寮母という仕事は、秋子にとってしなければならないことだったのだ。
どん底におちた母子をすくいあげたい。秋子は、その一心ではたらくけれど、個人として、組織の壁にぶつかったようだ。『八木秋子著作集Ⅲ』(JCA出版)を読むと、自分と職員たちの大きな悩みが書かれている。「血の流れている人間」は、事務所から「異端者」とみられる。寮母は「生活のための職業というだけのものでもないから」、秋子は孤独におちいるのだった。
母子の生活の破局は経済的破綻にもとづくと、秋子はいう。だから政治がよくならないかぎり、彼女たちを貧窮の泥沼からひきあげることはできないとも、秋子は書く。ずっと前の秋子の提言である。しかし、現代に通じると思う。この国の母子福祉政策は、向上し豊かなものになっているのだろうか。
28 八木秋子の求職広告
デイサービスYAMADAに通所して14か月が経過。脳内出血の後遺症回復のため、トレーニングを毎週1回おこなっている。ジム内にさわやかな風が入ってくる。1種目の体操をおえると、生徒はしばし休息。隣席で2人の女性がおしゃべりしている。〈ぶったたきたくなるだよ〉〈わたしもそうなの〉。真夜中、夫が腹がへったといってたたき起こす。冷蔵庫をあける。妻は寝られなくなると、2人はぐちをぶつけているのだ。
自転車を黙々とこぎつづける。独りだけのトレーニングは、集団のそれとはちがう、別のたのしさがある。スピードもついてきた。10分間、こぎつづける。結果は2キロと520メートル。〈記録更新だね〉。リーダーの山田先生がいう。うれしい!
路上生活者は、このたびの特別定額給付金10万円を支給されるのだろうか。彼らももろに、コロナ禍の影響をうけている。高齢者特別清掃事業をとおして得る仕事の収入が、1か月3万円にまで減少したという。5月末、インターネットで「MBSNEWS」をみた。大阪の日雇い労働者の街、あいりん地区で居酒屋をいとなむ尾崎美代子さんは、彼らのために300から400食の炊きだしをしているという。手作り弁当そしてマスクを配布する。「貧しい人々の方が、ウイルスも大変なんじゃないかな」と、尾崎さんはいう。10万円の給付金は、彼らの3か月分の収入に相当する。
きたない・きつい・きけんな仕事をひきうけている人たちの存在を忘れてはならない。貧困は自己責任ではない。住所登録がないことで、ホームレスは特別定額給付金から落ちこぼれていいのか。彼らをすくいあげて、この国の福祉政策は豊かに充実するのだと思う。
高市総務大臣、真剣に考えてください。
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「朝日新聞」の求人欄に個人名で求職広告をのせる。64歳。さばをよんで、4歳もわかくいう。八木秋子って、おもしろい人物だ。せっぱつまった求職ではあったろうが、ちょっぴりおかしみを感じる。「文案談筆編集校正婦健年六〇身確誠実 北区神谷三ノ二八木」。2行広告で1400円の出費。『八木秋子著作集Ⅲ』収録の「日記」のなかに、この広告については書かれている。その日午後、73歳の男性から電報。宗教、思想に関係した事業をしているという。しかし、その後、秋子は採用されたか。
秋子は自分の思考を行動に移す人だ。その行動の軌跡が魅力的なのである。平坦な人生ではなかった。激しい人生だった。
64歳で秋子は寮母の仕事を辞めている。このころから秋子は作家をめざすようになった。「私は考えることにより生き、成長した」と、秋子は書く。「思索による自己の成長」をねがい、「一途に原稿生活を開拓しよう」と心にきめるのである。
秋子はこのころ、彫刻家の高田博厚と交流する。「老女のラブレター」と苦笑しているが、秋子はかれに手紙を書いたりかれのアトリエを訪ねたりしている。高田は求道的で思索的な芸術家だ。秋子は高田から創造の姿勢を学んだのではなかったか。
さらに秋子は、自分の体験をもとにした手記をまとめて高田に送ってもいる。それが作品のかたちをなしていった。そこに、八木秋子の作家としての誕生があるのだと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0918:200611〕
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