海峡両岸論 第115号 2020.6.11発行 - 主権防衛に「レッドライン」引く 国家安全法は「反分裂法」の香港版 -
- 2020年 6月 13日
- スタディルーム
- 中国国家安全法岡田 充香港
北京で開かれていた中国全国人民代表大会(全人代=国会)=写真 多維新聞=は28日、香港独立や政権転覆、外部勢力の介入を禁じる「国家安全法」(国安法)の制定を採択して閉幕した。貿易戦争、台湾、香港、新型コロナウイルスなど、トランプ政権による「対中新冷戦」イニシアチブで守勢に立たされてきた中国が、主権という「最後の砦」にレッドラインを引いた形だ。同法は2005年3月に成立した台湾独立に対する「反国家分裂法」の香港版でもある。香港民主派は「一国二制度」を破壊するとして反発しているが①米国で反差別抗議デモが拡大、香港どころではなくなった②香港経済の先行きを懸念し「安定バネ」が働き始めた―などから、大規模抗議活動が再燃する可能性は低い。注1
対米改善はプライオリティ
コロナで延期されてきた今回の全人代の注目点は、対米政策でどんな姿勢を示すかにあった。国内政治と国際政治が相互に影響し合う「リンケージ・ポリティックス」が、米中双方で顕著である。トランプ政権は「サプライチェーン」(部品調達・供給網)から中国を排除し、世界経済を中国と二分する「デカップリング」(切り離し)政策を進めている。一方中国は、ことし1-3月期にマイナス6・8%に落ち込んだ中国経済を建て直す上で、対米関係改善は、依然として外交のプライオリティを置いている。
延期された全人代が開幕された5月22日、李克強首相は政府活動報告で対米批判を一切封印した。そこに飛び出したのが香港国家安全法。国家分裂や政権転覆、「外部勢力」の介入を禁じ阻止する法案である。この2年間、貿易戦争から台湾、香港、コロナ、経済など次々と中国攻撃を仕掛けてきたトランプ政権への習近平の回答だった。
優遇取り消しは「両刃の剣」
これに対しトランプは29日、対抗措置として香港に認めている優遇措置の廃止に向けた手続きに入ると発表。中国や香港の当局者への制裁や、世界保健機関(WHO)からの脱退も表明した。米議会も、中国・香港当局者の米渡航禁止などの制裁法案を準備していると伝えられる。
トランプ政権は香港抗議活動が頂点を迎えた2019年11月、「香港人権・民主主義法」を成立させた。香港の人権・民主状況が悪化した場合、関税・査証(ビザ)の付与で、香港を優遇する「香港政策法」(1992年)見直しを盛り込んだ法律だ。典型的な「人権・民主外交」。
米国が香港優遇政策を採用してきたのは、香港を中継地に対中ビジネスを展開する利便性にある。米国の香港投資は2018年に約825憶ドル(約8兆9000億円)に上る。香港には約1400の米企業が進出、香港居住のアメリカ人は8万人と約2万人の日本をはるかに上回る。香港優遇措置を見直せば、アメリカ企業も不利益を被る。だから優遇措置見直しは「両刃の剣」と言える。
「米中新冷戦」闘う力ない
通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)排除や、中国主要33社との取引停止の動きを見れば、トランプ政権が世界経済を「デカップリング」(引き離し)し、経済ブロック化を厭わない姿勢は明らかである。「米中新冷戦」イニシアチブを仕掛けているのだ。これに対する中国側の反応をみる。
王毅外相は5月24日の記者会見で、「中国を中傷する政治ウイルスが広がっている」と暗に米国を非難し、「両国を新冷戦に向かわせるやり方は危険だ」と述べた。その一方、「中米間には多くの相違があるが協力の余地はある」と関係改善への期待を表明し、「新型コロナは中米共通の敵。米国へマスクだけでも120億枚以上輸出した」と、関係改善に向けた努力を米側に呼び掛けた。
これを国際世論に向けたパフォーマンスと見てはならない。新冷戦はなんとしても回避したいのが中国の本音である。なぜなら米国は、国際基軸通貨のドルによって「グローバル金融システム」を支配し、中国もそのシステムの中で発展してきた。中国の金融機関がシステムから排除されれば、中国経済は成り立たない。
中国が保有する1兆8000億ドルに上る財務省証券を市場に放出する「報復」の選択は理論的には可能だ。しかしこれはドルを「紙屑」にし、世界経済を崩壊させる「劇薬」である。軍事力も3,4倍の圧倒的な差がある。強硬な外交姿勢を「戦狼外交」=写真 中国の「戦狼」外交官と呼ばれる趙立堅氏 中国外交部HP)と呼ぶ向きがあるが、国内向けの強気姿勢であり、中国に新冷戦を闘う力はない。中国の力を過大評価すべきではない。
米中両国は2020年1月、貿易交渉で第1段階合意を達成した。しかし経済・貿易では譲歩できても、中国の主権にかかわる内政にまで手出しされれば、核心利益を失う。米中戦略対立の図式の中で「国家安全法」の意味を考えれば、踏み越えるのを許さないレッドラインを引く防衛対応であることが分かる。
条例頓挫で「業煮やす」
「国家安全法」に話を戻す。
香港が中国に返還された1997年に施行された「香港基本法」(小憲法)は、行政、立法、司法の三権を香港政府に委ねる「高度な自治」を保証した。「一国二制度」を実現するための法的枠組みだ。
その23条は「独自の立法によって、あらゆる売国、国家分裂、反乱扇動、中央人民政府転覆および国家機密窃取行為を禁止し、行政区の政治的組織や団体が、外国政治組織と団体と連携するのを禁止する」と定めている。香港独立や反乱扇動、国家転覆活動を禁止する一方、政治団体が外国と連携することも禁止する国家安全上の条文である。
しかし「独自の立法」はなく、罰則もないため香港政府は2003年、「国家安全条例」を導入しようとしたが、50万人規模の反対デモに遭い頓挫した。
中国全人代の王晨副委員長は5月22日、公安法のバックグラウンド・ブリーフで「(23条を実効性のあるものにする)独自の立法」がないため、「反中央・香港かく乱勢力が『香港独立』『自決』『住民投票』などの主張を公然と鼓吹し、国家の統一破壊と国家分裂の活動を進めた」と、19年の大規模デモを振り返った。
国家安全の維持に必要な規定がないため、中央政府が香港政府を飛び越えて直接、法制定に乗り出した。「業を煮やした」のである。
中央政府に制定権限はあるか
そこで問題になるのは、中央政府が基本法の条文にかかわる法律を直接制定するのは、「高度な自治」の精神に反しないかである。香港の弁護士団体は25日「香港自らが立法する」と基本法に規定されており、全人代常務委に権利はないと批判する声明を発表した。
また民主派リーダーの一人アグネス・チョウ氏注2=写真 記者会見する同氏 日本記者クラブHP=は同法を「完全な『1国2制度』の破壊、無視。~中略~中国政府が香港について気に入らないことがあれば、また同じ手段で中国から直接、香港の法律を作ることが出来ます」と、「一国二制度」破壊につながると警告した。
これに対し王晨は①中国憲法と基本法に基づき全人代常務委に関連法律を制定する権限を付与②制定された法律を、基本法付属文書に列挙し香港政府が交付・実施-という法手続きを踏むため。法律制定は合法的という解釈を打ち出した。
もう少し詳しく説明する。香港基本法18条には「付属文書3」と呼ぶ例外規定がある。中国本土の法律を香港に適用できる「例外リスト」。このリストは国防や外交関連の法律など、自治の範囲に属さない法律に限り追加できる。もともと首都や国慶節、国章、領海などを定めた10程度の法律を適用していた。
国家安全は「主権」にかかわるから「例外リスト」に入るという解釈である。さらに林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は26日の記者会見で、「国家安全についての立法は中央の権利だ」と述べ、「高度の自治」に反するとの批判に反論した。
外国介入と内地波及を警戒
王は法律制定の基本原則として次の4点を挙げている。
① 国家主権の安全を害し、中央の権力と香港基本法の権威に挑戦し香港を利用して内地への浸透・破壊活動を行うことはすべてレッドラインに触れる
② 「一国」は「二制度」の前提と基礎であり、「二制度」は「一国」に従属。
③ 法に基づく香港管理を堅持。法律に違反し法治を破壊する行為は法に基づいて追及
④ 外部勢力が香港介入し分裂、転覆、浸透、破壊活動を行うのを断固防止
これに加え重要なのは次の二点である。第1は、香港での国家分裂・破壊活動だけでなく「香港を利用して内地への浸透・破壊活動を行う」ことをレッドラインに触れるとし、内地への波及を極度に警戒していること。
第2は外部勢力(米国を指す)による香港介入阻止である。半年以上にわたり続いた大規模デモが、いかに共産党指導部を揺るがしたか、その衝撃度が分かる。
全7条からなる条文草案には、香港に国家安全維持の法制度を導入・整備し、国家安全を阻害する活動を防止、処罰する(第1条)。外国及び域外勢力による介入に反対し、必要な措置を講じて報復する(第2条)、香港政府が国家安全を害する行為を防止、処罰すること(第3条)―などが規定されている。
威嚇効果が狙い
このうち香港民主派が最も問題視するのは第4条の「中央政府の国家安全維持関係機関は必要に応じて香港特別行政区に機構を設置し、法に基づいて国家安全維持の関連職責を履行する」の部分。アグネス・チョウは「中国が気に入らないことがあれば、直接香港で機関を設立して、直接処理する。香港が普通に中国の一部になってしまう~中略~。完全に『1国1制度』になる」と、強い懸念を表す。
国家安全維持機関とはどのようなものか具体的説明はない。ただ一般的に考えれば、情報機関の「国家安全部」を指し、香港にその出先機関を設けることを意味すると考えていい。
国家安全法をテーマにしたTV朝日の「ワイドスクランブル」(5月25日)に筆者がコメンテーターとして出演した際、メーンキャスターから「これは中国共産党の秘密警察が潜入することを意味するだろうか?」と質問された。筆者は「中国諜報機関はすでに香港に潜入しているでしょう。むしろ法律に明文化することで、威嚇効果を狙っているのでは」と答えた。
回避したい天安門事件の再来
もう一つの疑問は、「勇武派」(武闘派)が破壊活動を展開し、香港警察の手に負えなくなった場合、「阻止、処罰する」主体は何かである。19年の大規模デモでは、香港警察が対応したが、人民解放軍部隊の出動が焦点となった。
安全法案第3条は「香港政府が国家安全を害する行為を防止、処罰する」と定めており、主体は北京の中央政府ではなく、香港政府としている。キャリー・ラムの側近で全人代代表の陳智恩氏(バーナード・チャン)注3は朝日新聞のインタビューに「法制度の執行は中国本土の機関ではなく、香港の警察や裁判所が担うことを希望する」と答えている。
中国の改革・開放政策の初期段階、香港は「金の卵」を産む鶏に例えられた。しかし香港の経済規模は、大陸の18・4%(返還時)から2・7%(19年)まで低下している。華為はじめハイテク企業本社が集まる隣の深圳の域内総生産(GDP)は18年、香港のGDPを初めて上回り、香港と大陸の関係は「主客逆転」した。
とはいえ米国、日本、EU諸国など外国企業は、香港を大陸に進出する足掛かりにし、対中直接投資の約7割は香港経由。一方、中国は香港の通貨、株式、債券市場を利用して外国資金を呼び込み、新規株式公開を通じた資金調達の半分は香港上場企業が担う。
金融自由化が十分に進んでいない中国にとって、香港は依然として「代替不可能」な国際金融センター=写真 香港観光局HP=である。中国の発展にとり「二制度」の資本主義は不可欠なのだ。戦車で抗議デモを鎮圧した1989年6月4日の「天安門事件」の二の舞は避けたいのが本音である。
罰則規定などを盛り込む安全法の公布は早ければ6月中とも伝えられる。その骨格は2015年に成立した国家安全法がベースになるだろう。
「現状維持」に押し込める効果
国家安全法と聞いてまず頭に浮かんだのは2005年3月、台湾独立を封じるために成立した「反国家分裂法」だった。民主進歩党の陳水扁政権が2004年に第2期政権をスタートさせた翌年に当たる。陳政権は公的機関から「中国」「中華」などの名称を「台湾」に変更する「正名運動」を展開し、第1期政権時代より独立色を強めていった。 「反国家分裂法」第8条は次のように定める。
「分裂勢力がいかなる名目、いかなる方式であれ台湾を中国から切り離す事実をつくり、台湾の中国からの分離をもたらしかねない重大な事変が発生し、または平和統一の可能性が完全に失われたとき、国は非平和的方式その他必要な措置を講じて、国家の主権と領土保全を守ることができる」
「非平和的方式」とは、武力行使も含む対応を意味する。かなりあいまいとはいえ、「台湾独立」の三要件を挙げて、「レッドライン」を引いている。当時、世界中のメディアはこれを「武力行使法」と批判したが、規定をよく読めば、現状のままなら武力行使はしない「現状維持法」でもあった。
同時に「レッドライン」の威嚇効果によって、台湾アイデンティティ意識をもつ広範な台湾人と、「台湾独立派」(台湾ナショナリズム)を分断する意図もあっただろう。この法律によって、馬英九政権以来どのような政権が登場しようと、「現状維持」以外の選択肢はなくなった。独立派を抱える民進党政権も、「現状維持」の枠の中に押し込められたのである。
独立、転覆、外国介入以外は現状維持
国共内戦に勝った共産党は、組織工作に長けている。民進党の分断工作もおそらくお手のものだろう。しかし香港の大規模デモを展開したのは組織化された政党ではない。SNSでの情報共有によって、その都度、様々な場所で繰り広げる「ゲリラ戦」と言ってよい。
2019年の抗議活動の標的はキャリー・ラムら香港政府だったが、国家安全法が施行されれば、その標的は中央政府に向く。自ずと反体制化するのは避けがたい。台湾で成功した威嚇効果が、香港でも発揮できるかどうかは分からない。
もう一つの違いは、二つの法制ができた時代背景。「反国家分裂法」は2001年の「9・11」を受け、米中両国が「反テロ戦争」で足並みを揃えた米中協調下で成立した。一方、香港安全法は、米中の戦略対立下の法律になる。
いずれにせよ国家安全法も、独立、政府転覆、外国介入にレッドラインを引くことによって、中国の主権を犯す行為に明確な禁止枠をはめた。逆に言えば、これに反しない限り、言論・結社の自由は現状のまま認める「現状維持法」でもある。独立派と穏健な民主派とを分断する効果も狙っているのは間違いない。北京が得意な統一戦線工作の作法。
米中板挟みの日本
米中戦略対立の深刻化は、安倍政権にとっても他人ごとではない。特にトランプ政権がデカップリングで中国企業の排除を進めれば、日本政府と経済界も「米国かそれとも中国か」の選択を迫られる。日米同盟の強化を外交基軸にする安倍政権だが、今後はファーウェイだけでなく、中国主要企業との提携・協力・契約の見直しを迫られる局面が増えるのは間違いない。
これこそ新冷戦論の「思考のワナ」である。「新冷戦論」とは、米中対立の内容と性格を規定する単なるワーディング(用語)にとどまらない意味をもつ。経済はもちろん政治、軍事、思想、文化に至るあらゆる領域で「米国か中国か」「民主か独裁か」の二者択一に思考を誘い込む。まさに「落とし穴」と言っていい。第3、第4のオルタナティブ(選択肢)は排除される。「二択」を迫る、アジェンダ設定自体が無理筋なのだ。
その「落とし穴」にはまった格好の例が、緊急事態宣言の解除に伴う5月25日の安倍首相会見=首相官邸HP=。米ウォールストリート・ジャーナル東京特派員が「日本は米国か中国かどちら側につくか」と質問した。一見単純なようだが、二択を迫る新冷戦思考の「意地の悪い」質問。官邸は事前に想定していなかったに違いない。
安倍はこれに対し「米国は日本にとって唯一の同盟国」「中国は極めて経済的にも重要な国」と、日本が米中の「板挟み」状態にあることを「素直」に認めた。そこまではいいが、新型コロナウイルスの感染源について「中国から世界に広がったというのは事実」と、米国の主張を支持するコメントを付け加えてしまった。
「落とし穴」にはまり、「日本は米国側につく」という答えをしたも同然だった。
未熟な外交センス
コロナ感染による米国の死者数が10万人を超える中、トランプ政権が責任回避のため「感染源論争」を仕掛け、それも米中間の火種になっていることは誰もが知っている。相手が米紙記者だったせいか、安心したのかもしれない。科学的根拠もないのに「発生源は中国」と踏み込んで言ってしまった。案の定、中国外務省報道官は26日「発生源を政治問題化し汚名を着せることに断固として反対する」と厳しい批判を浴びせた。
「外交の安倍」と言われて久しいが、この発言は彼の政治・外交センスの未成熟さを物語る。マレーシアのマハティール前首相は常に「米中のいずれかをとるかを迫られることほど困ることはない」と言ってきた。中国外務次官を務めた傅瑩氏(清華大戦略安保研センター主任)は4月27日付けの中国紙「参考消息」注4 に「世界の国は中米のどちらかの側につくことを望んではいない」と述べている。傅瑩発言こそベストアンサー。これは安倍政権も認識しておいていい。今後も繰り返される質問だから。
(了)
注1岡田充「香港の潮目変えた3つの要因。自国デモに手を焼くアメリカ、運動疲れの香港市民」(「ビジネスインサイダー」6月9日)
https://www.businessinsider.jp/post-214238
注2(https://www.businessinsider.jp/post-213417)注3朝日新聞「香港の米企業にも打撃」(2020年5月26日朝刊)注4战疫:观察与镜鉴| 清华大学战略与安全研究中心主任傅莹:美强硬势力毒化中美合作气氛
http://ihl.cankaoxiaoxi.com/2020/0427/2408726.shtml
初出:「21世紀中国総研」より著者の許可を得て転載http://www.21ccs.jp/index.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1126:200613〕
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