私が出会った忘れ得ぬ人々(23) 草野心平さん――みんなが庶民が僕の理想
- 2020年 7月 2日
- カルチャー
- 横田 喬草野心平
「蛙の詩人」こと草野心平さんは、真に楽しく愉快な人だった。御齢ちょうど八十歳になる三十五年前、東京・東村山市のご自宅を訪問。その絶妙な話術に、腹を抱えて爆笑した。氏が二十代後半の昭和六(一九三一)年のこと、赤貧洗うがごとき貧乏暮らしの中、東京・麻布で屋台のヤキトリ屋を開業した当時の失敗談である。取材時の録音テープを起こし、その顛末を再現すると、
―― 一本一銭のヤキトリを八本食べた客が十銭玉を手渡し、「二銭はチップ、取っとけよ」
と背を向ける。尊大な態度にカッと頭に血が上り、二銭の釣りを手に客を追っかけ、「チップなんて要らん」「いいから、取っとけ」と押し問答に。あげくが取っ組み合いの大喧嘩になり、巡査が駆け付け三田署のブタ箱へ放り込まれ、一晩明かす羽目になった。――
十分な収入に縁遠い詩人暮らしは、戦前~戦後と本当に大変だったらしい。件のヤキトリ屋開業の折も、野ざらしの古屋台の購入代五円がなかなか工面できず、同郷の経済学者・櫛田民蔵氏を拝み倒してようやく金を借り、どうにか店開きへこぎつける。
――客に出すイス代わりの木箱を親しい仲の高村光太郎さん(彫刻家・詩人)の家へ自転車でもらいに行った。その木箱を積み込んだ帰り道、これで一件落着と気が晴れ晴れし、前を行く他の自転車を追い越したくなった。追い抜きに熱中し、九十九人まで抜いたところで勢い余り、下り坂の角の交番を目がけ自転車ごとまっしぐらに突っ込んでしまう。ガシャーンと内部をめちゃめちゃに壊してしまい、大目玉を食った。――
釣り銭が元の喧嘩沙汰といい、自転車での追い抜き騒動といい、もう稚気丸出し。この劇烈珍妙な告白に接し、私は一遍にこの人が好きになった。そして、その記憶力にも舌を巻いた。随分古い話なのに、固有名詞や金額なんかがすらすら出てくる。話しよう次第で暗くなりかねない貧窮時代の回想が、人徳だろうかカラッと明るく響くのにも感心した。
すっかり気持ちがほぐれ、かねてからの疑問である「蛙の詩人」のいわれ――なぜ、蛙が主役なのか、という素朴な質問をぶつけた。説明はいささか長く、
――日本を外から眺めてみよう、と十七歳で中国・広東の嶺南大へ入学した。大正十(一九二一)年のことで、(軍国主義日本の圧迫に対し)中国の学生たちは排日運動に立ち上がっていた。運動への共感と祖国への郷愁・・・。たまたま、大学のそばの沼に棲む食用蛙が夏、騒がしく猛烈に鳴く。子どものころ、郷里の田んぼでよく耳にした殿様蛙の合唱が思い浮かんだ。蛙同士、抱き合ってるイメージがふっと湧いた。
日本に帰国後、二十代半ばで著した処女詩集『第百階級』は、人間が第一階級なら蛙は動物界の百番目位という意味。その蛙を「どぶ臭いプロレタリア」「明朗なアナキスト」と讃え、蛙のための一大宇宙を創り出す。
――蛙の憲法や政治は、みんなで歌うこと。総理大臣も要らん、みんなが庶民。今でも僕の理想だな。
上下関係がよほど嫌いらしく、長年携わっている詩誌『歴程』との関わりも、「主宰ではなく、同人だから」とわざわざ念を押す。「若い人は先輩だ」と彼一流の警句を吐き、
――自分より例えば三十歳も齢若い人は、現代の先鋭・混沌の歴史をもろに背負っているから、その分、先輩。その先輩に負けないものを書こうとすると大変だ。日本の俳句や短歌が弱いのは、主宰者がいるから。
と、たたみかける。
私が「詩人の資質とは何でしょう?」と尋ねると、
――内にモンスターのようなものを持っている人。
と即座に言い切った。波長が合ったのか、草野さんは何でも率直に話してくれた。同居するパートナーと思しき中年女性は、「今日は初めて聞く話が多い」と漏らす。帰りしなに、「晩酌はおやりですか?」と尋ねてみた。「毎晩、五合です。つまみは十品以上ないと、おかんむり」と件の女性。さすがは、と舌を巻いた。
草野(敬称略)は一九○三(明治三十六)年、福島県いわき地方の旧上小川村(現いわき市)の地主の家に五人きょうだいの次男として生まれた。両親や兄姉らが上京した後、祖父母の許で育つ。生来癇が強く、幼少のころはよく引きつけを起こし人に噛みついたり、鉛筆や教科書を噛みちぎるなど奇行が目立った、という。
進学した県立旧制磐城中学を四年で中退~上京して慶応普通部に一時学んだ後、語学学校で英語と中国語を学び、二〇年に中国へ渡る。入学した広州・嶺南大学は米国系のミッション・スクールで、英米人の教授や中国人学生に混じるただ一人の日本人学生として国際感覚と郷土感覚を同時に培う。
在学中、中国革命の指導者・孫文やインドのノーベル賞詩人・タゴールらと対面し、感化を受ける。中国人の学友らと詩の研究会をこしらえ、詩作に励む。二十歳の時には短期間に「機関銃の射撃さながら」二百十編も書き上げ、「われながらあきれる」と『わが青春の記』に記している。が、排日運動激化のあおりで身辺に危険が及びかけ、翌々年やむなく帰国する。
東京で詩人仲間から高村光太郎を紹介され、知遇を得る。二八(昭和三)年、処女詩集『第百階級』出版。広東時代に創刊した詩誌『銅鑼』の同人に岩手県花巻在住の宮沢賢治を勧誘する。詩誌の主唱者として彼は才能発掘には天才的で、その典型例が賢治だった。知人から贈られた賢治の詩集『春と修羅』を一読し、その才能に驚嘆。「第一に感ずるのは透明な音楽と色彩であり、語彙の豊富。彼は原始の眼で自然を見た」「詩人の名誉は対象に命を与える最後の言葉を最初に発見すること」と激賞している。
四〇年、「対日和平」を掲げる汪兆銘を主席とする傀儡政権「南京政府」が成立する。同政府宣伝部長に就いた嶺南大同窓の親友・林伯生の手引きで、彼は宣伝部顧問の職を引き受け、南京へ渡る。以後敗戦まで五年余り南京に滞在し、宣伝活動を手伝った。敗戦時には当然ながら、自らの戦争責任に対する深刻な反省~悔悟を迫られたはずだ。
四六年に帰国。五〇年、『定本 蛙』など一連の蛙の詩作によって第一回読売文学賞を受ける。二年後、居酒屋「火の車」を新宿に開店。詩を作る傍ら、読売新聞夕刊に汪兆銘をモデルにした小説『運命の人』を連載する。創作活動で目を引くのは、高年にさしかかってからの活発化だ。七四年からは年次詩集を十二冊も刊行。他界する前々年まで現役作家として作品を多産し、健在ぶりを示した。文化功労者推戴・文化勲章受章。
一連の蛙の詩の中で、私が一番惹かれるのは「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」だ。蛙のゲリゲが仲間の制止を振り切って蛇の尻尾に食らいつく。が、当然ながら、返り討ちに遭って呑み込まれる。蛇の食道をギリギリ下っていく途中で、仲間たちに告げる最後の別れの言葉。
――(前略)こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ/そしたらおれはグチヤグチヤになるのだ/フンそいつが何だ/滅多に死ぬか虎のふんどし/死んだら死んだで生きてゆくんだ/おれのガイストでこいつの体を爆破するのだ/おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに/ドシドシガンガン唄つてくれ(後略)
「死んだら死んだで生きてゆくんだ」がなんとも奇抜で、この人ならではのセリフ。詩人・大岡信さんは草野さんの死後まもなく表した「弔辞」の中で、「ゲリゲの末期のせりふは、死をより大いなる生への入り口とする草野さんの思想をいち早くはっきり披瀝していた」とし、「その作品の中には何かしら宇宙感覚的な場があって、そこでは死の沈黙さへ不思議な歓びの世界に接してゐる」と述べている。全く同感だ。
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