本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(265)
- 2020年 7月 22日
- 評論・紹介・意見
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資本主義と共産主義
「1991年の12月」に、「共産主義」や「社会主義」の代表国家とも言える「ソ連」が崩壊したが、その後の展開としては、「中国」や「ロシア」などが、実質的な「資本主義国家」へ変貌したという状況でもあった。つまり、「中国」や「ロシア(旧ソ連)」などの国々は、本当の意味での「共産主義(コミュニズム)国家」ではなく、「遅れて発生した資本主義国家」でもあったようだが、この理由としては、「共産主義」という言葉が誤訳された点が指摘できるものと考えている。
より具体的に申し上げると、「世界の歴史」は、「市場経済」と「共同体(コミュニティー)」に分類されるものと考えている。しかし、実際には、「マルクス」や「エンゲルス」などの「史的唯物論」により、「資本主義が崩壊した後は、共産主義の時代が到来する」という「歴史的な誤解」が発生したものと考えられるのである。その結果として、「東西の冷戦」が発生するとともに、「ソ連の崩壊」以降は、「世界全体が、実質的な資本主義国家となり、未曽有の規模でのマネー大膨張が発生した」という展開だったのである。
しかも、現在の「中国」では、「共産党の一党独裁国家」が、「利潤の追求」や「帝国主義的な領土拡大」に邁進する状況となっているが、このことは、きわめて「時代錯誤的な事態」とも考えられるのである。つまり、「資本主義」がもたらしたものは、「資本(お金)」が「主義(最も大切なものである)」という「価値観」であり、その結果として、現在では、「マネー経済」が「実体経済」を振り回している状態となっているのである。
別の言葉では、「共同体」が崩壊し、「お金だけが信用される社会」が形成されたわけだが、このことは、「根のない切り花の状態」であり、間もなく、「お金が紙切れに変化する展開」も想定されるのである。つまり、「資本主義」の行き着く先は、「共同体」という「人々の結びつき」が重要視される時代だと思われるが、現在、最も注目すべき点は、世界的な「信用崩壊」が発生していることである。
より具体的には、今後、「デリバティブのバブル崩壊」により、「世界的な金利やインフレ率の急上昇」が発生する展開を想定しているが、この結果として発生する事態は、「小さな共同体が、数多く生み出される事態」とも言えるのである。つまり、「民族大移動の後半部分」のことでもあるが、実際には、「大都会」で住みづらくなった人々が「地方」へ移住を始める状況のことであり、現在の「香港」などを見ると、まさに、この動きが、すでに始まっている段階のようにも感じている。(2020.6.26)
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カズタマとコトダマ
ドイツの哲学者である「カール・ヤスパース(1883年-1969年)」によると、「約4000年前」から始まった「農業革命」により、生産力や経済力が飛躍的に高まった結果として、「枢軸時代」と呼ばれる「精神文明の勃興期」が発生した状況でもあったようである。そして、現在は、「15世紀の半ばから始まった大航海時代」、あるいは、「18世紀から始まった産業革命」などにより「工業革命」が発生し、生産力や経済力が、未曽有の規模とスピードで発展している状況となっている。
そして、今後は、「第二の枢軸時代」と呼ばれる「精神文明の新たな勃興期」が始まる可能性も想定されるわけだが、この理由としては、「数霊(カズタマ)」や「言霊(コトダマ)」が指摘できるものと考えている。つまり、「西洋文明の唯物論」に対して、「数学」が、大きな貢献を果たした事実が見て取れるわけだが、実際のところ、「1637年」に著わされた「デカルトの方法序説」では、「気象学」や「幾何学」などが詳しく説明されており、このことが、その後、「科学技術文明の発展」に繋がったものと思われるのである。
別の言葉では、「マネーの膨張」という「マネーの遠心力」が働いた結果として、世界全体の「経済力の輪」が広がったものと考えているが、現在の問題点は、やはり、「実体経済」のみならず、「マネー経済」までもが、発展の限界点に達した事実である。つまり、現在では、「神や真理の求心力」が働き始めており、このことが、前述の「枢軸時代」を発展させる原動力のようにも思われるのである。
より詳しく申し上げると、人々の興味と関心を表す「志(心指し)」が、すでに、「目に見えないもの」と「他人」とに向かい始めており、この結果として、前述の「経済力の輪」が収縮を始めているものと想定されるのである。つまり、「文明法則史学」が教えるとおりに、「唯心論」を追求する「東洋の時代」が始まった可能性のことだが、この点に関して、重要なポイントは、やはり、「言霊」を理解することだと感じている。
具体的には、「宗教」や「哲学」などの「精神面」の発展において、「言葉による理解」が必要とされている状況のことでもあるが、実際には、「言葉」が「人々の意識」に対して「どのような影響力を与えているのか?」を理解することである。別の言葉では、2500年ほど前の「第一の枢軸時代」では、「人間の意識や行動」に関して、実に複雑、かつ、精緻な研究や分析が、世界各地で行われたわけだが、今後の数百年間も、「第二の枢軸時代」という言葉のとおりに、同様の状況が再来する可能性のことである。(2020.6.30)
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十字架のイエス
森友事件で自殺された「赤木俊夫氏」の手記を読むと、自分の心までもが張り裂けそうな気がするが、当時の赤木氏の心境としては、「自分は、とんでもない罪を犯してしまった。罪を償う方法としては、もはや、自分の命を絶つことしか残されていない」と考えた状況のようにも思われるのである。そして、この事件から想起されることは、「十字架のイエス」でもあるが、聖書によると、イエス・キリストは、十字架の上で「二つの痛み」を味わった可能性が存在するものと感じている。
つまり、最初は、肉体の痛みであり、実際には、手に釘を打たれた時に、「神は、私を見捨てたのか?」と嘆いたものと思われるが、もう一つは、自分の体に槍が刺さり、命が消え行こうとした瞬間に、心の痛みを味わった可能性である。具体的には、「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのかわからないのです」と叫んだ状況のことだが、この「彼ら」には、「すこし前に、神を恨んだ自分自身」も含まれているようにも感じられるのである。
そして、この「二つの痛み」を、今回の「赤木氏」に当てはめてみると、「罪を犯した自分の愚かさ」に対して、「自分自身に嘘を付けない」という思いが強くなったものと思われるのである。つまり、「心の痛み」、あるいは、「良心の呵責」が、きわめて大きなものとなり、「肉体の痛み」を忘れるほどの状況となった可能性のことだが、薄れゆく意識の中で「赤木氏」が観たものは、「十字架のイエス」と同様に、「自分と他人への許しを神様に願う姿」だったのではないのだろうか。
「自分は、文書の改ざんと自分の命を絶つという、二つの罪を犯したが、現在では、自分の罪の重さに気付くことができた。しかし、佐川元局長は、心の底では、自分の罪に気付きながらも、いまだに、罪の償いができない状況である」
具体的には、上記のとおりに、神様に対して、「一刻も早く、佐川氏が気付きを得て、心が救済される状況」を、心の底から願った可能性のことである。つまり、「輪廻転生」を信じる東洋人は、昔から、「積善の家には余慶あり、積不善の家には余殃あり」という言葉などにより、「罪は、必ず、償われる性質を持っている」という理解をしていたものと考えられるのである。より詳しく申し上げると、「現世の罪」は、「来世」、あるいは、「来来世」まで持ち越される可能性のことであり、また、「自分の罪」は、子々孫々にまで受け継がれる可能性のことである。(2020.7.1)
本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion9955:200722〕
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