『チベット民族文化辞典』の刊行をたたえる
- 2020年 7月 28日
- 評論・紹介・意見
- 『チベット牧畜文化辞典』チベット中国阿部治平
――八ヶ岳山麓から(319)――
このほど、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所から『チベット牧畜文化辞典』が刊行された。この辞典は言語学・文化人類学・歴史学・生態学・農学にわたる日本人とチベット人研究者の共同研究によってつくられた。
主宰者の星泉氏をはじめとする研究者たちは、チベット牧畜文化の全体像をとらえようとして、2014年から6年間にわたり中国青海省黄南蔵族自治州沢庫(ツェコ)県で民族語彙の収集と記述に取り組んできた。ツェコ県は3500メートルの純牧畜地帯である。気圧が海岸の3分の2くらいのうえ、乾燥寒冷の気候だから生活するだけでも容易でない。
この辞典には冒頭に別所裕介氏によるチベット牧畜民の現況と共同研究の目的、南太加(ナムタルジャ)・山口哲由両氏による調査地概要、山口哲由氏による文化項目分類方針、海老原志穂氏によるアムド・チベット語の概況、星泉氏によるアムド・チベット語メシュル方言の音韻特徴などの多数の解説が掲載されている。
私は、別所氏の所論や南太加・山口両氏のツェコ県環境と牧畜論はともかく、チベット語、言語学については無知のために、星泉氏の音韻論、海老原志穂氏によるアムド・チベット語解説についてはなにひとつ語ることができない。だが、この辞典の学問的成果について一言いいたい。
中国政府は、長江・黄河・メコン川上流の水源地帯の荒廃を阻止し、同時に牧畜の近代化を図るという名目で、21世紀に入ってから牧民に対する「生態移民」という名の移住政策を進めた。ツェコ県もその例外ではなく、1万有余の牧民の半分がよその土地に設けられた移民村に移住して単純労働者となり、牧野に残った牧民も合理化近代化を進めるという趣旨で、合作社に組織されつつある。これに伴って、もともと20万頭いた家畜は、今は10万頭に減少した。この経過は別所氏・山口氏の解説に詳しい。
この移住政策にともない、乳や肉の加工、皮なめし、燃料としての畜糞の加工、織物、家畜の種付けや去勢、毛刈り、屠畜などの伝統的で自給的な技術はいま急速に失われつつある。
私は、内モンゴルで牧畜技術と文化が失われた状態を見て、民族の歴史の重要部分が失われたことを痛感したことがある。日本が中国東北部を植民地とした時代、文化人類学者の梅棹忠夫氏は牧畜をめぐる生産・生活用具の精密なスケッチをたくさん残したが、1990年代にモンゴル人大学生にそれを見せても、彼らにはその用途と名前がほとんどわからなくなっていた。同じことが今チベット人地域で起きているのを、私は胸が痛くなる思いで見ている。
この辞典に収録された語彙は、チベット高原の牧畜に関連するものはもちろん、それに直接関係がない生活語彙も多く収集されている。山口哲由氏はそのことを前書きの「本辞典における文化項目の分類」で、「牧畜民の一日の生産活動、すなわち朝の糞拾いや搾乳に始まり、日中の放牧を経て、家畜を連れ戻して夕方の搾乳を終えるまでに付き従い、さらには衣食住や宗教実践にかかわる日常の活動を含めた生活の様々な場面での参与観察を行いながら」語彙を収集したと語っている。よく頑張れたなあという感じである。
本辞典の見出し語はチベット文字表記、ついでWylie 方式によるラテン文字すなわちabc表記、国際音声字母、 品詞と語釈、解説、写真または図版の順となっている(以下拙文では見出し語はabc表記で表す)。とくに解説と写真と図版が語彙の理解を助けている。
まずは牧畜関連から興味深い語を2,3拾ってみよう。
「lalo」すなわち「馬」は、牧畜生活ではヤクよりも重要性がやや落ちるが、第4章「家畜の名称」から第13章「役利用」にわたって頻繁に登場する。なかでも第6章の「馬の外貌表現(毛色)」には見出し語が写真とともに50余りあって、詳細な観察と聞取りが行われたことを示している。
たとえば第13章の「馬具」の項目にある「sga rta srab gsum」は「馬と馬具一式」だが、これには「馬の持主が亡くなった場合、この一式を葬式で枕経を頼むラマに託す」という解説がある。この辞典を一読した友人の獣医は、「チベットにはモンゴル馬、河曲馬もあり、ロシアやアラブとの混血もあるのだからその見出し語が欲しかった」と言った。彼はモンゴル馬と日本の在来種木曽馬の関連を研究してきた人物である。さらに彼は鞍には「立鞍」と「坐鞍」があるが、見出し語にこれがないと悔しがった。見出し語にはないが、私には写真のチベット鞍が「立鞍」に見える。
見出し語の選択が行き届いていると思ったのは、第2章の「森・平原・道」の「lam」すなわち「道」である。「道」に関連する見出し語が12ある。その中には「峠に至る道」「尾根を含む斜面を通る道」など各種の道が見出し語となっている。
なかでも「sa lam」は「凍結した川に土を撒いた道」とされている。私はどうしてこれが見出し語になるかと疑ったが、解説に「冬季には川の凍結により家畜が滑って渡れなくなるため、凍った川に土を撒いて道を作る」とあった。冬季の家畜移動には「凍結した川に土を撒いて作った道」は欠かせないのである。
第16章「住文化」の「thab ka」つまり「かまど・ストーブ」を見ると、火をおこし消すまでの動作とか、近代的な鉄製ストーブとその修理法、正月の「ままごと」をやるために母屋であるテントから少し離れたところに設置する「かまど」まで80近くの見出し語がある。
そして最終章の第28章「新しい政策・技術・道具」において、放牧地の私有化、生態移民関連政策、行政区分、環境保護活動、さらに太陽光発電、クリームセパレーター、携帯電話、パソコン、ネット関連の語彙が登場してこの辞典が終わる。
かくして本辞典は、牧畜の近代化=中国化が進んだいま、まさに失われようとしている牧畜民の生活と生産の技術と文化を隈なく記録したものになっている。偉業というべきではなかろうか。著者らに、心からの賛辞を贈りたい。
なおこの辞典には書籍版だけでなく、PDF版、ウェブ版が公開されており、ポータルサイトで情報を確認できる。
「チベット牧畜文化ポータル http//nomadic.aa-kenn.jp」
「チベット牧畜文化辞典ウェブ版 http//nomadic.aa-ken.jp/search/」
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〔opinion9972:200728〕
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