方程式としての『資本論』―Gleichungは「等式」ではなく「等置行為=方程式措定」である―
- 2020年 7月 31日
- スタディルーム
- 内田 弘資本論
[注目すべき『資本論』第1部第1章第1節] 『資本論』の冒頭そのものでは、価値は使用価値と同格の前提でない。そうではなくて、「価値」は相異なる「使用価値」の私的交換関係から発生する。したがって、まず使用価値が存在して、その交換関係から価値は発生する。この発生の順序の論証こそ、当該第1節の主題である。その論証に当てられた重要な個所をつぎに引用する。
「二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。これらのものの交換比率がどうであろうとも、この比率は、つねに或る与えられた分量の小麦がどれだけかの分量の鉄に等置された(gleichgesetzt wird)一つの方程式(eine Gleichung)、たとえば、1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄によって表わされる。この方程式は何を意味するのか?同じ大きさの一つの共通物[価値―商品価値]が、二つの異なった物のなかに、すなわち、1クォーターの小麦のなかにも、aツェントナーの鉄のなかにも、実存するということである」(Das Kapital, Erster Band, Dietz Verlag Berlin, 1962, S.51:『資本論』新日本出版社、1982年、63頁。以下、S.51とのみ記す。[ ]内は引用者補足。)。
[等式と方程式] 上記引用文のGleichungは、引用した日本語訳の原文では、実は「等式」となっている。しかし、ドイツ語の「等式」は「Gleichheit」であって、「Gleichung」(方程式)ではない。英語でも、「等式」はequalityであり、「方程式」はequationであると明確に区別されている。1+2=3は等式である。1+x=3は、未知数xを含む等式、すなわち方程式である。
[Gleichung=等式は誤訳] 従来の日本語訳では、長谷部文雄訳(青木文庫)、向坂逸郎訳(岩波文庫)という早期の訳が「方程式」と正確に訳しているけれども、それに続く他の翻訳(国民文庫・新日本出版社・日経BPクラシックス・筑摩書房など)は、なぜか、すべて「等式」と誤訳している。この誤訳は、単なるケアレス・ミスとして見過ごすことができない、『資本論』の基礎概念「価値」の生成根拠が不分明になってしまう誤訳である。なぜだろうか。
[Gleichung(等置行為=方程式措定)] なぜなら、使用価値が相異なる私的財を、その財の所持者が「等置する行為(Gleichung)」こそが、未知数を含む等式=「方程式(Gleichung)」を発生させるからである。その方程式の解が「価値」である。なぜだろうか。使用価値が相互に異なるのに、それらを等置すれば、その等置行為はその異なる使用価値を「観念的に(頭脳の中で)」捨象して、等置した関係そのものを抽象することになるからである。『資本論』における価値とは「抽象された関係そのもの」である。価値は本源的には「関係形態」という観念的存在である。
[使用価値の捨象=価値の抽象] 等置された関係そのものは、『要綱』「貨幣章」が指摘するように、「ただ思惟されうるだけ」(MEGA/II.1.1,S.78)の、すぐれて抽象的な存在である。この事態を『資本論』は明確に、「諸商品の交換関係を明確に特徴づけるのは、まさに諸商品の使用価値の捨象である」(S.52)と明言している。「使用価値の捨象(Abstraktion)」は、商品所持者たちの使用価値の質の違いは無いものとして、それらを等置する思弁的な社会的共同作業である。その裏面で同時に進行するのが「価値の抽象(Abstraktion)」である。質が異なる使用価値が相互に等置されることによって捨象され、交換関係が価値そのものとして抽象され自立する。したがって、価値は本性からして思弁的観念的存在である。
[価値はすぐれて観念的な存在] 抽象される交換関係そのものは「ただ思惟可能な存在」である。価値は、商品所持者たちが相異なる使用価値を捨象した結果である。価値は、異質な使用価値に「価値なるもの」が内在すると私念しつつ等置する社会的な行為の結果である。したがって、価値はすぐれて社会的に観念的な存在である。その観念が金に物象化されようと(金貨幣)、電子に仮託されようと(電子マネー)、価値は、本源的な本性からして観念的な存在である。人間の五感で感知できる物と誤解してはならない。
[使用価値:実数←→価値:虚数] 人間の思惟能力で抽象された「交換関係そのもの=価値関係」はすぐれて「想像されたもの」(imaginär,imaginary)である。数学の実数(real number)に対応するのが使用価値であるとすると、虚数(imaginary number)に対応するのが価値である。使用価値と価値の統一物である商品は「実軸と虚軸」から構成される「ガウス平面」に位置づけられる。マルクスが『資本論』で価値を数学の虚数に相当すると指摘したとき、「ガウス平面」を想定していたと推定される。マルクスは彼の「数学草稿」に記録されているように、特に1860年代から晩年まで、オイラーを含む数学を研究した。
[第二版後書きの注記] 私的財を交換する者たちが相異なる使用価値を思弁的に捨象し「等置する行為」(Gleichung)が「方程式」(Gleichug)を発生させる。その相異なる使用価値を結合する「価値」がその方程式の「解」である。第1節における「価値生成の論証」の重要性を、マルクス自身、『資本論』「第2版への後書き」冒頭で力説している(S.18)。そのさい、「等置行為→方程式の措定」が同一語Gleichungの語呂合わせで説明されている。
遺憾ながら、この後書きの用語「方程式」も、長谷部訳以外では、向坂訳も含めてすべて「等式」と誤訳されている。『資本論』の核心「価値の生成根拠」を開示する用語「方程式」が「等式」と誤訳されてきたのである。
[誤訳「等式」の氾濫] 「等置行為(Gleichung)」が生み出す「方程式(Gleichung)」を「等式(Gleichheit)」と誤訳してきたのが、『資本論』の長谷部訳・向坂訳を除く、従来のほとんどの日本語訳である。
[『資本論』商品・貨幣論の「方程式」] 使用価値と価値は『資本論』の最も基本的な概念である。であるのに、価値の生成根拠を論証する装置である「Gleichung(等置行為=方程式)」を理解できないで誤解する。国民文庫、新日本出版社などの普及性のある翻訳がみな「等式」と誤訳している。それを読む読者もその誤訳にしたがって誤解しているのではなかろうか。
『資本論』第1部の商品=貨幣論には、Gleichungは総計20個所で用いられている。Dietz版のページでその個所を示せば、つぎのようになる。51(2)は、51頁には2個所出てくるという意味である。
18,51(2),63(2),64,67,68(2),70(2),78,79(3),80,81,82(2),110(2)[20個所]
長谷部訳、向坂訳以外の訳はこれらすべてのGleichungを一貫して「等式」と誤訳している。しかも、Dietz版の編集者も、Das Kapital巻末の「事項索引」で「等式(Gleichheit)」は掲げているけれど(S.935)、「方程式(Gleichung)」は掲げていない。独日双方の「方程式」無視である。《『資本論』は「方程式」とは全く無関係である》という事実に反する確信が、なぜ存在するのであろうか。
[誤訳問題と前提誤解] 誤訳語「等式」では「価値」の生成根拠が全く不明になる。その不明のため、最初から価値と使用価値は同格の前提であると誤解する。Gleichung誤訳問題と『資本論』の前提誤解とは不可分である。その誤解では、『資本論』の体系展開の原理が分からない。
[原理としての使用価値および価値] 使用価値の私的交換関係から自立した価値は、その生成根拠である使用価値と媒介しあって『資本論』体系を展開するのである。「使用価値の私的交換関係=方程式」から「価値=解」は導き出される。「価値」が導き出されて、使用価値は価値との統一物=「商品」と規定され、『資本論』体系展開の原理になる。商品の使用価値と価値の媒介関係が『資本論』のその後の諸概念の体系的展開の原理である。原理とは、最初に措定され、その後の論証を体系的に貫徹する論理である。商品は『資本論』の最初に措定された原理、「集合かつ要素形態としての原理」である。
拙著『資本論のシンメトリー』(社会評論社、2015年)は、異質の使用価値の「等値行為(Gleichung)」が「価値」を解とする「方程式(Gleichung)」を措定するという『資本論』の観点に即して、『資本論』の体系的理解を提示したものである。
[旧訳を綿密に検討していない新訳] おおよそ新訳は、先行訳の沈着な点検を不可欠な前提作業とする。それは学知的に義務的な作業である。長谷部訳・向坂訳以後の訳はその点検が十分ではなかったのではなかろうか。
たとえば、『マルクス・コレクション』に収められた、比較的新しい『資本論』第1部の訳(筑摩書房、2005年)でも、先に引用した『資本論』第1部第1章第1節からの引用文におけるGleichungを「方程式」でなく「等式」と誤訳している(鈴木直などの共訳、58頁)。他の個所のGleichungも「等式」と誤訳されている(75,76,77,82,83,84,86各頁など)。
最近「新版」と自称し刊行された新日本出版社の『資本論』の「新」訳(2020年)でも、Gleichungは、旧訳と変わらない誤訳「等式」のままである。新訳が旧訳の誤訳を、無意識に・無批判に継承してきているのである。
[岡崎訳の「方程式」から「等式」への後退] 岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年』(青土社、1983年)によれば、岩波文庫版の向坂逸郎訳は、実は岡崎次郎が行ったものである。これはあまり知られていない『資本論』翻訳史の秘話である。しかしながら、名義では向坂訳となっている岩波文庫版では『資本論』本文のGleichungが「方程式」と正確に訳されているのに、訳者名が晴れて岡崎次郎と明記されている国民文庫版(大月書店、1972年)では、「等式」と誤訳されている(第1分冊75頁など)のは、なぜであろうか。
[長谷部訳は古典的翻訳] 長谷部文雄訳の『資本論』(日本評論社1937~50年、青木文庫1957年)では、Gleichungを一貫して「方程式」と正確に訳している。その訳を含め、長谷部訳は『資本論』翻訳の古典である。張一兵の《**に帰れ!》に習っていえば、《『資本論』の翻訳は長谷部訳に帰れ!》といえるだろう。以上、翻訳作業の労苦を思いながら、正確さを切望して、無視できない誤訳を指摘した。[付記:なお、本稿に関連する拙稿「『資本論』の方程式」(『専修経済学論集』第136号、2020年7月)は、その主題に本格的に詳細に取り組んだ論文である。参照いただければ、幸いである。]
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1132:200731〕
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