[靖国合祀]念じれば「霊」は遺族のものだ
- 2020年 8月 23日
- 評論・紹介・意見
- 戦争鎌倉悟朗靖国神社
8月は戦争のにおいがする。遠景だった靖国神社がにわかにざわつき始め、戦死者遺族の心には悲哀と悲憤が交錯する。今年の「終戦の日」は、新型コロナ禍の世情不安を奇貨として、4年ぶりに現職4閣僚が靖国を参拝した。その4人は小泉進次郎環境相、高市早苗総務相、萩生田光一文科相、衛藤晨一沖縄北方担当相である(東京新聞)。「いかにも」の懲りない面々だが、閣僚になってもシンジロー氏が参拝を続けたことを覚えておきたい。安倍晋三首相は今年も玉串料の奉納にとどめたが、中韓などの反応を睨んでのことと報道されている。
戦後の75年を引きずりながら、靖国はなお問題であり続ける。人々の中に「A級戦犯合祀」「政教分離」「首相参拝」などを巡って激しい対立を巻き起こしてきたが、その論争に加わるつもりはない。それよりも、こんな騒々しさに距離を置く「ご近所」の遺族のことが気になる。それは、お盆になれば戦死した身内の霊を家族のもとに迎え、静かに追悼したいと願っている人たちのことだ。そして、今となれば「あれはよい戦争だった」とは思えず、軍靴と血の気配をまとう靖国とは縁を切りたいと思っている遺族らのことだ。
こうした遺族の願いに対して、靖国は冷たい。戦死とは靖国での合祀を意味しており、「靖国で会おう」は戦争遂行の合言葉だった。戦争神社としての歴史を抱える靖国は、これまで合祀不同意や分祀・廃祀を訴える遺族の思いを押し潰してきた。その説くところは「いったん祀った霊はみんな混ざって一体化している。だから個人の霊は取り出せない」という独自の「教義」に基づく非情なものだ。一般の神社では分祀が可能なのだが、分祀不可の教義を持つのは靖国だけという。突き放された遺族には取り付く島がなく、分祀についてはあきらめているかも知れない。
しかしお盆には、各地の家庭で戦死者の霊を迎えている。それぞれは靖国の「一体化した合祀霊」から抜け出してきた個人の霊だろう。家族らが迎えて祀るなら、実態はすでに分祀に近い。お盆に限らず、いつでもこんなふうに手元に霊を取り戻せないものか。そうなれば、遺族がそれぞれの仕方で思うように追悼できるだろう。(筆者は 霊は存在しないと考えるが、死者とのつながりや積み重ねた歴史は大切なものと思っている。人々の死者への追慕や宗教的な感情は奥ゆかしく、そこでは霊は身近なものに違いない)。
こんな方法はいかがだろう。例えば「父の霊をいま靖国神社から取り出して、ここに迎える」などと遥かに念じるのだ。ただそれだけである。靖国あて「○月○日付で父・○山○夫の霊を取り出した」と葉書などで通知しておけば、決まりも付こうか。もしも靖国側が「無効」などと警告してきても、遺族側の心持ちの問題として黙殺すれば済むことだ。折を見て「父の霊は靖国から家に帰ってきた」「もう靖国にはいない」「今は墓に眠っている」などと、周囲にそれとなく伝えておけば気も休まろう。いったん心を決めれば、そのときはもう靖国流の合祀神学をさらりと乗り越えている。
帰宅した霊とは改めて新しい関係を築いていく。霊璽に祀り直すなり、さっそく墓参りするなり、一緒に暮らすなり……、それぞれの流儀があろう。靖国から離れたことで不安に駆られるかもしれない。そのときは「戻す」と再び念じて、靖国へ帰ってもらえばよい。遺族が自らの信念に基づいて霊を自由に「出し入れ」するのである。不謹慎とする向きもあろうが、要は心が受け入れるかどうかだ。かつて靖国の遺族は、戦争指導者であるA級戦犯との合祀を無断で強行された。ならば「縁を切りたい」と訴えても断られている。司法も分祀を認めてくれなかった。遺族の今の気持ちと靖国の姿が大きく離れているなら、ひるむことはない。
靖国とは異なる宗教での追悼や、無宗教を望む遺族もいる。霊の所在が遺族側にあれば、心おきなく追悼できるだろう。そもそも霊について「所有権」があるとするなら、それは遺族側に属すると考えるのが自然ではないか。靖国は「英霊」の代弁者を任じ、合祀霊として戦死者の霊を独占するが、了見が狭い。「霊の一体化」という仕組みも、霊を囲い込んで不可侵とする排他装置として働いている。何人も遺族の追悼の気持ちを侵すことはできない。戦後75年を過ぎてなお思うような追悼がかなわず、高齢となった遺族がむなしい思いを抱えて墓参をする。その墓に思う人はいない。この現実を靖国神社は恥じるべきだ。
【補足】
本欄では、裁判や対中韓外交などの文脈で論評されることの多い靖国問題だが、根っ子にはこんな「暮らしの中の靖国」がある。「合祀-分祀」問題を含め政治は憲法上、この宗教施設に手を触れることができない。一部の政治家が「非宗教法人化」を間歇的に言いだすが、衣の下から鎧や思惑が覗いている。しかし戦死者の遺族なら靖国から骨を抜き、スカスカにもできる。靖国の流儀が受け入れ難ければ、どんどん「霊」を抜き出して、遺族の手もとで自由に追悼してみたらいかがだろうか。この心情的光景の中にある靖国は、虚ろな姿をさらすことになろう。
もとより、こうした観念的な「見なし」に頼るのは危ういものだ。宗教教義や唯物的な思想によっては、以上のような考えに馴染まない向きもあろう。こんな奇手こそ姑息で、靖国問題の本質から目をそらすことになる。そういう批判があるかもしれない。その通りだと思う。本筋はあくまでも靖国自身による「分祀」である。そのためには、おそらくこの神社の抱える思想が破壊されなければならない。それは現在の靖国の解体に連動する。多くのジグザグを経て、日本人はいつの日かそこにたどり着くかもしれない。しかし目の前で苦痛を感じている人は見過ごせないものである。奇手であっても、靖国神社の仕掛けや方便を空洞化させつつ、その日までを繋ぐ「手」の一つになるのではないか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10048:200823〕
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