純粋北一輝(前編)
- 2020年 8月 31日
- 評論・紹介・意見
- 北一輝
かっての諸世代とぼくらの世代のあいだには、ひそかな約束があり、
ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。
ベンヤミン
この試論はその人生のすべての期間を革命家として生きた北一輝(一八八三~一九三七)の革命精神に注目し、その思想の全般的な解明の端緒を見い出さんと試みるものである。純粋北一輝の発見乃至創造がここでの課題である。純粋北一輝という言葉の意味については、竹内好が『毛沢東評伝』の中で〈純粋毛沢東〉に与えた定義を援用したものであることを断っておく。毛沢東は井岡山で根拠地を建設したが、この根拠地を毛沢東は中国の全域に拡張した。その意味で井岡山時代に〈純粋毛沢東〉が成立したと竹内好は考える。
「井岡山は、中華人民共和国の発祥の聖地と称しうる。ここで行われた実験が核になって、その周囲に肉づけされたものが今日の巨大な建設である。したがって、一切のものは遡れば井岡山に行きつくはずであり、危機に際して新しいエネルギイ源として省られるものも井生岡山である。そして井岡山の人格を代表するのが毛沢東である。」(竹内好『毛沢東評伝』1950年)
〈純粋毛沢東〉というのはユニークだが危うい概念だ。竹内好の弱点を象徴する概念と言ってもいいかと思う。なぜならば、もし成功した革命家毛沢東の人格の確立が井岡山にあるとするならば、文化大革命の混乱と破壊の原因もその淵源は毛沢東の人格そのものにあり、もしそうであるならば〈純粋毛沢東〉は中国の社会主義建設の理念であると同時にその破壊を担保する理論でもありうるということになるからだ。〈純粋毛沢東〉は歴史的現在の中国においてはどのような評価が可能であろうか。それはおのずから別個の問題である。
〈純粋毛沢東〉という概念が成立すると同様の意味合いにおいて私は純粋北一輝という概念も成立しうると考える。北一輝の思想と行動のすべてをそこから演繹できるような概念としての〈純粋北一輝〉。このような概念を発見しようと試みるのがここで私に与えられた課題である。しかし北一輝は毛沢東とは違って成功しなかった革命家である。今のところは成功していないだけであると大急ぎで付け加えておかなければならないのだが。北一輝の人生は挫折と失敗の繰り返しであった。そして北一輝のめざした革命は最終的に完全な敗北に終わったのである。失敗した革命家に我々が注目すべき理由などあるのだろうか? それはある。歴史の天使は廃墟をこそ凝視するのであるからだ。今はそれだけを述べて先に進むことにしよう。純粋北一輝はいついかなる形で成立したのか?
北一輝の名前はふつう二・二六事件との関連で語られることが多い。そこでまず高校の歴史教科書で北一輝がどのように記載されているか確認しておこう。
「1936(昭和11)年2月26日早朝、北一輝の思想的影響を受けていた皇道派の一部青年将校たちが、約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などを襲い、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎教育総監らを殺害し、国会を含む国政の心臓部を4日間にわたって占拠した。首都には戒厳令が布告された。このクーデタは、国家改造・軍部政権樹立をめざしたが、天皇が厳罰を支持したこともあり、反乱軍として鎮圧された。」(山川出版社2017年版『詳説日本史』351頁)。同教科書の北一輝の名前には註釈が付いていて、「右翼の理論的指導者で、天皇と軍隊を中核とする国家改造方針について論じた『日本改造法案大綱』(1923年刊)は、右翼運動家のバイブルとなっていた」との説明がある。
歴史とは事件の連なりではあるが、歴史を創るのは人間である。この記事だけでは北一輝がどんな人物であったかは判然としない。人物はエピソードによってこそ上手く伝わると云われる。「純粋北一輝」の像を抽出するという本稿の趣旨と少し外れるのであるが、外堀から埋めるという意味合いにおいて、北にまつわる若干のエピソードを掘り起こしてみたい。因みにエピソードとは、ある人についてあまり知られていない興味ある話という意味である。逸話と同義。
◇エピソード1 北一輝に「魔王」という称号を奉った大川周明の証言。文中の渡邊氏とは経済と宗教との帰一を標榜する事業団体「天華洋行」の主宰者渡邊薫義。
「そのうち北君の方から、国家革新の必要を渡邊氏に説き初めた。話を進めていった北君が『あなたは非常に博学のやうでありますから無論ホジソン教授の有名な博物学をお読みになったでせう。ホジソンのナチュラル・ヒストリーをお読みになりましたネ』と訊ねた。渡邊氏は『勿論読んだ』と答へた。そして北君が『あの本の中に颱風の効能を述べて居りますが、御記憶でせうネ。ホジソンによると、蜘蛛の繁殖力は実に物凄いもので、若し時々の颱風が無ければ、全地の草木は蜘蛛の巣に包まれて枯れてしまひ、地上から緑の色が影を潜めるだろうと書いてありますネ。そうでせう?』と駄目を押すと渡邊氏は『其通り』と答へた。北君は革命を颱風に例えてその必要を説くのである。
それから話題は他の問題に移ったが、対談二時間の後に我々は辞去した。外に出てから私は北君に向い、『君は御経ばかり読んで本など手にしたのを見たこともないが、いつのまにホジソンのナチュラル・ヒストリーを読んだのか』と訊ねた。すると北君は平然として、『そんな本は僕も知らんよ』と答へた。私は其の洒々然たる態度に、今に始めぬことながら、さても驚き入った魔王であると感嘆した。」(大川周明「二人の法華経行者――石原莞爾将軍と北一輝君」『改造』1951年)
魔王と云うのは大川が北に付けた綽名であって、大川が真剣に北のことを語る場合には「仏魔一如」という言い方をしていることに注意すべきであろう。
◇エピソード2 北一輝夫人の回想録より。文中の譚老人とは辛亥革命の指導者譚人鳳。
「ところが、ある時のことです。譚老人は、形をあらため語を正しくして北に云うには、『中国革命ようやく成ると雖も前途はなお容易ではない。遠き東洋の将来のことを考えると、日華両国は必ず相援くる共存共栄の道を歩む以外に道はない。しかもこの一事は、かかって貴下と私との責任にある。だから貴下と私は二人であって二人でない。一躰のものである』と、前提し、『もしこの前提に誤りなくんば』と、語をつぎ、『どうか孫瀛生を貰ってくれ(瀛生の母は産褥熱で死亡していたー引用者註)。瀛生を貴下に託す。その理由は故なきではない。このことはどうにも私事のように聴こえるかもしれぬけれど、自分としては、貴下が、これを掬育し他日有用の材としてくれるならば、われ歿後、百年の後といえども、われわれは彼れに我が志を継がしむることが出来るではないか。だから、日華両国のため、東洋永遠の和平のために彼を掬育してくれ』言々句々誠意披露されて述べられたのです、北もまたそれに感激快諾したとのことですが、この時瀛生わづかに一年二カ月、しかも病弱のため骨と皮ばかりに痩せ衰えこの世のものとは思えませんでした。私は瀛生を一目みるや思わず、帯を解き肌を拡げて走りよって譚老人の手より奪いとるようにして私の肌に抱きしめたことを覚えていますが、そんな衝動に駆られるというのも、私が北と全くの同身一体になっていたからではないでしょうか。」(北鈴子「ありし日の夫・北一輝」『女性改造』昭和二五年二月号)
興味深いエピソードは他にも多いのだが逸話の紹介はこの二件だけにしておく。才能は個性を造るが個性を示す逸話をいくら積み上げても才能には到達しない。北一輝の天才こそ我々の関心事でなければならない。
第三章 佐渡の青年思想家
北一輝は佐渡の出身である。北が生まれる時代よりはるか遠き元禄二年七月七日松尾芭蕉は新潟県直江津で興行された俳諧の席に連なって次の発句を詠んだ。
荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
これは佐渡に対する神聖な挨拶であろう。ハイデッガーはヘルダーリン講義の中で言葉としての挨拶について次のように述べている。
「神聖な挨拶とは、挨拶されているものに対して、そのものに当然帰せられるべき本質の高さを約する語りかけであり、かくしてこの挨拶されたものをその本質の高貴よりして承認すると共に、この承認を通して、その挨拶されたものをそのあるところのもので有らしめる、そのような語りかけである。」(ハイデッガー全集第53巻 ヘルダーリンの讃歌『イスター』 三木正之・エルマー・ヴァインマイアー訳)
時は流れて二十世紀、もう一人の人物が佐渡への神聖な挨拶を反復する。その挨拶は佐渡から新人が出現することを期待するものであった。その期待に応えて登場したのが北一輝である。図らずも北一輝に呼び出しを掛ける役割を果たしたのは内村鑑三であった。以下に引用するのは明治34年(1901年)1月1日の『佐渡新聞』「佐渡の新天地」と題する署名内村鑑三の記事である。なおこれは全文である。
「年は改まれり、世紀は革まれり、然れども人心は改まりし乎、
政治、殖産、商業の改まざるを嘆くを休めよ、そは是れ枝葉問題なればなり、佐渡の孤島に一大道徳風を吹かしめよ、北海の波上に一聖<人国を起こらしめよ、黄金を日本国に供する佐渡は、之に黄金の思想をも供せよ、
昔時は地中海の極東パトモスの孤島に聖ヨハネは一つの理想国を夢み、之を黙示録に載せて後世に伝えしより、幾多の政治的大試験は行われて人類の進歩に多大の致動力を加えたり、知らず金剛山の麓、加茂湖の辺は此の大理想を夢むるに適せざる乎を、
余の佐渡人士に望む所のものは之より以下のものにあらず、
第二十世紀始 東京市外角筈村に於て 内村鑑三」
内村鑑三の挑発に応えて北一輝の天才は開花した。挑発に応えたという言い方は誤解を招くかもしれない。内村鑑三は明治という時代にあってその高き理想を掲げて日本人を道徳的に高めようとした偉才である。彼の理想は明治という時代に深く刻印されている。内村の著書『代表的日本人』が初めて刊行されたのは日清戦争が戦われた直後だった。栄光の明治の息吹を今に伝える書物である。内村の理想に触発されて日露戦争後の日本の取るべき進路を深く考量し二十世紀日本の〝原哲学〟を北は構築した。内村の挑戦の言葉に敢然と応じて立った者が佐渡の青年北一輝だったのである。
「北の思想の展開過程は、日露戦争から太平洋戦争までの日本人の大部分のまじめな思想過程の〝原哲学〟である。だから北の思想を現在の地点で読み直すことは、明治末期以後の日本人のエートス、問題意識、思考態度を、思想のトップレベルではっきりと意識化することを意味している。」(久野収「超国家主義の一原型」『近代日本思想史講座4知識人の生成と役割』筑摩書房、一九五九年九月)
『佐渡新聞』が創刊されたのは明治三十年九月、北が佐渡中学に入学した年であった。「日本のヨハネ」たらんとする北一輝の努力は実を結んだ。この『佐渡新聞』を舞台に天才思想家北一輝のデビューは果たされたのである。革命思想家北一輝の思想成熟の過程は、明治三十四年十一月二十一日の「人道の大義」という論文を皮切りに、明治三十八年十月二十一日の「社会主義の啓蒙時代」へと至る、『佐渡新聞』に掲載された約二十篇の論文詩歌等を跡づけることによって検証が可能である。北一輝初期作品の分析に関しては松本健一『若き北一輝』(1971年)が詳しい。なお北一輝初期作品は『北一輝著作集 第三巻』(筑摩書房1972年)にすべて収録されている。
第四章 島の伝説と森の伝説
日露戦争後に現れた日本の知識人の中で北一輝と大江健三郎はその突出した天才性に於いて双璧をなす。同じく天才性を有すると言っても両者の違いもはなはだ大きい。北一輝は二十三歳で『国体論及び純正社会主義』を書き上げた早熟の天才であるのに対し、大江健三郎はひたむきに努力を重ね晩年になってようやく大作家に成長した。ウサギと亀の競争のような対称性がある。北一輝は革命家としては挫折したが、大江健三郎はノーベル文学賞を受賞した(1994年)社会的な成功者である。しかし大江の作家としての真の進化はノーベル賞受賞以後の晩年の作品群の中にこそ見ることができる。大江の『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)以降の作品群はその深みと濃度によって、北一輝の思想の濃度に並び立つレベルに到達したと私は考えている。両者の共通点について述べるならば、生まれ育った郷土の伝説に心底から捕えられたその徹底性にある。大江と北を対比的に考察するのが有効なのは、両者に於いて「伝説」に対して真摯に向き合ったその姿勢において共通性が認められるからである。伝説の意義について松本健一は次のように語っている。
「伝説というものが、その土地にすむ人びとの共同的な虚構であるかぎり、その土地に生まれる子孫たちにとっては、それが一種独特な迫真性をもって受けつがれることは間違いない。つまりこの迫真性とは、伝説のもとになる事実があったことによって生ずるものではなく、伝説じたいが存在することによって生ずるものなのである。」(松本健一「北一輝初発の動力」『思想としての右翼』1976年)
グーグルアースを起動して「愛媛県 大瀬中学校」で検索すると、大江の生まれ育った谷間の村に直行する。次いで「佐渡 北一輝」と打つと北一輝の墓がある勝広寺青山墓地へと一瞬で下降する。グーグルアースに現前するこの四国の森と佐渡ヶ島の幻郷の差異が大江と北の個性の違いを育てた背景にある。そこに視覚像として現前するのは森の伝説と島の伝説の本源的な差異である。
「私は佐渡に生れまして、少年の当時、何回となく順徳帝の御陵や日野資朝の墓や熊若丸の事跡などを見せられて参りまして、承久の時の悲劇が非常に深く少年の頭に刻み込れました。」(昭和十一年四月十七日「憲兵隊調書 第七回聴取書」『北一輝著作集第三巻』)
「おれの話すことに、語呂あわせじみた部分が多くまぎれこむのは、おれの幼年時代の記憶がほとんどすべて、谷間の口承の伝説に影響されているからなんだ。森にかこまれた谷間では、内部の情報をたがいにマリ投げみたいにいじくりまわしているうちに結局なんでもかでも、新しい伝説にしあげてしまう。しかもそれを口承伝説として語り伝える、唯一の修辞学的技巧が、つまらぬ語呂合わせなのさ。」(大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』1972年)
空間的差異に併せて時代的な差異の観点も重要である。北は佐渡に於いて日露戦争勝利の報を聞き、大江は森の中の谷間で大日本帝国の敗戦に直面した。大日本帝国最大の勝利と最後の大敗北。北一輝の思想と大江健三郎の文学の間にはこの時代的差異が深く刻印されている。これらの空間的及び時間的差異を構造的にトータルに把握することによって、北一輝と大江健三郎の本質が抽出されるであろうという直観がまず先にあった。最終的に、ここでは北一輝についての論を立てることになったのであるけれども、初発のアイデアとして「島の伝説と森の伝説」の構図が私にあったことを一言申し述べておく。
「松山東高校へ転校するならば、一応は思いどおりの大学へ入れるのじゃないか? それならばここで覚悟をきめて、歴史学をやるつもりになってもらいたいと思う。もちろん、大日本帝国→日本国の歴史学をやれというのじゃないよ。こんな若僧にも、戦争前後の歴史学の大転換は滑稽に見えるからね。自分としては具体的かつ積極的に、この方向へとKちゃんをみちびくことはできないが、この間歴史学の世界で行われた大転換を見ていると、また次の、第三の道がありそうな気がするんだね。しかもそれはどこかで、Kちゃんや自分が年寄りに話してきかせられた、森のなかの土地の昔語りと結びつくような予感がするんだ・・・・・・」(大江健三郎『懐かしい年への手紙』1987年)
「そもそも自分は、夢あるいは物語を語ることのみを「人生の習慣」として、このように年老いるまで生きてきた者ではないか?」(大江健三郎『憂い顔の童子』2002年)
大江健三郎は自らの宿命を生きた。自らの宿命を生き抜くことによって大江は晩年に至って驚異的なまでの大作家へと成長したのである。北一輝も又みずからの宿命を生き抜いた点において大江と同型であった。
第五章 北学の構造
北学とは歴史家の服部之総が北一輝の明治維新史観を評価する際に使った言葉である。北一輝は『支那革命外史』においてフランス革命・辛亥革命・明治維新の三つの革命を縦横無尽に対比し絢爛たる筆致で分析を行っている。服部は講座派の立場から明治維新はブルジョア革命ではなくその前段階の絶対主義であったという学説を保持していた。明治維新はブルジョア革命であったとする労農派の学説を批判する目論見を持って、北一輝の学説を紹介した。その紹介の際に「北学」という言葉を使った。服部によればまさしく「北学」なるものが存在するのである
《「維新革命」はフランス革命のそれと、また眼前に進行中の支那革命のそれと、まさに「同一なる自由主義の基礎に立つ「近代革命」であったとする主張こそ、北一輝をして原敬をはるかに抜いて独自の政論家たらしめるものであるとともに、彼をして後代の無数の孫悟空にたいする大釈尊たらしめるものでもある。》(服部之総「北一輝の維新史観」)
しかし北一輝の学問は維新革命に対する評価だけに限定されるものではなく、人類の進化という現象に関する根本的な評価を含む。そのような意味合いを含めて「北学」の内容とは何であるのか。それを一文で答えよという設問がなされるならば、北の次の一行がその回答になっていると私は考える。
「理想とは来たるべき高き現実なり。進化とは理想実現の連続なり。」(北一輝『国体論及び純正社会主義』第八章。以後、同書の引用は『国体論』と略記する)。
ではその理想はいかにして実現されるのか。この点に関する北の推論は明解である。人類進化の階梯を北は彼の頭脳の中で完璧に描き切っていた。天才の天才たる由縁は脳内現象がその外部の現実と完全一致する奇跡として存在する。北学の真髄は次の言葉にある。
「個人の権威の為には如何なる多数を以ても敵として敢然たるべしとの自由主義は、誠に社会が君主国時代よりの理想として掲げたる所のものなり。社会主義が社会進化の理法に背きて嗚号さるる時に、思想界乱矢を蒙りて戦死し実際に於ては暴民の動乱として忽ち沈圧せらる。社会の一分子が金冠の下に爛々たる眼を光らして社会の大多数を威圧したるの時は、是れ個人の権威は絶対無限なるべしとの理想が先づ社会の一分子によりて実行せられたるの時なり。社会の進化は下層階級が上層を理想として到達せんとする模倣による。(タルドの模倣説は倫理学に於て同一の説明をなして合致せる者ある如く凡て当れり)。」而して模倣の結果はタルドの言へる如く平等なり。群雄諸侯なる君主等は平等観を血ぬられたる刃に掲げて君主と同一なる個人の絶対的自由を得んことを模倣し始めたり。其の最高権威たる天下を取らんとの理想は富の為めに非ず名の為めに非ず、自己の自由を妨ぐる凡ての者を抑圧して個人の権威を主張せんが為めのみ!(北一輝『自筆修正版 国体論及び純正社会主義』第八章。自筆修正版『国体論』は『増補新版 北一輝思想集成』書肆心水2015年刊に収録されている)。
タルドの名前が出てくるのは北の著作中でただこの一ヶ所だけである。タルドの模倣説を自家薬籠中のものとし、日本の歴史に理想が如何に獲得されていったか。その理想の進化の様相を探索し、日本社会の進化の歴史を科学的に解明するところまで展開し著述を行ったのはやはり北の功績であり彼の天才に負う所業であるとしか他に言いようがない。人類社会の進化を促すあるもの、社会的進化の内在律、それは何なのか。北はそれをタルドの理論を踏まえつつ「理想の模倣」の一語で北は総括したのである。(ガブリエル・タルド『模倣の法則』河出書房新社2007年参照)。
「狼の社会に養はれたる人の怪物の子が獣類の歩行を模倣して半獣半人の怪物となりしが如く、吾人は人類社会に養はれて父母の歩行を模倣するが故に人類の形を得るなり。古来より人は理想を有する者なりと云い、傾向の生物なりと云へるが如く、今日の科学的研究も人は模倣性を有することを以て確定せられたる事実とせり。斯の模倣性の為に吾人は母の膝に抱かれたる時より善の如き唇を動かして母と同一なる発音を為さんには如何にすべきかを考えつつあるが如き眺めを以て唇の運動を模倣しつつあり。而して其の辛ふじて発音し得るに至りては其の発音中に如何なる意味が含まるるかも考えへずして発音と共に発音の中に含まるる思想その者を善悪の取捨なくして模倣す。・・・斯く模倣の対象は始めはその父母、家庭、近隣等にして漸次に学校となり、社会となり、書籍となり、古今の人物となり、世界の思想となる。而して是等先在の理想にして尚足らずとせられ更に一層の高き対象を求むるに至るや、茲に其の已に模倣して得たる先在の材料を基礎として、各個人の特質を以て更に高き者を内心に構造し、構造せられたる理想を模倣することによりて到達を努力す。此の特質と其の構造せられたるものの高貴偉大なる者が即ち英雄なり。」(北一輝『国体論』第四章)
北一輝のすべての発想の根源にあるのは「進化」という考え方であった。この「進化」はダーウィンの進化論に触発されたものであるのは勿論だが、北の場合に於いてはそれが生物種としての人類の社会的進化の原動力は何なのかという問いの形で再提起される。人類の進化を促す根本原理を問うという形で思考が展開されていくのが北の推論の特徴としてあった。北一輝の学問の中身は社会進化論と既存の国体論批判の二つの柱を持っている。北の国体論、その内実はどのようなものであったか。日本の国体は永遠不変のものではない、国体論者は誤ってそのような主張をするのだが、実は日本の国体は三段階に「進化」したのだと北は説く。
「日本の国体は三段の進化をなせるをもって天皇の意義又三段の進化をなせり。第一期は藤原氏より平氏の過度期に至る専制君主国時代なり。此間理論上天皇は凡ての土地と人民とを私有財産として所有し生殺与奪の権を有したり。第二期は源氏より徳川氏に至るまでの貴族国時代なり。此間は各地の群雄又は諸侯が各其範囲に於ておいて土地と人氏とを私有し其上に君臨したる幾多の小国家小君主として交戦し聯盟したるものなり。従て天皇は第一期の意義に代ふるに、此等小君主の盟主たる幕府に光栄を加冠するローマ法王として、国民信仰の伝統的中心としての意義を以てしたり。此の進化は欧洲中世史の諸侯国神聖皇帝ローマ法王と符節を合する如し。第三期は武士と人民との人格的覚醒により各その君主たる将軍又は諸侯の私有より解放されんとしたる維新革命に始まれる民主国時代なり。此の時よりの天皇は純然たる政治的中心の意義を有し、この国民運動の指揮者たりし以来現代民主国の総代表として国家を代表する者なり。即ち維新革命以来の日本は天皇を政治的中心としたる近代的民主国なり。」(北一輝『日本改造法案大綱』)
北は進化論が社会科学を含むすべての科学の根底にあるべきだと考えた。社会は進化する。しからばその進化をもたらす原動力、内的要因は何であるかが問題となる。北はどのようにしてこの問題を解いたか? 社会の進化は理想の模倣によってもたらされる。これが北の結論であった。
しかし北一輝の掲げる進化学説の究極の課題は、ただに日本の国内政治の改造にあるのみではなかった。世界史の現況を大観し、人類の理想の進化を図るには、日本はいかに行動すべきか。隣国中国の革命に対して如何に関わるべきかを北一輝は考察し、その考察に導かれるがままに実践した。北一輝の理論と実践は合致しており一点の齟齬もなかった。
「太陽に向って矢を番ふ者は日本其者と雖も天の許さゞるところなり。日本は天地の正義に従ひて始めて太陽旗に守護せらるべきのみ。」「言ふ所の者は匹夫一輝なり。彼奴をして言はしむる者は天なり」(北一輝『志那革命外史』)
北は自らを匹夫と称する。北は一民間人、草莽の資格に於いて語ることを願っているのだ。しかしその語る言葉は「天の声」であるとも北は告げる。天地の正義に従え、天地の正義に逆らうもの、太陽に向かって矢を番うものは、日本そのものといえども許さないのだと北は語る。北一輝のこの立言は西郷隆盛の「敬天愛人」の理念にまっすぐに連なるものである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10071:200831〕
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