小説『ドン・キホーテ』を散策する
- 2020年 9月 4日
- カルチャー
- 合澤 清
(この雑文は入院前にほぼ書き終えていたものですが、今回一応見直してみました)
8月に入ってやっと長くて憂鬱な梅雨が明けた、と思ったら今度は連日の酷暑(午前4時半過ぎには我が家の室温がもう29.4℃になっている)。しかも湿度は相変わらず高止まり(75%ぐらい)。扇風機からは熱風しか出ない。これでは到底じっくりとものを考えようという気にもならない。猛暑の上にコロナ禍が追い打ちをかけている。
避暑地や冷房を利かせた涼しい場所で、安逸な生活を送っている為政者(エリート層)にとって「頭を使わない(使えない)国民」くらい操作しやすいものはないだろうと思うと癪に障る。
われわれ庶民は、こういう時期には、今出来うる最小限のことをやって明日に具えて自己防衛するしかないだろう。
無責任なお上の「外出自粛」指令などチャンチャラおかしいので、相変わらずときどきは居酒屋に通う。この程度やらなければ本当に「不安神経症」にかかるかもしれないからだ。
それでも今年は、家にじっとしている時間が普段より格段に長くなっているため、何か気休めになることをしなければと考えた挙句、何度か読みかけて中座した大部の小説など読み直してみようと思い立った。あまり深刻なものは駄目だ。鬱を吹き飛ばすようなものが良い。ということで思い出したのが、『ドン・キホーテ』である。
たしかこの本に初めてチャレンジしたのはまだ学生のころだった。岩波文庫で最初の一冊ぐらいは読んだかもしれない。何だか「お笑い本」のようで、つまらなさを感じてやめた。以来、何度か手に取った記憶はあるが、その都度途中で放り出している。いつも思うのは、どうしてこれが世界的な名著といわれるのだろうか。風車に見えているが、これは魔法による幻覚であり、実際には巨人であると考え、果敢に戦いに挑み、無残に叩きつけられる。子供のころ漫画本で見たことがあったが、その頃からつまらなさを感じていた…。
そしてこの子供のころ植えつけられた先入見が今日まで二の足を踏ませて先へ読み進めなかった。しかし今回は「ばかばかしさを我慢して」読み通そうと覚悟した。
小説『ドン・キホーテ』のすごさと面白さ
覚悟を決めたため、今回は文庫本ではなく、いきなり全訳本を手に取った。『才智あふるる郷士 ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 前・後篇』セルバンテス著 会田 由訳(筑摩書房:筑摩世界文学大系15 1972)である。
呆れるほどの分厚さだ。大判の判型で三段組み、本文だけで679頁、脚注や解説などを容れると732頁にもなる。
今どきの活字嫌いの若者は手に取ることすらしないだろうが、そこは子供のころ活字文化の中で(実際に、それしか楽しみがなかったせいでもあるが)鍛えられた経験もあり、蛮勇をふるいながらも、最後まで読み通す忍耐力があるだろうかと、怯えながら頁を繰っていった。
この本のあとがき(解説)の中で、翻訳者の会田 由先生が書かれているが「…『ドン・キホーテ』といえば、先ず知らない人はないだろう。それでいて、本当に『ドン・キホーテ』を読んでいる人は…本国のスペインでも寥々たるものだ。…子供のころ見た絵本か、童話だけで『ドン・キホーテ』を読んだ、おぼろげな記憶だけで、めいめいの胸の内に、何かしらドン・キホーテのイメージを抱いている」というのが実情だそうだ。
興味深いのは、「『ドン・キホーテ』が『ファウスト』や沙翁の諸傑作の如く、世界文学の至宝として絶大の価値を認められるに至ったのは、19世紀に入ってからで、しかも、この見直しに先鞭した人たちがイスパニア人でなく、シェリング、ハイネ、フローベル、ツルゲーネフ等の外国諸家であったことは、世界的の価値なるものにしばしば伴う現象として、興味深い例証と見られよう」。これは岩波文庫版の翻訳者永田寛定先生が『ドン・キホーテ 正編(1)』の解説で書かれている。
ツルゲーネフの有名な講演記録『ハムレットとドン・キホーテ』は、学生のころ一応読んだ。見事な書評だったと思う。
ここではあえてツルゲーネフには触れず、会田、永田の両先生の解説から幾つかを孫引きしてご紹介するにとどめたいと思う。
「悲しいかな、私は後に悟った。『未来』をあまりに早く『現在』にもたらそうとすることは、目前の激しい利害に対するそのような戦いに臨むのに、ひょろひょろ馬と、間に合わせの具足と、劣らず脆弱な体躯としか持たない限り、酸鼻を極める狂人沙汰であると。」(ハイネ)
「マダム・ボヴァリイはスカートをはいたドン・キホーテで、魂の悲劇のもう少し小さいもの」(オルテーガ・イ・ガセット)
「…世界文学に永遠の生命をもって付加された作品は、このラブレーの作品(『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』)と、セルバンテスの小説である。何れも反ロマネスクの小説、古い時代のパロディであり、そういう文学に向かって発した哄笑だ。…前記の作品によって、ロマンははじめて、文学において『オデュッセイア』『神曲』と並びうる優越した地位を占めた。…」(アルベール・ティボーデ)
かかる大家の見解にあえて私自身の興味を付け加えるならば、ヘーゲルが『精神現象学』「理性論」の中の「徳と世路die Tugend und der Weltlauf」において「徳の騎士」として扱っているのが、まさにこのドン・キホーテであること。彼の純粋な理想が、世間の荒波の中で無残に打ち壊され、しかもかかる否定(ドン・キホーテの自己否定)を通じて、世路に内在する知を対自化する(否定の否定)、この構造、小説の中ではドン・キホーテの臨終に際しての自覚(悟り)に表現されている、この点にひかれるのである。
セルバンテスとは何者なのか
著者ミゲール・セルバンテスは、シェイクスピアより17歳年長で1547年にスペインのマドリード近郊で生まれている。二人は同世代人である。不確かな記憶ではあるが、シェイクスピアは『ドン・キホーテ』(多分前篇のみ)を知っていたと、どこかで読んだことがある。そして、奇しき因縁なのか、この二人が亡くなったのは、同年の同日1616年4月23日である。
セルバンテスもシェイクスピアもまともな学校教育は受けていない。シェイクスピアは旅回りの一座の役者兼脚本家であったし、セルバンテスは貧しさゆえに早くから世間の荒波にもまれながら働いた苦労人である。
二人のすごさは、その実体験をありきたりの「苦労話」に止めるのではなく、芸術の領域にまで昇華した点にある。
シェイクスピアはさすがに後世、ホメロス、ヴェルギリウスとならんで世界三大詩人と称されるようになっただけあり、人生の甘いも酸っぱいも実によく知り抜いていて、それを見事な作品群に結晶させている。
セルバンテスは、その実人生の奇異さ、波瀾万丈さではシェイクスピアを凌いでいる。
彼は外科医の息子である、と言っても当時の外科医は医者の資格などなく、床屋よりは少しましという程度だったそうだ。極貧の暮らし、しかもご多分に漏れず「貧乏人の子だくさん」(男4人、女3人)だったため、セルバンテスの幼・少年時代の記録は残っていないという。21歳のころ、マドリードの学校に通ったことがあり、エラスムスなどの人文主義に興味を抱いていたといわれている。
22歳でローマ法王の特使としてスペインに来ていたアックワヴィーヴァ(後の枢機卿)の侍従になり、イタリアへ渡る。ここで、ヴェルギリウス、ホラティウスなどの古典や当時のイタリア作家のものを読んだようであるが、やがてそこを去る。
1571年、十字軍最後の戦いといわれるレパントの海戦(初めて十字軍がイスラム=トルコ軍に勝利した戦い)に一兵卒として参加、勇敢な兵士として胸に二か所と左腕に大きな傷を負った。この左腕の傷は「レパントの片手んぼ」と悪口されたようであるが、本人は「右手の名誉をさらにあげるために左手の自由を失った」と言ってこの負傷を誇ったという。
28歳で軍隊を退役し、帰国の途につくが、途中で海賊船に襲われ捕虜となり、アルジェーで5年間の奴隷生活を送ることになる。33歳の時、身代金と引き換えに自由の身になり帰国。36歳の時、女優との間に女の子(イサベル)が生まれる。37歳の時、小地主の娘(18歳若い)と結婚。しかし結婚生活はうまくいかずほとんど別居状態だった。
38歳ごろから小説を書きはじめる。売れない文士として相変わらずの貧乏生活が続く。二度の投獄を経験。
55歳、セビーリャでの入獄中に『ドン・キホーテ』の構想を得たとも言われる。
57歳の時に書き上げ、翌年出版された『ドン・キホーテ』前篇が当時異例の成功をおさめ、6版を重ねたと言われる。そのため、偽作まで現われることになる。
面白いことに、この偽作が現れたことにより、セルバンテスは偽作と違ったストーリーの続き(後篇)を書かざるを得なくなり(この辺のいきさつは、この後篇の中でドン・キホーテ自身が縷々述べている)、結果として前篇以上の好著といわれる後篇の完成が早まったといわれるのである。「ドン・キホーテの死」も偽作との決着をつけるためだったとも言う。
この『ドン・キホーテ』前篇の成功にも関わらず、彼の生活は依然として貧しかったようだ。
1616年、彼が69歳の時、『ドン・キホーテ』後篇が出版された。その年の4月23日、死去。
抜粋を結語に代えて
先ほども述べたように私自身の問題意識は、あくまでヘーゲルが「徳と世路die Tugend und der Weltlauf」の中で展開している読み方にある。
簡単に言えば、ドン・キホーテは、理想そのもののためにこそ生きるのであって、自分一個のために生き、自分一個のことだけ慮るのを、恥辱と思った、という純粋性(「美しき魂」)を世間にむけて貫こうとするが、脆くも挫折、世間の手ごわさと世路に内在する知(例えば、サンチョ・パンサが無数に繰り出す諺などがその実例となる)を知ることになる。
ここでの抜粋もそういう興味からやや強引な点があろうかと思う、ご海容願いたい。
先ず、面白いのはこの著作の作者は、シーデ・ハメーテ・ベネンヘーリという名前の架空のアラビア人になっていて、このアラビア人のメモが発見されて開陳されるというストーリー展開になる。
前篇第四章
「やあやあ、天下の人間ことごとく止まれ。ラ・マンチャの女帝にして佳麗双ぶものなきドゥルシネーア・デル・トボーソにまさる乙女、天下になしと認めざるうちは、天下の人間の一人をも通すものでないぞ。」
「お武家さま、てまえどもは、今おおせられたよいお姫様がどういうお方か存じ上げません。ひとつ、お目にかからせて頂きましょう。そのうえで、おおせどおりの美人でいらっしゃいましたら、ごさいそくをうけるまでもなく、認めろとおおせの事実を、すすんでおみとめいたしましょう。」
「姫を見せてのうえであれば」と、ドン・キホーテは答えた。「これほど明らかな事実を認むること、意味をなさぬではないか。肝要なのは、見ずして信じ、見ずして認め、見ずして請け合い、見ずして誓い、見ずしてお味方することじゃ。それができぬとあらば、おお、非倫我慢の怪物ども、汝らはもはや身共と合戦じゃ。…」
*ここで、ドゥルシネーア・デル・トボーソという姫君は、実はドン・キホーテが「遍歴の騎士」になるための必要上、勝手に一面識もない隣村の女性を騎士がそのために闘う「思い姫」と定めたまでの想念であり、実際にはただの「田舎娘」にすぎないのである。
前篇第十一章
「むかしの人たちが《黄金時代》と名づけた遠いむかしこそ、たのしい時代、幸福な世紀じゃ。・・・そのころ生きていた人たちが《おまえの》、《わしの》という二つの言葉を知らなかったからじゃ。あの聖なる時代においてはあらゆる物が共有だった。いかなる人間の、日々のかてをうるためには、太い樫の木にわけてもらうことしかしないでよかった。かしの木は、熟してうまい実を惜しげなくふるまったのじゃ。清らかな泉と流れる川とが味のよい透きとおった水をいともふんだんに与えたのじゃ。・・・」
*ドン・キホーテがあこがれるのは「原始共産社会」なのか?
前篇第十四章
(自殺した羊飼いの片思いの恋人)マルセーラ「・・・真の愛は分けられるものでない、心におのずと湧くもので、よそから強いられるものでもないとか。・・・」
*このマルセーラの自己主張はなかなかのもので、感心する。ここに書きぬいたくだりは、スタンダールが『恋愛論』の中に取り込んだのではないかと思う。スタンダールは、「愛は自然にはぐくまれるのが最も美しい」というようなことを言っていたように記憶しているが。
前篇第四十九章
「拙者はみずから魔法にかかっていることを知っておるばかりか確信いたしている。それだけで、拙者の良心の安らぎには十分じゃ。もしも拙者が魔法にかかっておらず、安閑と意気地なく檻に入れられるままになって、今このおりにも拙者の助力と庇護をひたすらに必要といたしておるに相違ない、あまたの窮せる者、苦しむ者どもに、与え得たでもあろう援助をむざむざ見すごしておると考えたらばじゃ、拙者の良心のうずきも、さぞやはげしいことであろうな」
*ドン・キホーテの心意気がよく出ているのではないだろうか。
後編のセルバンテスの読者への序言
人としての誇りは貧しい者も持つことができる。しかし不徳な人間には持つことはできぬ。貧しさが気高さを曇らせることはあっても、全く暗闇にしてしまうことはない。しかしながら、徳というものは、たとえどんな障害があったにしろ、どんな窮乏の隙間からにしろ、いくらかの光を自分の中から放つものだから、高く貴い精神の人々に尊ばれ、ひいては庇護を受けることにもなる。
後編第五章
「…いつだってあたしゃ上下なしが好きだったのさ、だから、理由もないのにお高くとまっているなあ見ていられないんだよ、…あたしゃ洗礼の時、テレサって名をつけられた。なんの付け加えも、余計な付け足しも、ドンだのドニャだのいう飾りもない、きれいさっぱりむき出しの名さね。…あたしゃ、この名前で沢山、このうえにドニャなんぞ乗せてもらいたかないよ、重くってとても乗せちゃいられないだろうよ。…。」
*これはサンチョ・パンサの女房の言葉であるが、なかなかの名セリフだと思う。
後編第十七章
「《猛きライオンの騎士》…今日からは、これまで名乗っていた《憂い顔の騎士》を、この異名に改め、変え、変革し、転じようと思うからじゃ。これによって、拙者は遍歴の騎士の古い習わしに従うわけで、彼らは自分の好きな時に、あるいはそれがふさわしいときに、名前を変えていたものじゃ」
*ドン・キホーテがライオンの檻を開けさせて、甲冑姿で槍を構えてライオンに立ち向かう有名なシーンである。あいにくライオンは、彼が眼に入らなかったと見えて、寝返りを打って向うを向いてしまい。勝負はあっけなくドン・キホーテの勝ち(?)となる。
後編第七十四章
人間にまつわる事柄は全て永久不変ではない。常にその初めから、最後の結末まで下降を続けて行くもので、ことに人の生命にいたっては、なおさらである。かくてドン・キホーテの生命も、その過程をおしとどめる天の特別の免除を受けていたわけではなかったから、彼自ら考えてもいなかった時に、その最後と終末はきたのである。なぜならば、あるいは敗北を喫したということに由来した憂鬱のためであろうか、執拗な熱にとりつかれて、そのために六日のあいだ床につかねばならなかったからであって、その六日のあいだは度々住職や得業士や床屋などの彼の友達が訪れて来たし、彼のよき従士サンチョ・パンサも枕辺からはなれることはなかった。…。
「あんた方喜んでもらいたいよ。わしはもうドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャではない。いつもわしの常住の言動のために《善人》というあだ名をもらっていたアロンソ・キハーノになったのです。…すでにわしにとっては、遍歴の騎士道に関するあらゆる冒涜の物語はいまいましいものになりました。今に至ってわしの愚かさと、ああいう書物を読んで自ら陥っていた危険がよくわかるのです。今に至っては、神の広大無辺のお慈悲によって、わし自身の頭はきれいに洗っていただいたので、ああいう書物には吐き気を催すようになりましたわい」
(サンチョ曰く)「…この世の中で人間が人間に出来る一番でっけえ気違いってものは、誰にも殺されもしねえし、胸の憂いちゅう手のほかには、その人を絞め殺す手もねえだというのに、…」
以上暑さしのぎの散策として、ほんのさわりをご紹介させていただいた次第です。興味のある方はぜひ直接本文をお読みになることをお勧めしたいと思います。
2020年8月31日記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0929:200904〕
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