松井英介先生を偲んで
- 2020年 9月 13日
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8月19日、放射線専門家として内部被ばくの脅威を訴え、フクシマ原子力災害の被災者のために活動されてきた松井英介医師が逝去されました。82歳でした。数年前から松井先生は、造血障害を起こす「骨髄異形成症候群(MDS)」と呼ばれる難病と、強いご意志をもって闘われてきましたが、ついに病魔を克服することはできませんでした。
私は、2014年に起こった「美味しんぼー鼻血騒動」について松井先生が公表された声明書の英訳や先生が立ち上げられた、乳歯中のストロンチウム濃度を測定する「乳歯保存ネットワーク」のプロジェクトに関する様々な資料・インフォメーションの英訳など、主に翻訳関係の仕事をさせて頂いたことで、先生との関わり合いを持たせていただくようになりました。実際に先生とお会いしたのはベルリンで、ほんの2回ほどでしたが、先生の立派なお姿は、これからも私の心の中でしっかりと生きつづけていくことでしょう。
松井英介医師 ー 2012年ベルリン工学大学にて講演 (写真提供:松井和子夫人)
松井先生は、フクシマ原子力大惨事の被災者の方々に対して並ならぬ深いエンパシーを抱いて行動された医師でした。松井先生は「自分の医師としての役目は福島大災害によって甚大な被害を受けた人たちと痛みを共有し、解決の方策を探ることです」と、ご自分の活動の指針について語られていました。先生の行動は、医療相談だけにとどまらず、被災者の方々一人一人にあって対話をされて、被災者の苦しみに共感され、被災者、それぞれ一人一人の方々と共に解決の方策を探っていこうとすることまでに及んでいたのです。
2014年7月7日、「脱被ばく いのちを守る」の出版にあたり、先生は、こう記されています:
「脱被ばく=子どもや妊婦をはじめ全ての人にこれ以上、人工放射性物質による被ばくを強いることのないよう一日も早く汚染の少ないところに移り住めるようにする。子どもたちのいのちを守りたい。3.11大惨事に直面して以来ずっと、このことが頭から離れませんでした。」
「被ばくから子どもたちを守りたい… 。」まさに、この事こそが先生の心底からの叫びでした。福島原発事故発生以後、先生がとられてきた行動が、そのことを物語っています:
2011年6月、郡山に住む14人の子どもたちが原告となって「自分たちは空間放射線量が1ミリシーベルト以下の安全な環境で教育を受けるために避難したい」と、福島地裁郡山支部に申し立てたことがきっかけとなって、「ふくしま集団疎開裁判」が始まりました。同年10月28日、松井先生は集団疎開を訴える原告側の証人として、33頁に及ぶ、放射線専門家としての「意見書」を裁判所に提出しました。
2013年4月17日、松井先生は「脱被ばくを実現する移住法」の制定を提言され、「福島原発事故のために放射能汚染地域に住む人々に集団移住権利を認めさせよう!」と、日本の市民に呼びかけました。
2014年2月10日、松井先生は様々なエキスパートや市民たちと協力し合って、内部被ばくからいのちを守るための冊子「健康ノート」を発行しました。「健康ノート」は、福島原発事故の影響を受けた人たちのために作られたもので、汚染データも含め、被災者の方々の事故後の行動や心身の変化を記録して、長期に及ぶ放射線の影響を考慮し、健康管理や病気になったときの診療、因果関係の証明に生かすために作成されました。
「乳歯保存ネットワーク」
2015年9月、松井先生は、日本全国から乳歯を集めて乳歯中のストロンチウム90の濃度を測定し内部被ばくの実態を明らかにすることを目標に「乳歯保存ネットワーク」を立ち上げました。2018年、ストロンチウム90を測定する「はは測定所」が開設され、そこで現在、乳歯中のストロンチウム90を検出する調査が進行中です。
松井先生は、亡くなられる数日前の8月15日に、このプロジェクトを援助支持してくださったドイツやスイスの科学者たちにメッセージを送られました。その中で先生は下記の言葉を残されています:
「…..しかしいま、私個人はストロンチウム90の影響と思われる病を抱え、闘病中です。その病は、骨髄異形成症候群(MDS myelodysplastic syndrome)です。この病は、広島・長崎の原爆数年後から被ばく者に見られるようになり増加していましたが、日本で人類が経験した最大最悪の3.11原発事故以降、いま関東圏を中心に日本各地でMDSの患者さんの増加が指摘されています。
……私たち『はは測定所』では、バーゼル研究所で研修を受けた仲間を中心に、日々乳歯中ストロンチウム90の測定を進めております。今後ぜひこの結果を、日本だけのものとせず、スイスをはじめ多くの国と共有し、研究者たちの叡智と力で解析し、世界の未来世代のために生かしていたいと望みます。(加えて遠くない将来、私が命を終えたときは、私の歯と骨も、その取り組みに生かしていただけましたらうれしく思う所存です。) 核のない未来を願って 松井英介」
Beharrlich
ドイツ語に、「beharrlich (ベハルリッヒ)」 という言葉があります。“Beharrlich“とは「ねばり強い・忍耐強い・頑強な」といった意味を持つ形容詞(副詞)です。私は、この “beharrlich”という言葉が、松井先生の「生きてこられた姿」を描く上で、とてもぴったりとした表現ではないか、と思うのです。そうです。先生は、ねばり強く、内部被ばくの脅威を訴えつづけ、忍耐強く、フクシマ大惨事の被災者を守るために活動されました。そして、揺るぎない一念を持って頑強に、核のない世界を求め行動しました。
最後に
松井先生は、岐阜環境医学研究所・座禅洞診療所の所長として、2004年3月1日から始まって、毎月一回、ご自分の思いを綴られた「座禅洞だより」を発行されていました。松井和子夫人のお話では、松井先生は、高熱を出して、かなり衰弱されていたにもかかわらず、「どうしても書くのだ」と主張されて、車椅子に座ってパソコンに向かわれ、時々目を閉じられ休まれながら、最後の「座禅洞だより」を書き上げられたそうです。
悲しいことに、先生からの最後の「おたより」となってしまいましたが、ここに、「座禅洞だより」最終版 – 「ゆっくり人を殺す人たち」をご紹介させていただきます。
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座禅洞だより 2020年8月1日
ゆっくり人を殺す人たち
人は人をなぜ殺すのでしょうか
私の身近で、私が知る、殺人を振りかえってみようと思います。
地下鉄サリン事件をご存知でしょうか?
1995年3月20日に東京都で発生した同時多発テロ事件(死者14名、負傷者約6,333人)。世界でもまれにみる大都市圏でひきおこされた、化学兵器を利用した無差別テロ事件として有名です。事故は通勤時間帯の霞が関で起きました。普通の人たちが被害に遭いました。今も大切な人を失った悲しみや後遺症で苦しんでいる人たちがいます。
今年は戦後75年。
1993年学会の帰り、私は新宿で行われていた第1回731部隊展で、戦争中に地図から消されていた広島県大久野島で、7,000トンに及ぶ大量の毒ガスを製造し、中国戦線に送り出していたことを知りました。国際条約(1925年ジュネーブ議定書)に反して、日本の皇軍は生物兵器や化学兵器を使い、一般の罪もない多くの人びとを殺しました。ペスト菌はじめ炭疽菌や毒ガスなど、その傷跡は今も残っており、ペスト感染ネズミの追跡が続けられています。
しかし私たち日本人の心に深く根を張っている天皇=英霊崇拝意識と日本人自らの戦争被害者意識、日本民族は優秀であるという意識は、誰が被害者で、誰が加害者かをあいまいにしてきたのです。
もうひとつは、私個人が背負わされた病気です。
骨髄異形成症候群(MDS myelodysplastic syndrome)。
間もなく10年が経過する、2011年3.11フクシマ第一東電第一原発大惨事(フクシマ)。
この人類が経験した最大最悪の原発事故以降、MDSの患者さんは病院データから、東日本及び日本各地で増加が指摘されています。
骨髄異形成症候群(MDS)は、進行すれば白血病への移行もありうる難病。 米国で開発された「ビダーザ」は、MDSの治療に大きな効果を発揮する、画期的な新薬として注目されています。 日本新薬では2011年3月に「ビダーザ」を発売しました。私は2018年1月からビダーザを毎月一回注射、治療を開始しました。MDSは、その後約2.5年比較的良好な効果が期待できましたが、現在はもはや効果なく、赤血球と血小板を週一回輸血し、血液の状態を整えているところです。私はMDSや白血病でゆっくり人を殺す人たちを、忘れてはならないし、免罪してはいけないと、自らに言い聞かせています。原発を推進した“平和利用”はまやかしの言葉です。
病気や障害の原因の多くは環境によるものです。仕方がないとあきらめるものではありません。
紹介した以上の例は、権力を手にしたい、支配したい者たちの手によるもの、人の手によるものです。
私たちは、子どもたち未来世代のために、事実を知り、知らせ、どう行動するかを考えるべきです。
今の自分を見つめ、何ができるかを考えるときです。
松井英介
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10107:200913〕
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